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戦国武将の呼称(総称編)

「●●四天王」など、数多くある戦国武将たちの総称。総称は後世に表彰されたものだったり、その当時の政権運営における職制であったりする。
本記事ではとりあえず有名なものをピックアップしてみた。

三英傑

まずは織田信長豊臣秀吉徳川家康の三人を顕彰する "三英傑"という言葉。

誰もが知っているこの三人は戦国時代において天下統一へ導いた功績を持ち、東海の尾張国と三河国(=ともに愛知県)出身という共通点をもっている。

こうしたことから主に中部地方や愛知県でこのように呼ばれるようになったのである。ちなみに「英傑」とは知恵・才能・実行力などにすぐれた人のことである。

次に"織田四天王" をはじめ、織田政権下での優れた武将たちがわかる総称をみてみよう。

織田四天王・織田五大将

信長は群雄割拠時代において誰よりも多くの国を支配したため、非常に多くの家臣を抱えた。その中でも信長に仕えて天下統一事業に最も貢献したとされる4人の重臣、すなわち柴田勝家丹羽長秀滝川一益明智光秀は "織田四天王" と呼ばれている。"織田五大将"はこれに羽柴秀吉を加えた呼称のようである。

黒母衣衆・赤母衣衆

黒母衣衆・赤母衣衆は信長直属の精鋭部隊であり、1567年(永禄10年)に誕生したという。

1567年といえば、信長がちょうど美濃を制圧して尾張と美濃2国の大名となり、「天下布武」を掲げて本格的に天下統一を目指したころである。

黒母衣衆・赤母衣衆のメンバーは史料によって若干異なる部分もあるようだが、小瀬甫庵(おぜ ほあん)の『信長記』に記してあるものをみると、黒母衣衆の筆頭は佐々成政、赤母衣衆の筆頭は前田利家となっている。以下一覧でメンバーをあげておこう。

  • 黒母衣衆:佐々成政、毛利良勝、河尻秀隆、生駒勝介、水野帯刀左衛門、津田盛月、蜂屋頼隆、中川重政、中嶋主水正、松岡九郎次郎
  • 赤母衣衆:前田利家、織田越前守、飯尾尚清、福富秀勝、塙直政、黒田次右衛門尉、毛利秀頼、野々村正成、猪子一時

府中三人衆

織田政権が勢力拡大する中で、北陸方面軍団の指揮官・柴田勝家の与力となった不破光治・佐々成政・前田利家の3人を指す。この3人は越前国の府中一帯を治めたことから "府中三人衆" と呼ばれた。

次は豊臣政権下での職制と武将たちを紹介する。

賤ヶ岳の七本槍

賤ヶ岳の七本槍とは、信長死後の織田家の覇権争い "賤ヶ岳の戦い(1583年)" で武功をたてた秀吉配下の若手武将、すなわち福島正則加藤清正、片桐且元、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則の7人を指す。

7人というのは語呂合わせであり、他にも石田三成や大谷吉継など、多くの若手武将が武功をあげたという。ちなみにこのときの秀吉は織田家最有力家臣の柴田勝家を倒したが、まだ羽柴姓を名乗っており、豊臣政権が樹立されるのはもう少し後のことである。

五大老・五奉行

五大老・五奉行とは、死を目前に控えた秀吉が将来の豊臣政権と実子・豊臣秀頼のことを憂い、秀頼を主君として政権維持を図るために設置した職制。メンバーは以下のとおりだ。

秀吉は天下人になったため、五大老においては徳川・上杉・毛利といった、かつて大国を有した諸大名らが並んでいる。この制度で秀吉は合議での政権運営を願い、家康ら有力大名らに秀頼への忠誠を誓わせた。五大老・五奉行という言葉は後世にみなされることになった歴史用語のようである。

五大老の起源

1595年(文禄4年)に起きた秀次事件は豊臣家中の亀裂を生みだした。秀吉はこれに対処するため、有力大名が連署する形で「御掟」五ヶ条と「御掟追加」九ヶ条を発令して政権の安定を図ったとされる。
このときに連署を行なった6人の有力大名(徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元・小早川隆景)が後世、豊臣政権の"大老" とみなされた。

ちなみに小早川隆景も実質は五大老の一人であるが、五大老の職制が制度化される前に死没しているため、入っていないものと思われる。

秀吉死後はどうなった?

秀吉は秀頼が成長するまで五大老・五奉行らの合議での政権運営を願い、秀頼への忠誠を誓わせてこの世を去った。

しかし、五大老の中で特段の地位を保持していたのは外様の徳川家康であり、政権奪取をもくろむ家康は秀吉死後、秀吉の遺言を破って大名同士の婚姻を進めていくなど、専横をふるっていった。

こうして多くの諸大名らを懐柔して自らの勢力を蓄えていった家康に対し、秀吉に忠実であった前田利家や石田三成らは反発して、豊臣家中は大きく二分された。
前田利家は唯一家康を牽制しうる人物であったが、その利家はまもなくして病没。そして、これに乗じて家康は自分以外の大老を帰国させ、単独の支配体制を確立していった。

ここに五大老・五奉行の制度は機能しないものとなったのである。

続いては江戸幕府の開祖・徳川家の家臣団の総称をみていこう。

徳川四天王・徳川十六神将

家康の天下までの道のりは我慢・忍耐の連続であった。

幼少のころは織田・今川の人質として過ごした。苦労して戦国大名として独立を果たし、信長の同盟者となったが、とても対等な関係とはいえないものであり、信長の家臣団の一部といっても過言ではなかった。

信長死後は一大勢力を築き、それ以上に破竹の勢いで台頭した秀吉に対抗したが、最終的には秀吉に臣従するしかなかった。

秀吉死後、家康が政権を奪取して江戸幕府創設までできたのは、こうした経験から老獪な武将になっていたのもあるが、これを結束力と忍耐でともに支えた徳川家臣団の功績も見逃せない。

"徳川四天王"とは、家康に仕えて江戸幕府創設に貢献した4人の重臣、すなわち酒井忠次本多忠勝榊原康政井伊直政を指し、仏教の四天王に準えているという。ただ、この呼称の成立時期は定かではない。

"徳川十六神将"とは、徳川家康の家臣の中で江戸幕府を創設するにあたり、功のあった16人の武将を指したもの。武田二十四将と同様、江戸時代の絵画などでみられたものであるが、選定基準は定かではないようだ。

十六神将は徳川四天王+12人のメンバー構成となっている。その12人は以下のとおり。

  • 米津常春
  • 高木清秀
  • 内藤正成
  • 大久保忠世
  • 大久保忠佐
  • 蜂屋貞次
  • 鳥居元忠、または植村家存
  • 鳥居忠広
  • 渡辺守綱
  • 平岩親吉
  • 服部正成
  • 松平康忠、または松平家忠

武田四天王・武田二十四将

続いて甲斐・武田信玄の家臣団。まずは"武田四天王"。これは武田信玄と二代目の勝頼に仕えた重臣、馬場信春・内藤昌豊・山県昌景高坂昌信の4人をを指す。

彼らはいずれも譜代家老層の出身で武勇に優れた名将であり、特に信玄が当主の代に活躍している。しかし、勝頼の代に入り、1575年の織田・徳川連合との戦いとなった「長篠の戦い」では高坂昌信を除く3人が惜しくも討ち死にしている。
一説に重臣筆頭の馬場信春と山県昌景は勝頼から疎まれていたといい、この戦いでも撤退を進言したが、勝頼に受け入れられなかったという。
一方で高坂昌信は海津城を守備していたため、長篠の戦いには参加せずに難を逃れている。武田信玄・勝頼時代の戦略・戦術などを記した軍学書『甲陽軍鑑』の原本は高坂昌信の口述記録によるものという。

次に武田二十四将。これは武田家臣の中で評価の高い24人を指したもの。江戸時代に「武田二十四将図」として絵画や浮世絵の題材となったことに端を発した呼称のようである。

ちなみに二十四将図に描かれる武将は諸本によって差異がみられるという。

先述の武田四天王はもちろんメンバーに加わっているが、彼らの他、一般的なメンバーとしては以下のとおり。

信玄の弟・武田信繁や信廉をはじめとする武田一門衆の他、飯富虎昌や武田四天王といった譜代家老衆、そして、外様の真田氏などが名を連ねている。

上杉四天王

最後に越後・上杉氏の総称だ。"上杉四天王" や "上杉二十五将"の2つの総称があるが、これらは1669年(寛文9年)に江戸幕府に提出された『上杉将士書上』に表記されているようだ。

"上杉四天王"とは、上杉謙信に仕えた4人の重臣、宇佐美定満柿崎景家直江景綱甘粕景持を指す。各々が四天王の名に恥じない経歴や逸話をもっているようである。

宇佐美定満は謙信の軍師 "宇佐美定行"として知られ、柿崎景家は戦場において、常に上杉軍の先陣・鉄砲玉を務めたという。また、甘粕景持は川中島の戦いで、そのあまりの強さに敵の武田方から謙信本人と勘違いされたという逸話をもっている。

上杉二十五将

"上杉二十五将" は上杉謙信の家臣の中で評価の高い25人を指したものであり、メンバーは以下のとおり。

  • 長尾政景
  • 長尾景秋
  • 宇佐美定満(定行)
  • 柿崎景家
  • 直江景綱
  • 新津勝資
  • 金津義舊
  • 北条景広
  • 色部長実
  • 本庄実乃
  • 本庄繁長
  • 甘糟景継
  • 水原親憲
  • 斎藤朝信
  • 安田能元
  • 高梨頼包
  • 千坂景親
  • 竹俣慶綱
  • 中条藤資
  • 岩井信能
  • 山本寺景長
  • 吉江定仲
  • 志駄義秀
  • 小国頼久
  • 加地春綱


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