丁寧に歴史を追求した "正統派" 戦国Webマガジン

「第六天魔王、軍神、三日天下」など、戦国武将のあだ名が面白い!

戦国武将たちの中でも優秀であったり、何か特色をもっている人物は大抵なにかしら異名を持っている。

本記事では、「第六天魔王、甲斐の虎、軍神、相模の獅子、三日天下、槍の又左、海道一の弓取り、美濃の蝮 etc…」、ざっとあげてあるが、かなりのボリュームなので目次から気になるものを選んで見てほしい。

第六天魔王

この異名は織田信長が自らを称したもの。信長が元亀2年(1571年)に比叡山焼討ちをした際、武田信玄が信長に書状を送ってその行ないを非難したが、その書状には「天台座主沙門信玄」と署名してあった。これに対して信長は信玄に返書を送り、その書状は "第六天魔王" と署名したという。

「天台座主沙門信玄」というのは、天台座主・覚恕法親王の下での修行者・信玄といった意味であり、仏教を信仰する信玄が神仏を深く敬って仕えることを表したものである。また、「第六天魔王」というのは、仏教において仏道修行を妨げる魔のことを指す。

神仏を敬う信玄に対し、信長は皮肉で自らをこう称したのであろう。このとき信長と信玄、そして、信長と家康はそれぞれ同盟関係にあった。しかしこの後、信玄は信長への事前通告もなしに信長の同盟相手である家康への攻撃を開始したため、信長と信玄は敵対関係となってしまうのである。

甲斐の虎、甲斐の龍

これは甲斐(=現在の山梨県)を支配していた武田信玄の異名である。信玄は戦国最強の騎馬隊を有し、上杉謙信と並んで無類の強さを誇る将であった。「竜虎相搏つ」ということわざがあり、これは同じくらいの優れた実力を持つ英雄や強豪同士が勝敗を争うことのたとえである。

川中島の戦いでの激闘にみるように、信玄とライバル上杉謙信との優劣はつけがたい。竜と虎は強い動物の双璧のたとえであり、武田信玄と上杉謙信がまさにこれに例えられたのである。後述するが、謙信は「越後の虎、越後の龍」の異名を持っている。信玄と謙信のどちらが龍・虎とするのかは史料によって異なるようである。

軍神、越後の虎、越後の龍

越後(=現在の新潟県)を支配していた上杉謙信の異名。虎か龍かは、先に信玄のところでも触れたが、"越後の虎"というのは謙信の初名である"長尾景虎"をとったという話がある。また、"越後の龍" は、謙信が合戦の際に "龍" の旗印を使用していたことからきているといったものもある。

なお、軍神の由来についてだが、謙信は自らを「毘沙門天の化身」と称していた。「毘沙門天(びしゃもんてん)」とは仏教における戦の神のことである。謙信は戦場で武田氏や北条氏といった猛者と互角以上に渡り合い、破竹の勢いで天下統一に最も近かった織田軍をも破るなど、圧倒的な強さを誇っていたからこそ、軍神の異名が付けられたのであろう。

三日天下

ご存じ、本能寺の変で信長を討った謀反人・明智光秀のことである。光秀はほぼ天下を掌握していた信長を討った後、中国大返しと呼ばれる驚異的なスピードで京へと戻ってきた羽柴秀吉に敗れてこの世を去った。信長の死からわずかな期間の出来事であったことから、このように称されたのである。

槍の又左

これは前田利家の若きころの異名。信長に仕えたころの利家は血気盛んであり、戦場では多くの功をあげ、赤母衣衆(信長の直属精鋭部隊)の筆頭になった。槍の名手であったため、このように呼ばれて敵に恐れられたのである。

相模の獅子

これは北条3代目当主・北条氏康のニックネーム。氏康は相模国(=現在の神奈川県の大半)にある居城・小田原城を拠点に、古河公方・山内上杉氏・扇谷上杉氏・里見氏・佐竹氏・宇都宮氏といった関東の諸勢力と戦い、関東における戦いの主導権を確保して勢力を拡大した実績をもつ。彼はあの上杉謙信や武田信玄と三つ巴の戦いを展開するほどの文武を兼ね備えた名将であった。

美濃の蝮(マムシ)

美濃国の戦国大名・斎藤道三は、僧侶・油商人を経て美濃長井氏に仕えるようになると、主君の長井氏→美濃守護の土岐氏と、続けて倒して美濃国を統一した経歴を持つ。下克上の象徴のようなその人物像はマムシに例えられ、"美濃の蝮" と呼ばれたようである。

日ノ本一の兵(つわもの)

これは慶長19-20年(1614-15年)の大阪の陣において、豊臣方の将であった真田幸村が討死した後、島津忠恒が幸村を評したもの。これは幸村が最終決戦となった大阪夏の陣で敗れたものの、最期に家康本陣に三度もの突撃を敢行し、家康が自害を覚悟したほどに追い込むほどの戦いぶりをしたことが所以であろう。

海道一の弓取り

このあだ名は駿河の太守・今川義元、そして徳川家康の2人が持っている。「海道」とは東海道を指しており、義元も家康もその支配地域は東海道であった。「弓取り」とは武士を指し、鎌倉武士が弓騎馬で戦っていたことに由来する。

今川義元といえば、桶狭間の戦いで有名な将で信長の引き立て役といった印象をもつが、実は歴代の今川氏の中で最大勢力(駿河・遠江・三河)を築いており、そのころの家康は義元の家臣の一人にすぎなかった。

しかし、家康は義元のさらに上を行っている。義元死後に今川氏から独立し、三河国(=現在の愛知県東部)の戦国大名として出発すると、信長死後には義元以上の勢力圏を築いているのである。

女戦国大名、戦国の姫君

あまり知られていないかもしれないが、今川義元の母である寿桂尼(じゅけいに)は、女戦国大名とか戦国の姫君と呼ばれた。彼女は義元の兄である今川氏輝が当主となった時、氏輝がまだ若くて病弱でもあったため、後見人を務めた。そして今川領の統治の多くを代行していたとみられている。戦国大名としての役割を担っていたということであろうか。


いかがであろうか?ここまで戦国武将たちの異名とその由来をいくつか挙げてみた。
続いて「●●四天王」など、数多くある戦国武将たちの総称についても調べてみた。総称は後世に表彰されたものだったり、その当時の政権運営における職制であったりする。以下、一つ一つみていこう。

三英傑

これは信長・秀吉・家康の三人を顕彰する言葉である。誰もが知っているこの三人は戦国時代において天下統一へ導いた功績を持ち、東海の尾張国と三河国(=ともに愛知県)出身という共通点をもっている。こうしたことから主に中部地方や愛知県でこのように呼ばれるようになったのである。ちなみに「英傑」とは知恵・才能・実行力などにすぐれた人のことである。

織田四天王・織田五大将

信長は群雄割拠時代において誰よりも多くの国を支配したため、非常に多くの家臣を抱えた。その中でも信長に仕えて天下統一事業に最も貢献したとされる4人の重臣、すなわち柴田勝家丹羽長秀滝川一益・明智光秀は "織田四天王" と呼ばれている。"織田五大将"はこれに羽柴秀吉を加えた呼称のようである。

黒母衣衆・赤母衣衆

黒母衣衆・赤母衣衆は信長直属の精鋭部隊であり、永禄10年(1567年)に誕生したという。この年は尾張の織田信長がちょうど美濃国を制圧して2か国を保有する大名となり、「天下布武」を掲げて本格的に天下統一を目指したころである。

黒母衣衆・赤母衣衆のメンバーは史料によって若干異なる部分もあるようだが、小瀬甫庵(おぜ ほあん)の『信長記』に記してあるものをみると、黒母衣衆の筆頭は佐々成政、赤母衣衆の筆頭は前田利家となっている。以下はメンバー一覧。

  • 黒母衣衆:佐々成政、毛利良勝、河尻秀隆、生駒勝介、水野帯刀左衛門、津田盛月、蜂屋頼隆、中川重政、中嶋主水正、松岡九郎次郎
  • 赤母衣衆:前田利家、織田越前守、飯尾尚清、福富秀勝、塙直政、黒田次右衛門尉、毛利秀頼、野々村正成、猪子一時

府中三人衆

織田政権が勢力拡大する中で、北陸方面軍団の指揮官・柴田勝家の与力となった不破光治・佐々成政・前田利家の3人を指す。この3人は越前国の府中一帯を治めたことから "府中三人衆" と呼ばれた。

賤ヶ岳の七本槍

賤ヶ岳の七本槍とは、柴田勝家と羽柴秀吉が織田家の覇権をかけて戦った天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いにおいて、武功をたてた秀吉配下の若手武将、すなわち福島正則加藤清正、片桐且元、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則の7人を指す。

7人というのは語呂合わせであり、他にも石田三成大谷吉継など、多くの若手武将が武功をあげたという。ちなみにこのときの秀吉は織田家最有力家臣であった勝家を倒したが、まだ羽柴姓を名乗っていた時期であり、豊臣政権が樹立されるのはもう少し後のことである。

豊臣五大老・五奉行

五大老・五奉行とは、死を目前に控えた豊臣秀吉が将来の政権運営と実子・豊臣秀頼のことを憂い、秀頼を主君として政権維持を図るために設置した職制。そのメンバーは以下のとおり。

豊臣五大老には徳川・上杉・毛利といったかつて大国を有した諸大名らが並んでいる。この制度で秀吉は合議での政権運営を願い、家康ら有力大名らに秀頼への忠誠を誓わせた。五大老・五奉行という言葉は後世にみなされることになった歴史用語のようである。

ところで五大老はどのような経緯で成立したのだろうか?

文禄4年(1595年)、2代目関白であった豊臣秀次の切腹事件は、豊臣家中の亀裂を生みだした。秀吉はこれに対処するために、有力大名が連署する形で「御掟」五ヶ条と「御掟追加」九ヶ条を発令して政権の安定を図ったとされる。このときに連署を行なった6人の有力大名(徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元・小早川隆景)が後世に豊臣五大老とみなされたらしい。ちなみに小早川隆景も実質は五大老の一人だが、五大老の職制が制度化される前に死没しているため、入っていないものと思われる。

秀吉は秀頼が成長するまで五大老・五奉行らの合議での政権運営を願い、秀頼への忠誠を誓わせて慶長3年(1598年)この世を去った。しかし、五大老の中で特段の地位を保持していたのは外様の家康であり、政権奪取をもくろむ家康は秀吉の遺言を破って大名同士の婚姻を進めていくなど、専横をふるっていく。

こうして多くの諸大名らを懐柔して自らの勢力を蓄えていった家康に対し、秀吉に忠実だった前田利家や石田三成らが反発して豊臣家中は大きく二分される。利家は唯一家康を牽制しうる人物だったが、その利家も翌年に病没。これに乗じて家康は自分以外の大老を帰国させて単独の支配体制を確立していった。こうして慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦よりも前に、五大老・五奉行の制度は機能しないものとなったのである。

徳川四天王・徳川十六神将

家康の天下までの道のりは我慢・忍耐の連続であった。
幼少のころは織田・今川の人質として過ごし、のちに戦国大名として独立して信長の同盟者になるも、信長の家臣団の一部といっても過言ではないほどに力関係は信長が上であった。信長死後には一大勢力を築き、それ以上に破竹の勢いで台頭した秀吉に対抗したが、最終的には秀吉に臣従となった。
秀吉死後、家康が江戸幕府創設までできたのは、こうした経験から老獪な武将になっていたのもあるが、これを結束力と忍耐でともに支えた徳川家臣団の功績も見逃せないのである。

"徳川四天王"とは、家康に仕えて江戸幕府創設に貢献した4人の重臣、すなわち酒井忠次本多忠勝榊原康政井伊直政を指し、仏教の四天王に準えているという。ただ、この呼称の成立時期は定かではない。

一方、"徳川十六神将"とは、徳川家臣の中で江戸幕府を創設するにあたり、功のあった16人の武将を指したもの。武田二十四将と同様に江戸時代の絵画などでみられたものであるが、選定基準は定かではない。なお、十六神将は以下のように徳川四天王+12人のメンバー構成となっている。

  • 米津常春
  • 高木清秀
  • 内藤正成
  • 大久保忠世
  • 大久保忠佐
  • 蜂屋貞次
  • 鳥居元忠(または植村家存)
  • 鳥居忠広
  • 渡辺守綱
  • 平岩親吉
  • 服部正成
  • 松平康忠(または松平家忠)

武田四天王・武田二十四将

続いて甲斐・武田信玄の家臣団。まずは"武田四天王"。これは武田信玄と二代目の勝頼に仕えた重臣、馬場信春・内藤昌豊・山県昌景高坂昌信の4人をを指す。

彼らはいずれも譜代家老層の出身で武勇に優れた名将であり、特に信玄が当主の代に活躍している。しかし、勝頼の代に入り、織田・徳川連合軍に大敗した天正3年(1575年)の「長篠の戦い」では、高坂昌信を除く3人が惜しくも討ち死にしている。一説に重臣筆頭の馬場信春と山県昌景は主君勝頼から疎まれていたといい、このときも撤退を進言したものの、勝頼に受け入れられなかったという。
一方、高坂昌信は海津城を守備していたため、長篠の戦いには参加せずに難を逃れている。武田信玄・勝頼時代の戦略・戦術などを記した軍学書『甲陽軍鑑』の原本は高坂昌信の口述記録によるものという。

次に武田二十四将だが、これは武田家臣の中で評価の高い24人を指している。江戸時代に「武田二十四将図」として絵画や浮世絵の題材となったことに端を発した呼称のようである。なお、二十四将図に描かれる武将は諸本によって差異がみられるという。メンバーは以下のとおり。

信玄の弟・武田信繁や信廉をはじめとする武田一門衆の他、飯富虎昌や武田四天王といった譜代家老衆、そして、外様の真田氏などが名を連ねている。

上杉四天王・二十五将

これらは越後上杉氏の家臣の総称。これらは寛文9年(1669年)に江戸幕府に提出された『上杉将士書上』に表記されている。

"上杉四天王"とは、上杉謙信に仕えた4人の重臣、宇佐美定満柿崎景家直江景綱甘粕景持を指す。各々が四天王の名に恥じない経歴や逸話をもっているようである。宇佐美定満は謙信の軍師 "宇佐美定行"として知られている。柿崎景家は戦場において常に先陣を務めたという。また、甘粕景持は川中島合戦であまりの強さに敵の武田方から謙信本人と勘違いされたというエピソードをもつ。

一方、"上杉二十五将" は上杉家臣団の中で評価の高い25人を指したものであり、メンバーは以下のとおり。

  • 長尾政景
  • 長尾景秋
  • 宇佐美定満(定行)
  • 柿崎景家
  • 直江景綱
  • 新津勝資
  • 金津義舊
  • 北条景広
  • 色部長実
  • 本庄実乃
  • 本庄繁長
  • 甘糟景継
  • 水原親憲
  • 斎藤朝信
  • 安田能元
  • 高梨頼包
  • 千坂景親
  • 竹俣慶綱
  • 中条藤資
  • 岩井信能
  • 山本寺景長
  • 吉江定仲
  • 志駄義秀
  • 小国頼久
  • 加地春綱


 PAGE TOP