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【戦国全史】中国・四国の群雄割拠(1400年代後半-1559年)

中国エリアでの応仁の乱以後の情勢は、備中は守護の細川氏、備後は守護の山名氏、長門・周防・石見は守護の大内氏、出雲は守護代の尼子氏が、安芸を安芸武田氏が支配していました。

  • 細川氏:備中
  • 山名氏:備後
  • 尼子氏:出雲
  • 安芸武田氏:安芸
  • 大内氏:石見・周防・長門

尼子経久の台頭

尼子氏の当主は出雲守護代の尼子経久(あまご つねひさ)
尼子氏は京極氏の分家であり、経久は応仁の乱の最中には当時の出雲守護・京極政経へ人質にだされて京都に滞在していました。その後、応仁の乱が収束すると帰国を許され、家督を継ぎます。

そうした中、京極氏ではお家騒動の真っ最中で、経久は土地の横領・税の徴収代行などを拒否するなど、幕府や京極氏の命に背くようになり、独自に権力基盤を築くようになっていきます。

こうした行動に幕府や守護・国人らが反発、1484年(文明16年)には経久は居城の月山富田城を追い出され、守護代の職をはく奪されます。

しかし、1486年(文明18年)、経久は月山富田城を奪い返し、その後、京極政経との力関係が逆転、事実上の出雲国国主となります。その後は西をにらみ、大内氏と緊張状態になっていきます。

このころ、後の中国の覇者となる毛利氏の当主は毛利弘元(もうり ひろもと。毛利元就の父)であり、大内氏当主・大内政弘の勢力下である安芸国人領主の一人でした。

一方、四国エリアは讃岐・阿波・伊予・土佐の4国ありますが、応仁の乱以後、 讃岐・阿波・土佐東部は守護の細川氏、土佐西部は応仁の乱を避けて中央から下向した五摂家の一条家、 伊予は守護の河野氏が支配していました。

1493年(明応2年)、中央において明応の政変が勃発。あらたに細川政元の政権が誕生します。しかし、政元には後継者がいなかったため、三人の養子、細川澄之・細川澄元・細川高国をとったことが後に後継者争いを発生させることになります。

1494年(明応3年)、大内氏では当主・大内政弘が病気のため、嫡子の大内義興が家督を継ぎます。

1499年(明応8年)、毛利弘元が隠居、嫡男の毛利興元(おきもと)が8歳で毛利氏の当主となります。

1506年(永正3年)、毛利弘元は酒におぼれ死去。

1507年(永正4年6月23日)に、永正の錯乱が勃発。 細川政元は後継者候補の一人である細川澄之の手によって暗殺されてしまいます。
この事件で細川氏が中央に引き上げた影響で、土佐国は「土佐七雄」と呼ばれる7つの国人が割拠する状態となり、土佐一条氏はその上位に立って盟主的存在を担うようになります。

また、この乱に乗じて讃岐の国人の十河氏は細川京兆家の重臣・三好氏と結びつつ、讃岐守護代であった細川家臣の香西氏などと抗争し、徐々に勢力を拡大していきます。また、のちに三好長慶の弟・十河一存が養子に入り家督継承することで十河氏は三好一門となります。

土佐七雄とは本山氏、吉良氏、安芸氏、津野氏、香宗我部氏、大平氏、長宗我部氏のこと。 ちなみに長宗我部氏は翌1508年(永正5年)に一旦滅亡。しかし、一条氏に保護されていた国親が後に再興。

1508年(永正5年)、細川氏の後継者争いの最中、これを畿内進出の好機とみて周防(山口)から大内義興が足利義材改め義尹(よしただ、後の義稙)を奉じて上洛。

義興は時の11代将軍・義澄を近江に逃亡させ、足利義尹を将軍職に復帰させます。そして、管領は細川高国、義興は管領代と山城守護に任命され、細川高国と共に幕政を執行する立場になるのです。

1511年(永正8年)、中央で将軍・足利義稙を擁立する細川高国と前将軍・足利義澄を擁立する細川澄元で覇権をめぐる戦いが勃発します(船岡山合戦)
このとき、大内氏当主・大内義興に従う経久が上洛し、細川高国側について参戦しています。

毛利元就の登場

1516年(永正13年)、毛利氏当主・毛利興元が急死。これにより、毛利弘元の次男・毛利元就が興元の子、幸松丸を後見することになります。

1517年(永正14年)、安芸武田氏の武田元繁との戦いで元就が初陣、勝利します(有田中井手の戦い)
この戦いは「西国の桶狭間」と呼ばれ、安芸武田氏の衰退と毛利氏の台頭の分水嶺となった戦いとされるようになりました。この後、元就は大内氏から尼子氏に鞍替えします。

1518年(永正15年)、尼子氏の家臣の桜井宗的が出雲・阿用城で謀反を起こします。経久は嫡男の尼子政久(まさひさ)を派遣。しかし、その戦で政久は矢に当たり命を落としてしまいます。

1523年(大永3年)、毛利元就は、尼子経久の求めに応じて義父の吉川国経をともない、大内氏の支配する鏡山城を攻めます。元就は調略で城主・蔵田房信の叔父の直信を籠絡し、直信が房信を討って開城(鏡山城の戦い)
しかし、経久は約束を反故にして直信を斬首してしまい、元就は経久に対して反感を抱くようになります。経久もまた、元就のこの調略を脅威に感じるようになるのです。
この戦いの時点で尼子氏は安芸を支配し、大内氏を凌ぐ中国の覇者となります。

同年、元就が後見していた幸松丸が死去。毛利の家督をついだ元就が毛利家当主となります。

しかし、経久の指示により、毛利家の一部の家臣が元就の弟・相合元綱を擁立して対抗。 元就はこうした動きに対し、家中の対抗勢力を一掃。こうして元就は経久と手を切り、大内氏に寄ることを決意するのです。

1525年(大永5年)、元就は尼子氏から離れ、大内義興の傘下となる立場を明確にします。このころ、大内氏は安芸に攻め込み、尼子氏から安芸の一部の領土を奪い返します。

1528年(享禄元年)、大内義興が安芸門山城攻めの陣中で病に倒れ、山口に帰還後に死去。子の大内義隆が家督を相続します。

1537年(天文6年)、元就は大内氏に寄るため、大内氏当主・大内義隆に嫡男(のちの毛利隆元)を人質にだします。また、同年、尼子氏では経久が隠居し、孫の尼子晴久が家督を継いで当主となります。

1540年(天文9年)、尼子経久は晴久を毛利攻めに派遣。晴久の叔父で新宮党の当主・尼子国久が補佐。軍力のどうしようもない差に元就は1年にもおよぶ籠城にでます。

1541年(天文10年)、元就に援軍が到着。大内義隆の重臣・陶隆房率いる1万の大軍が加勢にきて形勢は逆転、尼子氏は退却を余儀なくされます。また、この年に尼子経久が死去。これにより尼子方に属していた国人衆らは大内氏へ鞍替えすることになります。

1542年(天文11年)、大内氏は経久の死を好機ととらえ、尼子氏討伐に打って出ます(月山富田城の戦い)
翌1543年(天文12年)、軍議で力攻めを提案する陶隆房と調略を提案する元就。力攻めが採用され、尼子氏は籠城するも戦いは長期化。
鞍替えしたばかりの吉川興経をはじめとする安芸国人衆らが城へ総攻撃とみせかけ、そのまま敵の抵抗もなく入城。この寝返りにより一気に形勢は逆転し、大内軍は急遽撤退に転じることになります。

このとき、外様の元就は殿を命ぜられ、窮地を迎えます。しかし、元就の家臣・渡辺通が身代わりとなって元就はかろうじて逃げのびることとなります。

この敗戦で以後、義隆は自ら戦にでることを忌み嫌うようになり、文化に傾倒、こうして文治派が台頭し、武断派の隆房は影響力を失って行きます。義隆とも不仲になってゆきます。

1544年(天文13年)、元就の三男・徳寿丸が竹原小早川家の家督を相続、のちの小早川隆景(たかかげ)です。3年前に竹原小早川家当主・小早川興景が病死、男児がいなかったために親戚筋の毛利から養子をむかえたための相続でした。このときの縁組は共通の主筋の大内義隆のすすめでなされたため、毛利・小早川の争いもなく円滑に行なわれました。

一方で元就の次男・元春も、3年後に親戚筋ではあるが毛利と敵対していた吉川家の吉川興経の養子となるのでした。月山富田城の戦いで吉川興経は寝返り、尼子氏についていたが、元々毛利と吉川は婚姻などで関係は良好でありました。

 

1546年(天文15年)、元就は家督を嫡子・隆元に譲ります。 

1547年(天文16年)、元就とその宿老らは吉川興経の命を保証し、隠退を納得させます。吉川興経の嫡子・千法師を吉川元春の養子にし、のちに家督を継がせるという条件を提示したのです。しかし、吉川興経は子の千法師ともども暗殺され、元就は吉川家の乗っ取りに成功します。

1548年(天文17年)、中央では三好長慶が謀反を起こし、翌1549年(天文18年)には細川晴元、足利義晴、13代将軍・義輝らを京から追い出し、細川氏綱とともに上洛します。これにより三好政権が誕生し、四国の細川領であった讃岐・阿波は三好氏が支配することになります。

1550年(天文19年)、小早川隆景が沼田小早川家という小早川宗家の家督継承に成功。
沼田小早川家当主・小早川繁平は弱冠9歳で病弱で目も見えませんでした。沼田小早川家の宿老達は反発するも誅殺されます。この家督継承には大内義隆の後押しがありました。

毛利氏の台頭

■陶晴賢の謀反

1551年(天文20年)、大内家中では月山富田城の戦い以後、文治派と武断派が対立しており、ついに武断派の陶隆房が謀反を起こします。そして、長門の大寧寺において大内義隆を自害に追い込みます(大寧寺の変)
こうして大内氏は事実上滅亡。義隆の嫡子・大内義尊(よしたか)も殺害されます。

陶隆房はこの後、大内義隆から偏諱をうけていたので改名、陶晴賢(はるかた)と名乗るようになります。また、このころ、元就は以前からこの当主交代に同意していたため、陶晴賢の支持のもと、謀反前に大内氏の支城を攻略。晴賢は元就に安芸・備後の国人領主たちを取りまとめる権限を与えていました。

1552年(天文21年)、陶晴賢は義隆の養子であった大友晴英(はるひで。翌年、大内義長に改名)を傀儡として大内氏新当主にむかえることで大内氏の実権を掌握。
一方で元就は、尼子晴久が大内の支配下だった備後国に攻めてくると、政変後の処理に追われる晴賢に代わって交戦。

翌1553年(天文22年)には攻防の末に尼子氏を撤退に追い込みます。しかし、尼子撃退後の安芸・備後周辺の戦後処理を巡って、元就と晴賢の間には確執が生まれ始めるのです。

1554年(天文23年)、こうした中、義隆に恩義があった石見の吉見正頼(よしみ まさより)が晴賢に叛旗を翻し、三本松城の戦い(さんぼんまつじょうのたたかい)が勃発します。
陶氏と吉見氏は同じ大内家臣でありながら応仁の乱以来の仇敵でした。また、吉見氏は事前に密かに元就と交渉して決起を促していました。元就は晴賢からも出陣要請をうけたが、晴賢への不信感を抱いていた元就の嫡男・隆元の反対で出兵ができないでいました。
そこで晴賢は、安芸の国人領主たちに直接、出陣の督促の使者を派遣。しかし、これは安芸・備後の国人領主らを取りまとめる権限を元就に与えるとした約束に反していました。

使者を捕えた平賀広相からその事実を告げられた元就は晴賢との対決を決意します。(防芸引分)
こうして、元就は挙兵、安芸から大内方勢力を一掃し、安芸一国をほぼ手中に収めるのです。また、同年、尼子氏では晴久が新宮党当主の国久とその子である誠久を誅殺してしまいます。

■元就、厳島の戦いで勝利

1555年(弘治元年)、前年に元就の謀反によって安芸を支配された晴賢は激怒、大軍を率いて安芸厳島に侵攻するが、村上水軍を味方につけた元就に敗れ、自害に追い込まれます(厳島の戦い)

この戦いに勝利した元就はその勢いを保ったまま、大内氏領周防・長門への侵攻を開始します。そして、1557年(弘治3年)、ついに元就は大内氏の当主・義長を討って、大内氏を滅亡に追い込みます。
これにより九州を除く大内氏の旧領の大半を手中に収めることに成功(防長経略(ぼうちょうけいりゃく))

1558年(永禄元年)、大友義鎮との和睦を破棄、北九州を攻めます。小早川隆景を派遣し、九州攻略の拠点の確保に成功します。


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