戦国期は南蛮衣装が大流行!戦場でも使われていた

戦国時代、ポルトガルから鉄砲が伝来しました。武器を持ち込む商人だけでなく、この時代にはキリスト教を広める宣教師などがヨーロッパから訪れています。鉄砲に関しては織田信長が3000丁もの鉄砲を購入して長篠の戦いで武田軍に挑み、三弾撃ちという鉄砲のデメリットをカバーした戦い方で勝利したことが知られています。

しかしこのころ日本に伝わって流行したのは何も鉄砲だけではありません。西洋人の衣装、南蛮の服装も当時の社会で大流行したのです。

洋服の伝来

日本に鉄砲が伝来したのが天文11年(1542年)、もしくは翌年とされています。ポルトガルから伝わりました。主にこのポルトガルの服飾、またはスペインの服飾が日本で流行しました。1500年代中期というと、ヨーロッパではちょうどルネサンス後期にあたる時代です。

この時代にもたらされた南蛮の服飾文化がいかに日本に根付いたかは、現在にも残る名称が物語っています。少し紹介してみましょう。

カルサン(軽衫)

現在ではあまりなじみがない名称かもしれませんが袴の一種です。当時のポルトガル人は筒の部分に膨らみがあり、裾がキュッとすぼまったズボンをはいていました。しかし、これが当時のヨーロッパ全域で流行っていたファッションかというとそうではなく、中央アジアで大国を築いていたオスマントルコのファッションに近いものでした。

スペインやポルトガルはイスラム圏の支配下にあった歴史もあり、また商人たちはトルコを経由して日本へ渡ってきたことも考えられるので、当時のヨーロッパファッションとは違った文化を取り入れられたのかもしれません。

このカルサンは、江戸時代には武士の旅の装いとして、また大工などの仕事着として定着しています。

襦袢(ジュバン)

ポルトガルの「ジュパン」が転じて根付いた名称で、漢字は当て字です。現代で襦袢というと着物を着る際に着用する下着を指しますが、もともと外国から来たものだったというのは面白いですよね。
ジュパンがもたらされた当時に日本で流行ったのは丈の短い半襦袢ですが、やがて現在のような長襦袢が主流になりました。

合羽

雨具の合羽もポルトガル伝来のものです。もともとの名称は「capa」で、英語の「(ケープ)cape」と語源は同じです。当時宣教師が着ていた黒いマント(外套)を指します。これは豪華な羅紗を使用したマントで見栄えがよかったので、織田信長らの武将が好んで着用しました。

織田信長と黒人弥助のイラスト
渡来した黒人の「弥助」を自らの家臣にしたといわれる織田信長。

天鵞絨(ビロード)

英語では「ベルベット(velvet)」のことで、ポルトガル語の「veludo(ビロード)」がそのまま日本に定着しました。天鵞絨(てんがじゅう)ともいいます。「ビロードのようななめらかな手触り」と表現したりしますが、柔らかくてなめらか、光沢のあるパイル織の一種です。

生地に関しては、ほかにも更紗やメリヤスなどが南蛮から伝わったとされていますが、文献に残るのは近世以降のものもあります。

日本人に洋服はどう映ったの?

つばがついた山高帽子に、長いマント、幅が広いズボンに襞襟(ひだえり/ラフ)。現代の感覚からしても南蛮から来た人々のファッションはなかなか奇抜で派手ですが、当時の日本人にはどのように映ったのでしょうか。

鉄砲が伝来した種子島で、やってきた異邦人の出で立ちを目にした日本人は、あまりに奇抜なファッションに驚きあきれたといいます。

ルネサンス後期のスタイルはヨーロッパでも特に派手であったとされていますが、それが見慣れぬ日本ならなおさら奇妙に映ったことでしょう。襞襟の使用例としては以下のような感じです。

エリザベス一世
エリザベス一世

ミゲル・デ・セルバンテス
近世スペインの作家・ミゲル・デ・セルバンテス

映像作品ではしばしば天草四郎が派手な襞襟をつける姿が描かれますが、南蛮との貿易が盛んであった長崎出身で、キリシタンであったことが大きいですね。

ほか、最近の大河ドラマを見ても「真田丸」の織田信長や「おんな城主 直虎」の直虎が襞襟を着用していました。信長は南蛮文化に興味津々で宣教師たちとの交流も盛んでした。直虎に関しては、商人で栄えた気賀で着用していたので、異国の衣装があってもおかしくありません。

異邦人を見慣れない人々には奇抜に映る姿も、特に異国との商いが盛んであった堺などでは慣れてしまえば意外とありふれた光景だったのかもしれません。

信長が南蛮衣装を存分に取り入れた

南蛮の衣装が武士階級を中心に根付いたのは、織田信長によるところが大きいでしょう。自らが日常的にマントや襞襟を着用しているほか、安土城天主の衣装も南蛮の文化を多分に取り入れたといいます。

信長が安土で開催した祭りでは、御馬廻衆が爆竹をならしながら、信長自身は黒い南蛮笠(山高帽)を被って奇抜な出で立ちであったことが『信長公記』に伝わっています。さらに同じ催しを京でも行い、黒人や伴天連(ばてれん。宣教師のこと)を行列に加えて練り歩いたとか。

足利の時代、室町には、武家社会では禅から派生した茶の湯、枯山水、また水墨画のような静かな美、わびさびが好まれましたが、信長の時代になって一気に鮮やかで派手な文化が花開いたのです。これが「安土桃山文化」の特徴のひとつといえます。

戦場に南蛮帽子兜を被っていく武士も

南蛮の衣装は武士の具足にも影響を与えます。

榊原康政所用南蛮胴具足
榊原康政所用南蛮胴具足

たとえば、東京国立博物館には安土桃山時代の南蛮胴具足が収蔵されています。日本の鎧とは違い、胴全体が一枚の鉄板になっており、左右から中央に向かってV字型に下降するデザイン。日本の鎧に比べるとシュッとした印象があり、中世ヨーロッパの甲冑を思わせます。
この南蛮胴具足は徳川四天王の榊原康政が家康より拝領したものです。兜も山高で、南蛮笠を意識したデザインであることがわかります。

また、現在は残っていませんが、徳川美術館所蔵の『長篠合戦図屏風』を見ると、信長の南蛮帽子兜が描かれているのがわかります。南蛮の帽子のように山高でつばがあるデザイン。詳しく見てみると、描かれている複数の武士が山高の帽子を被っています。

このように、南蛮の服飾は当時の武士階級に受け入れられ、その文化を戦場にまで持ち込み流行していたことが読み取れるのです。


【参考文献】
  • 西ヶ谷恭弘『戦国の風景 暮らしと合戦』(東京堂出版、2015年)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。