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【戦国全史】乱世の幕開け(1400年代後半)

戦国時代とは一体いつから始まったのだろうか?

一般的には応仁元年(1467年)の "応仁の乱" や明応2年(1493年)の "明応の政変" が有力な説であるが、当連載では "応仁の乱" から扱っていくこととする。

"応仁の乱"は戦国の幕開けとなる日本史上最大の内乱であり、その背景や経緯は非常に複雑であるが、その後の戦乱の世を読み解く上でも絶対に押さえておきたい出来事だ。
しかし、その前にまず、室町時代、特に室町幕府の体制や役職をざっくりと知っている必要があるので次にみていこう。

当時の室町幕府の体制

まず、室町幕府のトップというのは"征夷大将軍"であって初代の足利尊氏にはじまる足利氏である。3代義満、4代義持、6代義教、そして、応仁の乱に大きく関わる8代義政など、15代義昭まで続くことになる。

幕府の組織というのは拠点である京都(山城国)を"中央" とし、それ以外を"地方" としている。

中央には将軍のほか、将軍に次ぐ要職で主に将軍を補佐する"管領"、その下に"侍所所司""政所執事"などがある。

一方、地方は幕府の出先機関に位置付けされ、関東の"鎌倉府"、九州の"九州探題"、陸奥(青森、岩手、宮城、福島)の "奥州探題"、出羽(秋田、山形)の"羽州探題"が、また、各国には治安維持や武士を統制するための"守護" という地方官が置かれた。

"管領"には足利氏、または、源氏の血を引く家柄(細川氏・斯波氏・畠山氏の3氏(=三管領という)が、そして"侍所所司"は室町幕府創設に貢献のあった一族である山名氏・一色氏・京極氏・赤松氏の4氏(=四職という)と美濃源氏の名門である土岐氏が、"政所執事" には歴任していた伊勢氏が就任していた。

このようなシステムで室町幕府の政治は行なわれていたのである。

戦国時代の幕開け「応仁の乱」

さて、本題の応仁の乱に移るが、その前に戦国時代に突入することになった3つの要因を以下にあげよう。

  • 室町幕府の統治力の低さ
    室町幕府では内部対立が長く続いており、幕政はとても不安定な状況であった。幕府直属軍勢はわずか3000名ほどしかおらず、民衆への支配力もなかった。
  • 民衆の一致団結・自立意識の高さ
    各地の民衆は惣村を形成して、幕府や守護等の領主の支配に対して要求や不満があれば "土一揆" を起こした。土一揆は主に年貢の減免や債務破棄の要求が中心である。
  • 天災続きと食糧難
    当時は天災続きと食糧難であり、民衆は危機意識が高く、幕府はあてにならなかった。

こうした世の中で応仁の乱が勃発するのであるが、その背景には主に3つの要因があり、それぞれが複雑に絡んでいた。

  • 将軍継嗣問題
  • 管領家である畠山氏や斯波氏の家督争い
  • 有力守護大名である山名宗全と細川勝元の対立

それでは以下にそれぞれの要因を個別にみてみく。

その1:将軍継嗣問題

当時、8代将軍・足利義政と日野富子との間には子供ができなかった。そのため、9代将軍を義政の弟の足利義視(よしみ)に打診。出家していた義視は最終的に承諾して還俗し、次期将軍は決まっていたはずであった。

しかし、寛正6年(1465年)に義政と日野富子との間に子供(=足利義尚)ができ、日野富子は実子である義尚を将軍にしたいがため、山名宗全に相談、支援を求めた。これに対し、義視も管領の細川勝元に相談、支援を求めたのであった。

その2:管領家の家督争い

将軍継嗣問題とちょうど同じ頃に、将軍の補佐職である管領の畠山氏や斯波氏でも家督争いが起こっていた。先に述べたように代々、管領を担当していたのは細川家・畠山家・斯波家の三家(三管領)である。

畠山家の家督争いは「畠山義就(よしなり) VS 畠山政長(まさなが)」、そして、斯波家の家督争いは「斯波義廉(よしかど) VS 斯波義敏(よしとし)」の構図であった。

特に畠山家の家督争いには8代将軍足利義政が絡んでおり、当初義政は義就を追放し、政長を総領と認めていたが、義政は山名宗全に乗せられてこれを一転、政長の管理職を罷免(=職務をやめさせること。免職。)し、義就を総領と認めてしまった。

これがきっかけで応仁元年(1467年)1月には応仁の乱の合戦のひとつ、御霊林の合戦が勃発した。

その3:有力守護大名である山名宗全と細川勝元の対立

当時、幕府の二大勢力であった山名宗全と細川勝元だが、細川勝元は妻(正室)に宗全の養女を迎え、また、宗全の末子の山名豊久を養子に迎えており、両者の関係は悪くなかった。

しかし、文正元年(1466年)に勝元に実子ができると、養子の山名豊久を廃嫡(=家督相続権をなくす、親子関係を絶つということ)にしてしまう。

これに山名宗全は怒り、両者の関係は急速に悪化していき、上述の将軍継嗣問題や畠山家の家督争いでの支持においても対立することになるのであった。

応仁の乱の経過と戦国大名の登場

こうして応仁の乱がはじまったわけだが、この内乱は文明9年(1477年)まで約10年にわたって続き、その間に戦場となった京都は大きく荒廃し、幕府の機能も低下していった。
こうした背景の中、力のある地方権力者たちは幕府の政治体制や制度を無視し、在地の武士や農民を統率する地域のリーダーとして独自の領国統治を行なうようになっていった。これが "戦国大名" の誕生である

戦国大名というと、武力で国を支配する恐ろしい面を想像するが、実際はそうでもない。
彼らは武力によって領土拡大して食糧確保に奔走したが、民衆の要求には従って民衆のために戦った。また、守護大名とは違って家臣との主従関係を強力に結ぶも、一方的に支配する専制君主ではなかったのである。

また、彼らは幕府には従わず、それぞれが分国法と呼ばれる独自の法律を作って領国の経営にあたった。戦乱の世では兵数や物資が多くて統率がとれたほうが当然強く、秩序を要することから分国法を作ることは必然であった。

ちなみに"喧嘩両成敗法"は多くの分国法にとりいれられ、領地内の紛争の決着権限を戦国大名に集中させることで国内紛争を抑えた。


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