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【戦国全史】細川政権と三好政権の興隆

明応の政変によってあらたに誕生した細川政権。この細川政権は明応の政変が起きた1493年から1549年(天文18年)までの間、続くことになります。

細川政元の政権

さて、クーデターにより政権奪取した細川政元(まさもと)の政権ですが、後に大きな問題を引き起こすことになります。

この政元は専制権力を樹立するも、女人禁制である修験道の修行をしていたため、実子はおらず、兄弟もいなかったため後継者がいない状態でした。そして、あろうことか、三人の養子をとってしまうのです。

三人の養子は以下

  1. 関白・九条政基の末子である聡明丸(そうめいまる、のちの細川澄之(すみゆき))
  2. 阿波守護をつとめた阿波細川家から細川澄元(すみもと)
  3. 京兆家(細川宗家)の分家の野州家(やす)から細川高国(たかくに)

1502年に澄之(すみゆき)を嫡子と定めるも、公家出身で細川の血をひかないことから家臣達から反発が。そして、翌年に澄之を廃嫡してしまい、代わりの後継者に澄元を連れてきます。さらに、明確な時期は不明だが、3番目の養子として高国までもが養子に入ってきます。

こうして政元は自らの行動によって、細川家の後継者争いを発生させることになります。

政元暗殺と後継者争い

1506年(永正3年)、摂津守護となった澄元が実家の阿波勢を率いて入京し、その家宰の三好之長(ゆきなが)が政元に軍事面で重用されます。そうなるとこれまで政元政権を支えてきた「内衆」とよばれる京兆家重臣(主に畿内有力国人層)との対立が深まっていきます。

1507年(永正4年6月23日)永正の錯乱が勃発し、政元は暗殺されてしまいます。
政元が魔法を修する準備として邸内の湯屋に入ったところを、澄之を擁する内衆の薬師寺長忠(やくしじ ながただ)・香西元長(こうざい もとなが)・竹田孫七らにそそのかされた戸倉氏が政元を殺害。
翌6月24日、長忠らは澄元・三好之長(ゆきなが)の屋敷に攻め寄せ、澄元らを近江に敗走させ、主君として澄之を迎えて細川氏(京兆家)家督を継がせます。
6月26日には、政元の命令を受けて丹後の一色義有(いっしき よしあり)を攻めていた赤沢朝経(あかざわ ともつね)が軍を京都に撤退させようとしたが、一色義有や丹後の国人石川直経らの反撃を受け、自害

一方で高国は、一族の摂津分郡守護・細川政賢(まさかた)や淡路守護・細川尚春(ひさはる)、河内守護・畠山義英(よしひで)と語らい、政元の後継者を澄元とすることで合意
7月28日、薬師寺元一(もとかず)の子・万徳丸は長忠の居城茨木城を攻め落します。
翌29日、細川高国らは香西元長の居城嵐山城を攻め落とします。そして8月1日、逃亡先の近江甲賀郡の国人らを味方に引き入れ急ぎ京に戻った三好之長が、細川澄之の最後の砦となっていた遊初軒を高国勢とともに一気に攻め落したため、澄之は自害。
翌2日、澄元は将軍に拝謁し、細川京兆家の家督と管領職を継ぎます。

細川政元の後継者争い

1508年(永正5年)、高国は澄元に対して挙兵。管領・細川澄元は察知し近江へ逃亡します。さらに、同年、周防(山口)から大内義興が細川氏の内紛を好機とみて、足利義材改め義尹(よしただ)を奉じて上洛してくるのです。
時の将軍義澄(よしずみ)は近江に逃亡。高国は大内義興と足利義尹を歓待。足利義尹は同年7月に将軍返り咲きとなるのです。
管領は細川高国、大内義興は管領代と山城守護に任命。

1509年(永正6年)、この状況に逃亡していた澄元・三好之長がだまってはいません。この年に挙兵するも敗戦。

1511年(永正8年)には澄元・三好之長が再度挙兵し、京を奪還します。しかし、近江の六角高頼が足利義尹に寝返り、さらに前将軍足利義澄が病死。
義澄の死から9日後の8月23日に船岡山合戦が勃発。大内軍の夜襲を受け、澄元方は総崩れ、京都は再び義尹の手に戻ってしまいます。

■敵のいなくなった義尹(後の義稙)たちは?

1513年(永正10年)、義尹改め義稙(よしたね)に改名します。同年、執政を思い通りにできない将軍義稙は京をでてしまい、さらに病気にかかります。その後、細川高国と和解し、義稙は再び京にもどって政務を再開。

1518年(永正15年)、大内義興が自分の領国である山口にもどってしまいます。その背景には出雲の尼子経久が勢力を拡大していたのと、細川高国、義稙と関係があまりよくなかったことがあります。

1519年(永正16年)、細川高国と義稙の対立が表面化。澄元・三好之長が摂津に進出。

■細川氏後継者争いの終結

1520年(永正17年)には澄元・三好之長が京都を奪還。細川高国は近江坂本へ追い出されます。このとき、義稙は高国とともに行動することを拒否し、澄元と手を組みます。
細川高国が六角高頼を始め、守護に号令をかけ、三好軍を攻撃。三好之長が自害。澄元は摂津から阿波に逃亡し、現地で病死。こうして細川氏の後継者争いが終結、細川高国が事実上の天下人となります。そして、敵のいなくなった細川高国は内部の粛清に乗り出すのです。

■義稙の最後

1521年(大永元年3月7日)、義稙は和泉国堺に逃げます。しかし、政所頭人の伊勢貞忠(いせ さだただ)や奉行人のほとんどは京都に留まって義稙を見限ることになります。
この直後に後柏原天皇の即位式があったため、天皇は激怒し、即位式は予定通り行なわれ、義稙の将軍位ははく奪されます。そして、高国は義稙に代わる新将軍として、11代将軍足利義澄の遺児の亀王丸(後の義晴)を擁立します。

義稙は堺から淡路に逃れ、懲りずに細川高国と戦うもかなわず、1523年(大永3年)に死没。

高国の失脚と細川晴元の台頭

澄元の遺児、細川晴元(はるもと)と三好之長の孫の三好元長(もとなが)が細川高国への仇討ちを狙います。

1524年(大永4年4月21日)、細川高国は家督と管領職を子の細川稙国(たねくに)に譲って出家したが、大永同年12月に子に先立たれたため、やむなく管領・細川家(細川京兆家)当主として復帰。

1526年(大永6年)、従弟に当たる細川尹賢(ただかた)の讒言を信じて、重臣の香西元盛(こうざい もともり)を謀殺してしまいます。これを知った元盛の実兄の波多野稙通(はたの たねみち)と柳本賢治(やなぎもと かたはる)が丹波で挙兵し、謀反が勃発。高国は仕方なく鎮圧に尹賢を向かわせるが敗退。さらに、これを好機とみた細川晴元や三好元長も阿波で挙兵。

1527年、波多野稙通・柳本賢治と細川晴元・三好元長は高国が共通の敵であったことから連合し、京へ侵入します。こうして桂川原の戦いが勃発。高国は桂川で迎撃するも敗れて、足利義晴を擁したまま近江坂本に逃れます。
細川晴元ら連合軍は足利義晴の異母兄弟で義稙の養子の足利義維(よしつな)を擁立。義維は将軍には正式にならなかったが、朝廷から同年7月13日に従五位下・左馬頭に叙任されており、次期将軍として約束されていたため、堺公方(または堺大樹)と呼ばれるようになります。

高国は同年10月には越前の朝倉孝景の支援を得て一旦は京を奪還するも、翌1528年(大永8年3月)には越前軍の帰国により、5月に再び近江へ逃れます。その後も高国は堺公方を擁する勢力と対立、1530年(享禄3年)には、備前守護代浦上村宗(うらがみ むらむね)と連携して挙兵、播磨出陣中の柳本賢治を暗殺し、京に進軍します。

1531年(享禄4年3月10日)には中嶋の戦いで細川晴元・三好元長軍と対陣し、摂津で足止めされ膠着状態に。6月になると、新たに参戦した赤松晴政(あかまつ はるまさ)を味方にした矢先、同月4日には寝返りにあい、高国勢は総崩れ、尼崎に逃走します(大物崩れ)
。 逃走中にどうにか身をひそめていた高国であったが追手に発見され、自害に追い込まれます。

晴元政権

1532年(享禄5年)、細川晴元は足利義晴と和睦。これに反対し、主君の晴元との関係が悪化していた三好元長と河内の畠山義堯(よしたか、晴元の義兄弟)は晴元の手引きで蜂起した一向一揆軍に討たれて自害。後見人の元長を失った義維は阿波の平島荘にのがれます(平島公方)

内部の反対派を排除し、将軍・義晴と和睦した晴元は、蜂起したまま乱行を重ねた一向一揆軍の鎮圧に神経を費やします。

一向宗の対立宗派であった法華宗とも協力して法華一揆を誘発させ、他にも領内で一向宗の活動に悩まされていた近江国の六角定頼とも協力して山科本願寺を攻めました(山科本願寺の戦い)

※一向宗の本拠である山科本願寺はこの際の焼き討ちで全焼。 以後、本願寺は石山御坊に拠点を移し、石山本願寺として一大勢力となります。

1533年(天文2年)、石山本願寺の一向一揆の反撃に遭い、晴元は堺から淡路国へ亡命。しかし、将軍から本願寺討伐令という大義名分を得た晴元は1534年(天文3年)に将軍義晴に上洛を依頼し、六角定頼・義賢父子の後援で上洛させます。また、同年には木沢長政の仲介により、三好元長の嫡男・三好長慶とも和睦して家臣に組み入れます。

1535年(天文4年)には本願寺と和睦。1536年、今度は京都で勢力を伸ばした法華衆の弱体化を図り、比叡山延暦寺・六角定頼と連合して法華衆を壊滅。(天文法華の乱(てんぶんほっけのらん))

■三好長慶の登場

父・三好元長の仇である晴元の家臣となっていた長慶はひそかに阿波で勢力を拡大していました。1539年(天文8年)、長慶は父が残した河内の領国を取り戻すため、ついに上洛します。河内の領国は同族でありながら父・元長を死に追いやった一人の三好政長が奪っていたのでした。晴元が長慶の要求を退けて政長を支持したため、武力対立が発生しますが、戦闘を避けたかった晴元が将軍義晴に仲介を依頼したことで一旦和解になります。

1541年(天文10年)、木沢長政が謀反、京都郊外の岩倉へ逃れるが、翌1542年(天文11年)、晴元は長慶・政長と河内国の遊佐長教による活躍で長政を討ち取ります(太平寺の戦い)

1543年(天文12年)、亡き細川高国の養子・細川氏綱が晴元打倒を掲げて和泉国で挙兵。このとき以外にも、将軍義晴は氏綱側を支持、そして、長慶は晴元は支持します。

1545年(天文14年)、山城国で高国派の上野元治・元全父子と丹波国の内藤国貞(くにさだ)らが挙兵、三好長慶・政長ら諸軍勢を率いて反乱を鎮圧。

1546年(天文15年8月)に氏綱が畠山政国や遊佐長教の援助で再挙兵、長慶の動きを封じて摂津国の殆どを奪い取ります。9月には上野元治も再挙兵して京都へ入ったため、晴元は丹波国へ逃亡するが、長慶の実弟である三好実休と安宅冬康(鴨冬)、十河一存ら四国の軍勢が到着すると徐々に形成逆転。決着はつかなかったものの、氏綱側を支持した義晴は12月に近江に逃れ、嫡子の義輝に将軍職を譲ります。

1547年(天文16年7月21日)舎利寺の戦いが勃発。細川氏綱・遊佐長教軍に勝利、敗報を聞いた足利義晴が帰京して細川晴元・六角定頼と和睦します。

三好政権の誕生

1548年(天文17年)、三好長慶が三好政長打倒に乗り出します。当然晴元は政長追討を受け入れませんでした。そして、10月28日、ついに長慶はかつての敵である細川氏綱・遊佐長教と結んで、晴元に反旗を翻します。 因縁の河内十七箇所へ兵を差し向け三好政勝が籠城する榎並城を包囲し、そのまま翌年に持ち越します

翌1549年(天文18年)に、政長を摂津江口城に追い込み、討ち取ります。(江口の戦い)
この戦いで三好政長・高畠長直ら多くの配下を失った晴元は追撃を恐れ、義晴・13代将軍義輝らとともに近江国坂本まで逃れます。幕府首脳陣が不在となった京都には三好長慶と細川氏綱が上洛し、長慶が幕府と京都の実権を握ることになり、ここに三好政権が誕生します。

1550年(天文19年)には義晴は坂本でそのまま病没。晴元はその後も再三にわたって挙兵を試みるもことごとく失敗します。同年、中尾城の戦いでは義輝を擁立し、香西元成(もとなり)や三好政勝(まさかつ)など晴元党の残党を率いて東山の中尾城と丹波国を拠点に京都奪回を試みるも失敗。中尾城を破棄。

また、1551年(天文20年)には、相国寺の戦いで丹波衆を率いた元成・政勝が長慶軍に挑むが敗れています。

1552年(天文21年)、一方で長慶は、幾内の安定を図るために将軍義輝と和睦。細川氏綱を管領に添えることが上洛の条件とします。

しかし、1553年(天文22年3月)、義輝と三好長慶が決別すると再度、晴元・義輝は長慶と交戦。しかし、またも敗戦して再び近江国朽木へ逃亡。

1558年(永禄元年)北白川の戦いでは、晴元・義輝は懲りずに上洛を図り、将軍山城で三好軍と交戦するものの、六角義賢の仲介により義輝と三好長慶が再び和睦。和睦に反対した晴元は姿をくらまし、以後も長慶への敵対行動を続けていくのです。

13代将軍義輝と和睦した三好長慶は以後、幕府との対立関係から一転して協調関係を築いていき、勢力も順調に拡大していくのです。家臣の松永久秀、そして、尾張の織田信長の台頭までは。。


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