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【戦国全史】九州の群雄割拠(1400年代後半-1559年)

応仁の乱収束後の九州エリアの各勢力

1477年(文明9年)、応仁の乱の収束で大内氏14代当主・大内政弘(まさひろ)は10月に新将軍になった足利義尚の名で周防・長門・豊前・筑前の4か国の守護職を安堵されます。

また、当時の大友氏の当主・大友政親(まさちか)は前将軍・義政から家督の継承を認められ、豊後・筑後両国の守護に任じられます。

九州各国の主な勢力は以下

  • 大内氏:豊前・筑前
  • 大友氏:豊後・筑後
  • 小弐氏(しょうに):肥前の東部
  • 有馬氏:肥前の西部
  • 菊池氏:肥後
  • 伊東氏:日向
  • 島津氏:大隅・薩摩

1478年(文明10年)には大内氏が九州に出陣して少弐氏と戦い、豊前・筑前を確保

大友家内の混乱

1484年(文明16年)、大友氏では親子の対立が芽生えます。当主・大友政親が息子の親豊(後の義右(よしすけ))に家督を譲って隠居。しかし、親豊の母が大内氏の娘であったことから大内氏が干渉、さらに、従兄弟(第13代当主大友親綱の子)である大友親実大聖院宗心(だいしょういんそうしん)が政親と親豊の仲たがいを図って演出したこともあって、家中は政親派と親豊派に分裂していきます。大友氏はこうして一時的に衰退していきます。

1491年(延徳3年)、大内政弘が10代将軍・義材(のちの義稙)に従い、六角高頼の討伐のために再度上洛。そして翌1492年(明応元年)には嫡子・大内義興も参陣します。
こうした中、九州では大友氏や小弐氏が勢力を盛り返していきます。しかし、大内氏重臣の陶弘護が大友氏を撃退、さらに大内政弘が帰国すると小弐氏も撃退していきます。

1493年(明応2年)、中央では明応の政変が勃発し、細川政元に擁立された足利義高(のちの義澄)が11代将軍に就任し、細川政権が誕生します。この際、大友氏では、政親は足利義高(義澄)を、義右(親豊)は廃された足利義材(義稙)を支持し、この後も大友家中では混乱が続きます。

1496年(明応5年)、ついに、大友氏の親子対立がきっかけで事件が発生します。
大友義右(よしすけ)が急死し、大友政親(まさちか)が毒殺したとのうわさが流れます。大内政弘から家督継承した大内義興はこの報をきいて激怒、政親も大内領に侵攻するが自害に追い込まれます。
その後、政親の弟が大友親治(ちかはる)が家督相続しますが、義興は大友家の後継者に大聖院宗心を擁立して干渉してきます。

大内氏と大友氏は大友政親が大内政弘の妹を妻として婚姻関係を結び、次いで、彼女が生んだ大友義右が家督を継いだことで大内義興と義右が従兄弟として協力することになり、安定した関係が築かれていました。

1497年(明応6年)、大内義興が九州探題の渋川尹繁(ただしげ)救援を名目に肥前に挙兵。第15代当主・小弐政資(しょうに まさすけ)と子の高経は自害し、少弐氏は一時的に滅亡します。

1498年(明応7年)、大友氏の家督を継いだ親治(ちかはる)が豊前国下毛郡の戦いで大内軍を破って大聖院宗心を追放、大友氏の家中統一に成功します。

1501年(明応10年)、小弐政資の三男・小弐資元(すけもと)が弔い合戦の旗をあげます。さらに、大友親治も大内氏を討とうとします。しかし、このころ、大内氏は流れ公方こと足利義尹(よしただ)を保護していたため、義尹の仲介で和睦し、戦にはなりませんでした。

九州各国の主な勢力は以下

  • 大内氏:豊前・筑前
  • 大友氏:豊後
  • 菊池氏:肥後

大友氏の家督継承に大友義鑑(よしあき)が就くと争いが絶えなくなります

1518年(永正15年)、大友家臣の朽網親満(くたみちかみつ)が反乱を起こすもこれは鎮圧。

1520年(永正17年)、義鑑の弟・大友義武(菊池義武)が肥後の菊池の家督継承に成功。

1530年(享禄3年)、大内義興の家督を継いだ大内義隆が九州に出兵。 小弐資元を討つために家臣の杉興連や陶興房らに軍を預け、少弐氏を攻めるも大敗を喫してしまいます (田手畷の戦い (たてなわてのたたかい))。
このころ龍造寺氏は小弐氏に被官しており、この戦いで杉興連を敗走させたのが龍造寺家兼でした。龍造寺家兼は龍造寺氏の分家の当主でありました。

1534年(天文3年)、菊池義武が独立。やむなく大友義鑑は挙兵し、義武は逃亡。大内義隆が小弐氏打倒に動きます。

1535年(天文4年)、大内義隆が小弐資元を自害に追い込みます。このとき、龍造寺家兼は動かなかったために謀反人扱いされ、家兼の子と孫が資元の重臣・馬場頼周(よりちか)に殺害されてしまいます。龍造寺家兼は難を逃れ、筑後柳川城主・蒲池鑑盛(かまちあきもり)の元で再起を図ることになります。

1546年(天文15年)、龍造寺家兼は仇の馬場頼周を討ちます。

1548年(天文17年)、家兼はひ孫の龍造寺隆信に家督を継がせ、再興を果たします。
さらに、同年に龍造寺本家の当主が死没したため、隆信はその未亡人を娶り、本家の家督継承に成功。これに本家の宿老は反発。反発をおさえるために隆信は大内義隆を頼ります(当主になれたのも大内氏の後ろ盾があったからでした。)

1550年(天文19年)二階崩れの変が勃発。大友義鑑は嫡子・義鎮(後の大友宗麟)の廃嫡を試みると4人の重臣が反対。そのうち2人を殺害します。しかし残り2人の重臣が反撃。
義鑑が家督継承させようとしていた塩市丸とその実母を殺害。義鑑は返り討ちにするが、自身も傷を負い、数日後に死去。こうして大友宗麟(そうりん)が家督を継承します。

1551年(天文20年)大寧寺の変で大内義隆が家臣の陶隆房(すえたかふさ?、後の陶晴賢)の謀反によって討たれ、大内氏は事実上滅亡します。
一方、大内義隆という後ろ盾を失った龍造寺隆信は本家から追放され、柳川の蒲池鑑盛の元に逃れることになります。しかし、隆信はその2年後、挙兵して本家を奪還、再び本家当主に返り咲くのです。

1554年(天文23年)、宗麟が菊池義武を滅ぼします。

1559年(永禄2年)、龍造寺隆信はかつての主君・小弐氏の当主・小弐冬尚(ふゆひさ)を自害に追い込み、ここに小弐氏は戦国大名としては滅亡することになります。


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