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【戦国全史】関東・中部の群雄割拠(1500年代-1559年)

さて、いよいよこの章では有名どころの大名が登場します。
北条・上杉・武田・今川、そして、織田・徳川(松平)。このあたりの大名の動きを中心に1つの時間軸でまとめていきます。

後北条2代目・北条氏綱の登場

関東では戦国大名のパイオニア・北条早雲が1519年(永正16年)に死去し、家督を継いで後北条氏の2代目となった北条氏綱が引き続き、関東平定に臨みます。
これに対して山内上杉家と扇谷上杉家は和睦し、タッグを組んで北条氏に対抗しようとします。

1524年、氏綱は武蔵国に攻め込んで、扇谷上杉の上杉朝興(ともおき)を撃破。さらに扇谷上杉の家臣・大田資高(おおた すけたか)を寝返らせて江戸城の奪取に成功します。 その後、資高の子の大田資頼(すけより)も寝返り、岩槻城などの諸城を攻略。

資高は大田道灌の孫であり、道灌謀殺の恨みがあった?

しかし、朝興も反撃を開始します。

  • 甲斐守護の武田信虎(武田信玄の父)
  • 山内上杉の上杉憲房
  • 古河公方の足利高基

らが加勢したことで大田資頼は扇谷上杉氏に降伏して帰参。
さらに扇谷上杉が上総国の真里谷武田氏、小弓公方そして安房国の里見氏とも手を結んで氏綱包囲網を形成。翌1525年以降、徐々に形勢が逆転していき、氏綱は苦境にたたされていきます。

しかし、1533年に安房国の里見氏の内紛で稲村の変が勃発。さらに翌1534年にも小弓公方を擁立する真里谷武田氏でも当主の真里谷 恕鑑(まりやつ じょかん)の死去をきっかけに内紛が始まり、氏綱は命拾いすることになるのです。
また、同年に尾張国では後に天下布武をかかげる男「織田信長」が生まれます。

1535年、今川氏の要請で氏綱は甲斐の武田信虎と戦います。この戦いで武田氏を撃破します。武田方の武田信友は討ち死に。このころの今川氏当主は今川氏輝で、北条氏はすでに今川氏から独立していましたが、関係は良好でした(駿相同盟)

今川義元の登場

1536年、今川氏輝が突然死。これには暗殺説が存在。父の今川氏親には男児が6人いたが、家督争いを避けるため、次男の彦五郎を残し、残りの4人は出家させていました。暗殺説の理由には以下の背景があったからです。

  • 氏輝の死の直前に五男・梅岳承芳(ばいがくじょうほう)とその教育係の禅僧・太原雪斎が駿府に呼び戻されていた
  • 次男の彦五郎も氏輝と同じ日に死去

今川家の公式見解では偶然ということになっているようです。そして、家督継承のために梅岳承芳が還俗、実はこの男が「海道一の弓取り」と称されたあの今川義元でした。
しかし、父・氏親の側室の子である玄広恵探(げんこうえたん)が義元の家督継承を認めませんでした。こうして同年に、今川家の家督争いが勃発(花倉の乱)
この戦いに義元が勝利し、玄広恵探は自害。ここに今川氏当主・今川義元が誕生します。

■今川が武田と同盟、北条と今川は対立

1537年、扇谷上杉の朝興が川越城で病死します。ピンチ続きの氏綱が一転、この好機を逃さずに、川越城をおとします。
一方で今川義元が武田信虎の娘である定恵院を正室に迎えます(甲駿同盟)。これは太原雪斎が武田氏と婚姻することで外交方針を転換、三河や尾張に備えるための戦略であったのです。これにより、駿相同盟を結んでいた北条と今川は対立関係になり、氏綱は駿河へ出兵することになるのです。

※ちなみに三河は1529年に家康の祖父・松平清康が統一。1535年に松平清康が家臣に殺害されたのを機に信長の父・織田信秀(のぶひで)が三河に進出しています。

同年、駿相同盟の破棄によって、第1次河東一乱が勃発します。(※「河東」は争奪の対象となった富士川以東の地域を意味)
氏綱は富士川以東の地域(河東)を占拠。

1538年第一次国府台合戦が勃発。
4代目古河公方・足利晴氏(はるうじ)が氏綱に接近して同盟を結びます。敵は第3代古河公方足利高基の弟で小弓公方を自称の足利義明(よしあき)。
こうして古河・小弓公方の争いが氏綱をまきこんでの戦いとなり、足利義明は討ちとられ、小弓公方は消滅。小弓公方を支持した安房の里見義堯(さとみ よしたか)は早々と逃亡。

翌1539年、4代目古河公方・足利晴氏は氏綱の娘と婚姻。 これにより北条家は権威的な裏付けも獲得します。

1540年、このころ東海では尾張の織田信秀が三河国(愛知県東部)に侵攻を開始。 安祥城を攻略し、支配下に置きます。

1541年、氏綱が病死。

後北条3代目北条氏康・武田信玄・上杉謙信・斎藤道三の登場

氏綱が死去により、北条氏康が家督を継ぎ、後北条氏は3代目にはいります。 一方、同年に甲斐では武田晴信(のちの信玄)が父・信虎を追放し家督を奪います。 信虎は同盟関係であった今川家に引き取られます。

1542年、諏訪領への侵攻を開始し、諏訪頼重(すわ よりしげ)を甲府へ連行して自害に追い込み、諏訪領を制圧。このとき信玄は頼重の娘である諏訪御料人(すわごりょうにん)を側室に迎え、生まれた男子に諏訪家の家名をそのまま継承させることで諏訪家中を懐柔しました。

のちに武田当主となる武田勝頼は、この諏訪御料人と信玄の間に生まれた子。

同年、東海では第1次小豆坂の戦いが勃発、織田信秀が今川軍と戦って勝利、西三河の権益を保持。また、美濃では国主の土岐頼芸が斎藤道三によって追放、道三が事実上の美濃国主となります。

1543年、大隅国にポルトガル人2名が乗った一隻の明船が漂着。そう、鉄砲伝来です。
この年、越後守護代の長尾為景(ためかげ)が死去。子の虎千代が元服して長尾景虎(かげとら)と名乗ります。のちの上杉謙信(けんしん)でした。このときは家督は兄・晴景が継いだが、のちに謙信が継ぐこととなります。

1544年、諏訪領は武田氏と分割され、頼継は西半分を支配していたが、 諏訪氏惣領を志向する諏訪氏庶流の高遠頼継(たかとお よりつぐ)が信玄の支配する土地を侵攻、しかし、敗退して諏訪から退去、さらに翌年には高遠城も落城して高遠頼継は降伏。

1545年第2次河東一乱が勃発。
北条氏に河東を占拠されたままの今川義元が奪還作戦にでます。義元は山内上杉の上杉憲政(のりまさ)、扇谷上杉の上杉朝定(ともさだ)とともに氏綱の家督をついだ北条氏康への反撃を開始。さらに、味方であったはずの古河公方の足利晴氏も関東管領(山内上杉家)に支援されて路線を変更、氏康に刃を向けてきます。

関東方面では山内・扇谷連合の大軍に武蔵国河越城を包囲。
もう一方の駿河では今川・武田連合軍に押される状態。
窮地に陥った氏康は信玄に仲介を依頼し、10月には今川家と和睦が成立。第1次河東一乱で奪った領土を今川方に返還することで決着。
こうして、北条氏は関東方面の両上杉・古河公方連合軍との戦いである翌年の河越城の戦いに専念することになります。

1546年、氏康は日本三大奇襲の一つ「河越夜戦(かわごえよいくさ)」で両上杉・古河公方連合軍を撃破、扇谷上杉当主の上杉朝定は討ち死にし、扇谷上杉家は滅亡しています。

1547年、信玄はこの年、分国法「甲州法度次第」を制定します

■信長、家康と出会う

このころ、尾張の織田信秀、駿河・遠江の今川義元に挟まれていた三河の松平広忠(徳川家康の父)は、松平氏は今川氏の従属下に入り、忠誠の証に子の竹千代(後の徳川家康)を人質にだします。しかし、護送途中で織田方に引き渡されてしまいます。そして、尾張であの織田信長と出会い、家康は信長とともに幼少期をすごすことになるのです。このとき、家康はまだ6歳、信長は14歳でした。

1548年、今川・北条との関係が安定した信玄は北信濃の制覇に乗り出します。初戦の相手は葛尾城主・村上義清(よしきよ)。このとき信玄は村上軍に惨敗、信玄は宿老の板垣信方(いたがき のぶかた)・甘利虎泰(あまり とらやす)ら多くの兵を失い、信玄も傷を負います(上田原合戦)

この敗戦を機に小笠原長時が諏訪にせめてくるが、7月の塩尻峠の戦いで小笠原軍を撃退。

同年、一方で今川義元は織田信秀と交戦、軍師である雪斎と朝比奈泰能らを大将とした今川軍が大勝し、織田軍を安祥城へと敗走させます。義元は駿河・遠江、そして、三河をも勢力圏にいれるのです(第二次小豆坂の戦い)
この戦いに敗れた信秀は、敵対していた美濃国の斎藤道三と和睦、信長と道三の娘・濃姫を政略結婚させます。東に今川氏、北に道三、国内の敵対勢力に苦しめられていたための政策でした。
また、越後ではついに当主・晴景が景虎を養子とした上で家督を譲って隠退し、景虎が家督相続し、守護代となります。

1549年、今川・松平連合軍が三河の安祥城を守る織田信広(のぶひろ)を攻めて陥落させ、信広は捕虜となるが、人質交換によって織田家に帰還します。
このとき今川軍にだした人質が、尾張で人質としてすごしていた竹千代であり、竹千代は駿河へ移送されて今度は1547年にそうなるはずであった今川家の人質となります。こうして今川氏は松平氏を完全に保護下に置くことになります。

1550年7月、信玄が北上、小笠原領に侵攻します。小笠原長時にはすでに抵抗する力は無く、林城を放棄して村上義清のもとへ逃走。こうして、信濃中部を支配下にいれます。
さらに同年9月、村上義清の支城である砥石城を攻めるが、「砥石崩れ」と呼ばれる大敗をしてしまいます。
しかし、翌1551年信玄の家臣・真田幸隆の策略で砥石城を落城させます。

■尾張の虎「信秀」死す

一方、尾張では織田信秀が死去し、信長が家督を継ぎます。当時、尾張国は今川氏の尾張侵攻により守護の斯波氏の力が衰え、尾張下四郡を支配した守護代であった「織田大和守家」当主で清洲城主の織田信友が実権を掌握しており、信秀は尾張国全域を支配できずにいました。こうして織田一族と尾張の統一は信長にバトンタッチされます。

1552年、今度は北条氏康が動きます。
関東管領・山内上杉の上杉憲政(のりまさ)のいる平井城を攻め、落城させると憲政を越後守護の長尾景虎(上杉謙信)の元へ逃亡させます。以後、謙信は憲政の重臣として行動することになります。
また、古河公方・北条晴氏がわが子に古河公方を譲位、北条氏の血をひく古河公方・足利義氏が誕生します。

1553年、信玄が再び、村上を攻め、ついに村上義清が葛尾城を放棄して越後の長尾景虎(上杉謙信)のもとへ逃れます。こうして信濃東部も武田家の支配下におさめ、北部を除いて信濃をほぼ平定。
しかし、この村上義清の行動が、信玄と謙信の5度にもわたる壮絶な合戦を引き起こすことになるのです。

北信濃国人衆(高梨氏や井上氏の一族など)は、以前から越後の守護代家であった長尾氏と繋がりがあり、村上氏の勢力に代わり、武田氏の脅威が増大すると援助を求めるようになります。特に高梨氏とは以前から縁戚関係を結んでいました。

信玄 vs 謙信「川中島の戦い」

大義名分を重んじる謙信は、同年、北信濃の与力豪族領の奪回を大義名分として南下。 こうして、第一次川中島の戦いが勃発。このときは交戦するも、深入りせずに互いに撤退。
謙信はこの直後に初めて上洛して、後奈良天皇に拝謁し、綸旨(りんじ)を得ます。これにより、謙信の敵対者は朝敵、すなわち、武田氏との戦いの大義名分になるのです。

1554年甲相駿三国同盟が結ばれます。これは甲斐の武田信玄、相模の北条氏康、駿河の今川義元の3者間の合意に基づくものです。 これにより、三者それぞれ戦略が定まることとなります。

  • 武田氏:北信濃の攻略、越後の謙信への備え
  • 北条氏:関東平定に向けての戦い
  • 今川氏:三河・尾張への進出

同年、信玄は謙信の家臣の北条高広(たかひろ)と通じ、謀反を起こさせます。

1555年、謙信は自ら出陣し、高広の居城である北条城を包囲、これを鎮圧します。この後、高広は帰参を許されています。
この間に信玄は善光寺別当・栗田鶴寿を味方につけ、旭山城を支配下に置きます。 これに対抗するため、第二次川中島の戦いが勃発。
謙信は4月に再び信濃国へ出兵し、晴信と川中島の犀川を挟んで対峙。決着がつかずに両軍は200日余に渡り対陣することに。最後は今川義元の仲介で和睦が成立し、両軍は撤兵することになります。

1556年(弘治2年)、越後上杉家では出家騒動に見舞われます。

謙信が突如出家を宣言して出奔、高野山にむかうのです。家臣同士の領土争いや国衆の紛争の調停で嫌気がさしたためといわれています。
その間に家臣・大熊朝秀が武田信玄に内通、会津の蘆名盛氏の支援を得て謀反を起こします。天室光育、長尾政景らの説得により出家を断念した謙信は越後国へ帰国し、越後へ進入した朝秀を打ち破っています。

一方、美濃国では斎藤道三が子の義龍に討たれて戦死します(長良川の戦い)
子の義龍が実子ではなく、土岐頼芸の子という説があり、道三がこれを疑って義龍と対立したと言われています。

1557年、後奈良天皇が崩御(=ほうぎょ。天皇や君主等の死亡を表す尊敬語)し、正親町(おおぎまち)天皇が即位。

上杉と武田氏の間で第三次川中島の戦いが勃発。この頃、三好政権と対立して京を追われていた13代将軍足利義輝から和解勧告があり、小競り合いのみで終わります。

1558年、今川家では義元が嫡子・氏真(うじざね)に家督を譲り、自らは西への遠征準備に入ります。

1559年、謙信が2度目の上洛をはたします。正親町(おおぎまち)天皇と将軍義輝に謁見。三管領に準じた特権を与えられ、関東管領・上杉憲政に関東平定の命をうけます。これにより、関東出兵の大義名分を得ることになるのです。

翌年から関東遠征を開始、14回にもわたる遠征だったが目立った成果はありませんでした。

同年、一方の尾張ではついに、あの大うつけと言われた信長が尾張国統一を果たします。そして、偶然にも信長も上洛をはたしています。信長は100名ほどの軍勢を引き連れて上洛し、将軍義輝に謁見して尾張統一の将軍のお墨付きを得るのです。


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