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室町幕府のシステム

室町時代に下剋上がはじまって戦国時代へと突入するわけだが、その背景を理解するにあたり、まずは室町幕府の支配体制や役職をざっくりと知っている必要がある。

室町幕府は足利幕府とも呼ばれ、三代将軍・足利義満が洛中室町の地(現在の京都府京都市上京区)に屋敷を造営したことに由来する。
この義満の屋敷の名称は「花の御所」「室町殿」と呼ばれ、足利将軍を意味する言葉としても使用された。

室町幕府の支配体制はどのようなものか?

室町幕府というのは足利尊氏が京都において作った武家政権であり、そのシステムは鎌倉時代における鎌倉幕府のシステムをほぼそのまま受け継いでいる。

室町幕府のトップは武家の棟梁である "将軍"であり、足利家は15代の将軍を輩出している。

幕府の統治機構はその拠点・京都(山城国)を"中央" とし、それ以外の地域を"地方" としている

中央には幕府の中心的役割を担い、将軍に次ぐ役職の"管領" が置かれ、その下に "侍所"、"政所"、"問注所"、"評定衆"が置かれた。
この他、将軍の直轄軍として"奉公衆" がいる。

地方は幕府の出先機関として、関東に"鎌倉府"、九州に"九州探題"、陸奥(青森、岩手、宮城、福島)に "奥州探題"、出羽(秋田、山形)に"羽州探題"が、また、各国には治安維持と武士統制のために "守護" という地方官が置かれた。

それでは次に中央と地方それぞれの役職を細かくみていこう。

中央機構

管領(かんれい)

将軍の補佐職であり、鎌倉幕府でいう執権と同じ。任務は中央の諸機関の統轄、地方各国の守護に対する将軍の命令伝達などであった。

就任できたのは足利氏一門であった有力守護の細川氏・斯波氏・畠山氏の3氏のみであり、"三管領""三職"と称され、複数の守護に任命されるほど強大な存在であった。

彼らは交代で任命された。

侍所(さむらいどころ)

軍事・警察を担う機関であり、任務は武士の統率や京都の警備、刑事裁判などであった。1353年からは京都(山城国)の守護も兼ねるようになる。

侍所の長官のことを "侍所所司"、"侍所頭人"などといい、室町幕府創設に貢献のあった一族である山名氏・一色氏・京極氏・赤松氏、土岐氏の4氏が就任し、"四職"と称された。

政所(まんどころ)

財務の管理を行なう機関であり、任務は幕府の財務の管理であった。

長官は "政所執事"といい、佐々木氏、二階堂氏、京極氏らが任じられたが、後に伊勢氏が世襲で就任となった。

問注所(もんちゅうじょ)

記録と訴訟文書の保管にあたった機関であり、任務は記録や訴訟文書の保管など。

長官は "問注所執事" と呼ばれ、鎌倉時代から三善氏が世襲で就任した。

評定衆(ひょうじょうしゅう)

鎌倉幕府においては最高政務機関であったが、室町幕府では実質的な権力がなくなり、形骸化した。

奉公衆(ほうこうしゅう)

将軍の直轄軍である奉公衆は、普段は京都で将軍の護衛や御料所(=幕府が直接支配していた土地のこと)の管理、戦時には将軍の軍事力として機能した。

部隊は5つに編成され、構成員は300人程度であり、有力御家人や足利氏の一門、有力守護大名や地方の国人などから選出された。

彼らは領地の守護不入や段銭(田畑に賦課される税)の徴収や京進(守護を介さない京都への直接納入)などの特権を与えられていた。

地方機構

鎌倉府

関東の統治機関であり、長官の "鎌倉公方(かまくらくぼう)"は足利基氏の子孫が世襲した。

統治エリアは、現在の関東地方に相当する坂東8カ国(常陸・上野・下野・上総・下総・武蔵・相模・安房)、および、甲斐(山梨県)・伊豆(静岡県東部)の計10カ国にも及んだ。

関東管領

鎌倉公方を補佐する役職であり、上杉氏が代々世襲した。

奥州探題

陸奥の統治機関であり、斯波氏の子孫の大崎氏が世襲した。

羽州探題

1358年頃に奥州探題から分立して誕生した出羽の統治機関であり、斯波氏の子孫の最上氏が世襲した。

九州探題

九州の統治機関であり、渋川氏が代々世襲した。

守護

各国に設置された軍事指揮官・行政官。

有力守護には”三管領"と"四職"(あわせて三管四職ともいう)の細川氏・斯波氏・畠山氏・山名氏・一色氏・京極氏・赤松氏、その他には土岐氏、上杉氏、武田氏、今川氏などがいる。

有力守護は中央の役職も兼ねているケースもあったため、幕府は守護たちによる連合政権という性格をもっていた。

中央の京都に近い周辺各国の守護職は、その多くが足利氏一門で固められていた。

鎌倉期の守護は軍事・警察的権能のみを有していたが、室町期の守護はより権限が強化されたため、守護大名とよぶ場合もある。

地方の中でも鎌倉時代に武家政権であった鎌倉は、室町幕府にとって最重要拠点であった。

そのため、幕府は鎌倉府を設置し、関東の支配を任せていたが、この鎌倉府が中央の幕府と同じような組織となっており、とても大きな権限をもっていた。

これがきっかけで中央の幕府としばしば衝突がみられるようになっていくのである。

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