「旧満洲国探訪 大連」満州への夢を膨らませ、その第一歩を踏んだ玄関口には、今も憧れの景観が残る…

満州の玄関口「大連」

 日露戦争後、日本はロシアから遼東半島南端部の租借権を譲渡され、この地を「関東州」と命名した。「関東」とは、万里の長城に設けられた山海関の東側のこと。つまり、満州全域を意味する言葉でもある。

 関東州には旅順、大連、金州といった3つの地域があり、中心に位置する大連ではロシア統治時代から港湾施設や市街地の整備が進められていた。

 日本は大量の資本を投入して建設途上だった近代都市・大連を完成させ、日本資本や移民たちを迎え入れる満州の玄関口として機能するようになる。

 大正12年(1923)に改修工事が完了した大連港第二埠頭は、3 万トン級の大型船舶が接岸できる東洋随一の大埠頭だった。「東亜に誇る大埠頭」と、大連市歌にも唄われる大連の象徴的存在にもなる。

 翌年には大連埠頭待合所も完成。昭和時代に入ると神戸〜大連間を旅客船がほぼ毎日運行されるようになり、5000人が収容できる待合所は旅客であふれていた。

大連港。建物は埠頭船客待合所
大連港。建物は埠頭船客待合所

 昭和7年(1932)に満洲国が建国されて、日満間の人流はますます増えてゆく。その玄関口である大連の重要度は高まる。

 市域の人口も増大した。ロシア統治時代には4万人程度だったが、昭和10年(1935)頃になると40万人に迫り、5年後の昭和16年(1941)には人口約68万人を数える満州最大の都市に成長した。

ヤマトホテルでアイスクリームを……

 大連港から山縣通り(現在は人民路)に入る。

 ロシア時代はモスコフスキー通りと呼ばれ、日露戦争後はこの名称に変更されている。路面電車が走る広い通りには税関や取引所、海運会社や日系商社の支店が建ちならぶオフィス街で、東京でいうなら丸の内のような場所だった。

 山縣通りを1kmほど進むと、市街地の中心である大広場(現在は大連中山広場)に着く。

大連中山広場
大連中山広場

 公園整備された直径約213mの円形の広場で、外周をぐるりと囲む道路からは10本の幹線道路が放射状に延びている。欧米の街にはよくあるランドアバウト(環状交差点)と呼ばれる道路構造。ロシア時代にパリのエトワール広場(現在のシャルル・ドゴール広場)を参考に設計されたものだ。

 大広場の外周道路沿いには、大連市役所や朝鮮銀行、横浜正金銀行、東洋拓殖会社などの建物があった。

旧大連市役所
旧大連市役所

 ゴシック様式の重厚な石造りの建物がならぶ景観は、ヨーロッパの街を彷彿とさせる。日本内地からの観光客が「東洋のパリ」と呼び憧れた眺め。人気の観光名所でもある。

 大連ヤマトホテル(戦後は「大連賓館」に名称変更、2018年までホテル営業していた)もまた大広場の外周道路沿いに建っている。

大連ヤマトホテル(大連賓館)
大連ヤマトホテル(大連賓館)

 満州最大の企業である南満州鉄道株式会社が経営するホテルチェーンの旗艦店。大正3年(1914)に完成したネオ・ルネッサンス様式の贅を尽くした外観は、広場周辺の建造物のなかでもひときわ目立つ存在だった。他のホテルよりもドレスコードは厳しく、着流しや素足の雪駄だと入館を拒否されたとか。屋上のルーフガーデンでは、当時まだ珍しいウエハース付きアイスクリームが売られ、ホテルの名物として知られていた。

 日満連絡船で大連港に上陸するとヤマトホテルに直行し、まずは屋上から眺める大広場を背景にアイスクリーム片手の記念撮影……というのが、当時の満州観光ではお決まりのコースだったという。満州の最高級ホテルなだけに、夏目漱石やラストエンペラーの溥儀など、歴史上の有名人も数多く宿泊している。

 昭和18年(1943)に東亜旅行社が発行した大連市内の旅行案内によれば、室料は素泊まり5円、2食付9円。市内の旅館が4〜6円というところ。

 現代の東京都心にある外資系一流ホテルに泊まるよりは、サイフにはかなり優しい感じだが。当時の人々の金銭感覚からすると、どうだろうか?

大連最古の街、ロシア人街も健在

 大広場から北西方面へと伸びる大山通り(現在は上海路)の名称は、日露戦争で満州軍総司令官を務めた大山巌陸軍元帥に由来する。

 通り沿いは三越デパート大連店などが軒をつらねる繁華街で、いつも大勢の人出でにぎわっていた。

 大山通りを500mほど行くと日本橋(現在は勝利橋)がある。大連港と大連駅を結ぶ線路の上に架けられた跨線橋。ロシア時代には「ロシア橋」という名称の橋があったのだが、明治41年(1908)にこれを取り壊して五連アーチの近代的な橋に架け替えられた。

 日本橋の上から南西の方角に目をやれば、当時は鉄路の先に大連駅が見えた。昭和12年(1937)に完成した駅舎は、東京の上野駅をモデルに南満州鉄道建設課が設計したものだ。

大連駅
大連駅
南満洲鉄道(満鉄)のシンボルだった「あじあ号」
南満洲鉄道(満鉄)のシンボルだった「あじあ号」

 出発する乗客はスロープを上がって2階の改札口へ向かい、到着した乗客は 1 階から出るという構造。南満州鉄道がその威信をかけて造りあげた超先進的な駅舎は、ここから満州の奥地へと旅立つ満州移民たちに未来への明るい希望を抱かせる。

 さて、鉄路を横目に日本橋を渡ると、その先にはロシア人街がある。

 明治31年(1898)に清国から遼東半島を租借したロシアは、まず大連に港湾設備を建設した。凍てつくロシアの大地で暮らす人々にとって、温暖な気候で冬でも凍らない海が広がるこの地は理想郷。多くのロシア人が移住してたちまち街が形成された。

 ロシア統治時代の大連には3000〜4000人のロシア人が定住し、その大半がこのロシア人街に住んでいたという。

 現在は「ロシア風情街」と命名され、街並み保存と観光開発がおこなわれている。石畳を敷き詰めた全長約500mのメインストリートには、ロシアが経営していた旧東清鉄道会社社屋(現在は大連芸術展覧館)などの歴史的建造物が建ちならぶ。

ロシア風情街のメインストリート
ロシア風情街のメインストリート
ロシア人街のホテル
ロシア人街のホテル

 華やかなメイストリートから裏路地に一歩入ると風景は一変する。朽ち果てたような古民家があちこちに。

 しかし、中国や日本のものとは違って、屋根や窓などの形状はヨーロッパ風……これもまた、かつて大連に暮らしていたロシア人の生活をリアルに垣間見る貴重な歴史資料だ。

 ロシア人が去った後、家々は中国人が住むようになり、現在に至っているという。

 日本統治下で大連の人口は急増してゆくのだが、移住者は日本人よりも中国人のほうが圧倒的に多かった。

 昭和16年の人口構成を見ると、約68万人の市内人口のうち日本人は18万9951人、中国人は49万4017人となっている。

 日本統治が始まった頃、大連の中国人口は1万人程度だった。36年間で50万人近い数の中国人が大連に移住してきたということは、かなりの住宅難だったろう。

満州への夢は潰えて

 人口増にあわせて市街地は拡大してゆく。日露戦争前まで未開の地だった大広場の南側も、道路が整備されて街並みは広がる。

 大広場の南方約1kmの場所には、旧東本願寺別院(現在は大連京劇団事務所)が現存している。大正4年(1915)に完成した木造の巨大な建造物は、軒を支える特徴的な枡組などから、ひと目で日本寺院の建築様式だと分かる。

 人々の信仰心が厚かった時代だけに、日本人人口が増えれば、それに見合った大寺院も創建される。

旧東本願寺別院
旧東本願寺別院

 旧東本願寺別院の南西は、緩やかな坂道のつづく丘陵地帯。庭のある大きな家が多く、高級住宅地といった感じ……戦前に建てられた古い洋風建築もそこかしこに目にする。

 かつて植民地を統治した関東都督府職員の官舎、南満州鉄道をはじめとする企業の社宅などの建物も多く現存しているという。

 大連に住む日本人の住宅は、東京や大阪の借家よりも格段に広く、子供たちの部屋も確保できる。隙間風が吹く日本の粗末な住宅と比べて、二重窓の堅牢な構造。街区にはセントラル・ヒーティングが設置され、冬場も家全体がぽかぽかと暖かい。

 また、最良の住環境にくわえて、内地よりもかなりの高給が保証される。

 たとえば、内地で働く大卒サラリーマン初任給が60〜70円だった頃、南満州鉄道では100円が支払われていたという。公務員もまた外地手当で潤い、大工や職人の賃金も内地とは2倍近い差があった。物価も安く、庶民でも気軽に外食やレジャーが楽しめる。

 日本政府もそんな満州暮らしの魅力を宣伝して、移民政策を促進した。

 ヨーロッパを彷彿とさせる美しい街並み、そこで暮らす人々の豊かな暮らしぶりを紹介する雑誌記事や映画館のニュース映像を、満洲国建国後はよく目にするようになる。

 日中戦争が始まると、戦時統制下で内地の生活が苦しくなるばかり。豊かな生活に憧れる人々は満州への夢を膨らませて、日満連絡船に乗り大連へと渡る。

 東洋一の大埠頭で下船し、満州への第一歩を踏みだす。山縣通りから大広場に至ると、憧れていた素晴らしい景観が広がる。

 この眺めを目にして、満州への夢はさらに膨らむ。豊かな生活の実現を確信した者も多かったはず。だが、昭和20年(1945)8月15日、夢は潰えてしまう。

 満州全土は中国に返還され、日本人は内地へと追い返される。引揚船の出入港となった大連には、ソ連軍に追われ逃げてきた被災民であふれるようになった。空襲で焼け野原となった日本に戻って、まともに食べていけるだろうか? 不安は募る。

 かつて、希望にあふれて満州への第一歩を踏んだ大埠頭には、絶望の色が濃く漂っていた。

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  この記事を書いた人
青山誠 さん
歴史、紀行、人物伝などが得意分野なフリーライター。著書に『首都圏「街」格差』 (中経文庫)、『浪花千栄子』(角川文庫)、 『江戸三〇〇藩城下町をゆく』(双葉社)、『戦術の日本史』(宝島文庫)、『戦艦大和の収支決算報告』(彩図社)などがある。ウェブサイト『さんたつ』で「街の歌が聴こえる』、雑誌『Shi ...

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