「比企能員」鎌倉殿の13人のひとり。源頼家の乳母夫・外戚となった御家人の短い権勢と転落

鎌倉幕府の将軍(鎌倉殿)の地位が頼朝から嫡男の頼家に継承されてから、にわかに権勢をふるったのが比企氏です。

比企能員(ひき よしかず)は、頼朝の恩人と言ってもいい乳母・比企尼の猶子となり、その縁から頼朝に重用されました。頼家の乳母夫になっただけでなく、娘・若狭局が頼家の側室として長男の一幡を産むと、外戚として力を強めていきました。しかし、それが長く続くことはありませんでした。

比企尼の猶子となる

比企能員の父母については未詳ですが、源頼朝の乳母(めのと)の比企尼(ひきのあま)がおばにあたるとされています。のちに能員は比企尼の猶子となり、比企氏を継ぎました。

これは比企尼に男子の実子がいなかったとか、比企朝宗(ともむね)という実子がいたものの、すでに高齢で亡くなっていたために後継者がおらず、甥の能員に白羽の矢が立ったともいわれます。

頼朝の側近として信頼を得る

頼朝が伊豆に流されると、比企尼はわざわざ関東の武蔵国比企郡(現在の埼玉県)に移って頼朝に仕送りをするなどして支えました。この養母と頼朝の関係を見ると、おそらく猶子である能員もかなり早い時期から頼朝を支える一員となって仕えていたものと思われます。

そのおかげもあってか、寿永元(1182)年に頼朝の嫡男・頼家が生まれると、能員は乳母夫(めのとぶ/養育を任される後見人)に任じられました。これは頼朝が比企尼の長年の恩に報いたいと言ったところ、比企尼が能員を推挙したため選ばれたともいわれます。

その後は、元暦元(1184)年から翌文治元(1185)年にかけて頼朝異母弟の源範頼とともに西国へ向かって平家追討に力を注ぎました。頼朝と平宗盛の対面時には、能員が取次を務めています。

また、同年7月の奥州藤原泰衡追討においては北陸道大将軍として活躍。さらに建久元(1190)年の大河兼任挙兵時には東山道大将軍として戦いました。

頼朝の二度の上洛時には能員も上洛しており、頼朝の側近として信頼されていたことがうかがえます。

頼家の外戚となる

能員が頼家の乳母夫となったことで比企氏は頼家に近く、そのつながりから能員の娘・若狭局が頼家の側室となって、建久9(1198)年に長男の一幡を産みました。

こうして頼家の義理の父となった能員は、翌建久10(1199)年に頼朝が没した後も、頼家の外戚として権勢をふるうことになります。頼朝の没後は「十三人の合議制」という13人の御家人たちによる体制が敷かれ、能員はその一員になっています。

しかし、能員にはこれといった権力基盤がありませんでした。彼の権勢を支えるのは姻戚関係にある将軍・頼家ただひとりであり、頼家の立場が揺らげば一気に崩れてしまうほど比企氏は不安定だったのです。事実、比企氏の所領や所職といえば、「武蔵国比企郡」、「信濃国目代・守護職」、「上野国守護職」、「北陸道勧農使」程度で、かなり少なかったようです。

この不安定さは、同じ将軍の外戚であった北条時政もほとんど変わりませんでした。時政も将軍の外戚として尊重されながらも、頼朝から頼家に代替わりするとほとんど蚊帳の外になっていました。

比企氏の乱

よく似た立場にあった比企氏と北条氏。建仁3(1203)年に頼家が発病すると、両者の対立は表面化しました。というのも、対立できるだけの下地は整っていたのです。

頼家の乳母夫かつその長男・一幡の外祖父である能員。一方の時政は、このころ千幡(のちの実朝)の乳母夫であった阿野全成が失脚したために、空いた乳母夫の地位を得ていました。

頼家が危篤に陥るなか、一幡が次期将軍となれば能員が、千幡が次期将軍となれば時政が権力を手にすることになります。

8月27日、いよいよ危ないらしい頼家の跡目を決めるための評定が開かれ、一幡が「関東28か国の地頭職と惣守護職」を、千幡が「関西38か国の地頭職」を得ることが決まりました。危篤状態の将軍にはまったく相談もなく、長男と弟に二分されることが決められてしまったのです。

話は一幡が将軍職を継承することを前提に進められたようで、その点はまずまず能員有利といえますが、それでもこのように二分されてしまったのは不満だったのかもしれません。

『吾妻鏡』によると、それから数日後の9月2日、事件が起こったといいます。頼家の寝所で頼家と能員が時政討伐の密談をしていて、そしてそれを政子が障子越しに聞いていたというのです。これはすぐに時政の知るところとなり、時政は瞬時に能員を討つことを決めました。

時政は大江広元に比企氏討伐を相談したものの、広元はのらりくらりとはぐらかして明言を避けました。しかし時政は広元から色よい返事が出るのを待つことなく、天野遠景と仁田忠常に能員殺害を命じてしまいます。

そしてなんと同日中に能員を討ってしまいました。時政の邸で行われる薬師如来像の供養会に能員を誘い出し、軽装で現れた能員を殺害させたのです。残りの比企一族も、一幡の小御所に押し掛けた追討軍に敗れて滅亡しました。一幡もこの時に討たれて亡くなったといわれます。まだ6歳でした。

黒幕は誰か

ところで、この事件を単純に能員VS時政と見ていいのかどうか、疑問が残ります。『吾妻鏡』の記述は北条氏に都合がいいように編集されている可能性もあるからです。

この事件を別の視点から見るための材料に、天台宗僧侶・慈円による歴史書『愚管抄』があります。『愚管抄』は能員の謀反については伝えず、ただ時政が能員を暗殺して一幡の小御所を襲撃したことを伝えています。

慈円が能員の謀反についてだけ知らなかったことも考えられますが、両者を照らし合わせると、事件の引き金を引いたのが能員だったのか、それとも時政だったのか、よくわからないのです。

またこの記述の違いから浮かび上がるのは、偶然その場に居合わせて時政討伐の密談を聞いたという『吾妻鏡』の政子の存在です。

そもそも、能員にしても時政にしても、8月27日の評定の結果に本当に不満を抱いたのでしょうか。能員にとっては一応一幡有利の結果となり、一方の時政にとっても一幡がすべてを手にすることがあり得たにもかかわらず関西38か国の地頭職を得たわけで、千幡の乳母夫としていいスタートダッシュを切ったといえるでしょう。

この時存在感がなかった人物といえば、政子です。事件後に政子は頼家を出家させ、家督を千幡こと実朝に譲らせました。その上で実朝を時政の邸に置き、時政に権力を託しています。

この結果、実権を握ったのは時政ですが、頼家を退かせて実朝を時政に託したのは、ほかでもない将軍生母の政子です。鍵を握るのは政子であるということは、その後時政の継室・牧の方が起こした牧氏事件を経て、政子が実朝を義時邸に移したことで時政が立場を失ったことからもよくわかります。

政子は比企氏の乱をきっかけに存在感を示したといえるでしょう。

比企一族の滅亡

頼朝を支えた比企尼の一族は、こうしてあっという間に滅んでしまいました。能員が頼家の乳母夫・外戚として権勢をふるったのは本当にわずかな期間でした。

能員の敗因は、頼家以外に頼るものを持たなかったことでしょう。これはほとんど同様の立場であった時政にも当てはまることです。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 『世界大百科事典』(平凡社)
  • 『日本人名大辞典』(講談社)
  • 岡田清一『北条義時 これ運命の縮まるべき端か』(ミネルヴァ書房、2019年)
  • 永井晋『鎌倉幕府の転換点 『吾妻鏡』を読みなおす』(吉川弘文館、2019年)
  • 元木泰雄『源頼朝 武家政治の創始者』(中央公論新社、2019年)
  • 渡辺保『北条政子』(吉川弘文館、1961年 ※新装版1985年)
  • 『国史大系 吾妻鏡(新訂増補 普及版)』(吉川弘文館)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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