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関東騒乱(1400-1500年代初頭)

戦国時代は応仁の乱の始まりで突入したが、実は関東では一足先に乱世が到来していた。

幕府と鎌倉公方の対立のはじまり

南北朝時代の正平4年/貞和5年(1349年)に、初代将軍足利尊氏の次男の足利基氏が鎌倉府に入り、初代鎌倉公方となる。

ちなみに"鎌倉府" とは、関東における幕府の出先機関であり、"鎌倉公方" はその長にあたる。鎌倉公方の補佐役が"関東管領"である。鎌倉府は京と離れているのもあり、独立志向が強くなった鎌倉公方が権力を徐々に増大させていった。その結果、京と関東で2つの将軍が併存するような状態となり、室町幕府と鎌倉公方の対立が深まっていくことに・・・。

4代鎌倉公方・足利持氏の代に対立が顕著になる。きっかけはクジ引きで足利義教が6代将軍に決定したことであった。
持氏は自分が将軍に就けなかったことでこれに反発して中央で使っていた元号を用いなかった等、幕府に対して不服従の態度を示した。関東管領の上杉憲実(のりざね)は持氏に考えを改めるように忠告するが、持氏は聞く耳をもたずに憲実とも関係を悪化させ、憲実は関東管領職を辞任したのであった。

永享の乱が勃発

そうした中、永享10年(1438年)には憲実が分国であった上野平井城にのがれ、これを許さない持氏は上杉憲実討伐のために挙兵。憲実が幕府に救援を頼み、幕府と関東管領を敵に回してしまった持氏は翌年に自害、鎌倉公方は一時的に消滅となった。(永享の乱)

永享12年(1440年)には下総国の結城氏朝・持朝父子が持氏の遺児を擁立、幕府に対して反旗を翻すも結城氏朝・持朝は敗北して討死(結城合戦)、持氏の遺児のうち、春王丸、安王丸は美濃に送られて処刑され、成氏は京都に送られた。

翌年の嘉吉元年(1441年)、中央ではこの結城合戦の祝勝の宴として6代将軍義教が家臣の赤松満祐(あかまつみつすけ)の屋敷に招かれ、首をはねられるという事件が勃発。万人恐怖の政治を行なった義教のあっけない最後であった(嘉吉の乱)

鎌倉府再興と新たな火種

永享の乱以後、上杉憲実は政争を嫌って弟の上杉清方(きよかた)に託して出家してしまう。幕府は関東の秩序回復のため、憲実に関東管領復帰を命じるも、憲実はこれを拒否したことでやむなく上杉清方を関東管領として認めた。しかし、その清方は文安元年(1444年)に死去し、関東管領の地位が再び空白となる。その一方で断絶していた鎌倉府再興の運動も開始された。

上杉氏や関東諸士から幕府への働きかけや幕府管領の畠山持国の支持などもあり、宝徳元年(1449年)には鎌倉府再興が承認され、5代目鎌倉公方に足利持氏の遺児である足利成氏、関東管領に山内上杉家で上杉憲実の嫡男である上杉憲忠が就くことになった。
ここに新たな火種が存在していた。成氏からみれば憲忠は父の仇である憲実の子。成氏は憲忠を疎んじて対立を深めていった。

宝徳2年(1450年)には関東管領を世襲した山内上杉家の家宰である長尾景仲、扇谷上杉家の家宰である大田資清(すけきよ)が憲忠に無断で成氏に対して挙兵する江の島合戦が勃発。憲忠は直接この事件には関与していなかったものの、責任をとって相模七沢にて謹慎した。その後、両者は幕府の仲介を得て和睦し、憲忠も職に復帰した。

そうした中、享徳元年(1452年)には中央で管領が畠山持国から細川勝元に交代。勝元は成氏に対して厳しい姿勢をとり、関東管領の取次がない書状は受け取らないと言い渡し、関東管領をとおして幕府の影響力を強めようとした。

30年に及ぶ争乱「享徳の乱」

享徳3年(1454年)12月27日、ついに成氏は上杉憲忠を御所に呼び寄せて謀殺。これをきっかけとして以後、約30年間にも及ぶ「5代目鎌倉公方 成氏 vs 上杉家+幕府追討軍」の戦いがここにはじまった(享徳の乱)

分倍河原の戦い

主君・上杉憲忠が討たれたことを知った長尾景仲は、享徳4年(1455年)に成氏追討のために挙兵するも、成氏軍の圧勝に終わった。この戦いの報が入った幕府では成氏に同情的な意見もあって議論は紛糾するも、管領である細川勝元の意向によって成氏討伐令が上杉氏一族をはじめ周辺の守護である今川範忠(駿河)・小笠原光康(信濃)・宇都宮等綱(下野)・千葉胤直(下総(前守護))にも下された。

成氏は幕府に対して反意がなく、これは上杉氏との抗争であることを主張、しかし、幕府から回答は得られなかった。このため、京都では享徳4年7月に康正、康正3年9月には長禄と立て続けに改元されたにもかかわらず、成氏は幕府に抵抗する意思を示すため、「享徳」の元号を使用し続けた。このことは享徳の乱が康正・長禄年の戦いでありながら、享徳の乱と称された理由でもある。

古河公方・堀越公方の誕生

こうして足利成氏は朝敵になった。幕府の追討軍の襲撃で鎌倉に戻れなくなってしまった成氏は下総古河に逃れ、ここを仮の拠点とすることを宣言。これが"古河公方"と称される。

長禄2年(1458年)、幕府は関東鎮静化のため、8代将軍義政の弟、足利正知を新しい鎌倉公方として伊豆の堀越に派遣。しかし、上杉氏が関東入りを拒否し、正知は堀越にとどまって拠点を設けた。これが"堀越公方"と称される。
堀越公方を推す両上杉家と、古河公方との争いは長期化し、次第に利根川(当時は現在と違って南の江戸湾に流れていた)を挟んで東側を「堀越公方」、西側を両上杉家が掌握していくようになる。

文明8年(1476年)長尾景春の乱が勃発。山内上杉家の家宰を継承できなかった長尾景春が謀反を起こし、古河公方につく。しかし、扇谷上杉家の家宰である大田道灌がこれを鎮圧。
この結果、かつては山内上杉家に比べて小さな勢力でしかなかった扇谷上杉家が、山内上杉家と肩を並べるほどに勢力を増し、これが後に両上杉家が衝突する火種となるのであった。

文明14年(1483年)、ついに幕府と古河公方との間で和解。こうして享徳の乱は終結し、お互いの領国支配を認めることとなった(都鄙合体)。堀越公方である政知の存在は宙に浮き、関東どころか伊豆一国の領主に過ぎなくなった。

戦国大名の先駆け「北条早雲」の登場

北条早雲が歴史の表舞台に登場するのは、時を遡って応仁の乱の最中の文明8年(1476年)である。

今川家の家督争い

この年、足利一門の今川氏6代当主・今川義忠は、失っていた遠江守護職を奪還するため、遠江国で斯波氏と戦っていた。しかし、斯波氏の家臣で遠江国の有力国衆である横地氏や勝間田氏の襲撃によって討ち死に、今川家で家督争いが生じることに。義忠の子・幼少の龍王丸(=のちの今川氏親)と分家の小鹿範満との間で対立し、範満支持派として堀越公方の重臣・上杉政憲や、扇谷上杉氏の家宰・大田道灌らが介入する事態に発展していった。

幕府申次衆であった早雲は龍王丸の叔父であったことから、京から駿河へ向かって家督問題の調停にあたり、龍王丸が成人元服までは代理として小鹿範満が執政にあたるということで話をまとめたのである。こうして早雲は再び京都へ戻った。

だが、小鹿範満は、龍王丸の成人後も家督を戻そうとはしなかったようだ。このため、早雲は長享元年(1487年)に再び駿河へ下り、小鹿範満とその弟の孫五郎を討ち取った。そして、龍王丸が晴れて家督を継承して7代目当主・今川氏親が誕生したのである。

両上杉家の対立「長享の乱」

なお、同年には山内・扇谷の両上杉家の対立による "長享の乱"も勃発、この戦いは永正2年(1505年)まで続き、早雲も扇谷上杉家の援軍として参戦するが、やがて両上杉家は早雲によって徐々に衰退に追い込まれていくことになる。

堀越公方でも家督争いが勃発

堀越公方では、初代足利政知の子・茶々丸が廃嫡されて土牢に閉じ込められ、関東執事として仕えていた上杉政憲も自害させられる事件が起きた。実はここでも早雲が関与している。

廃嫡の理由は、茶々丸の母が死去したのち、政知と後妻との間に2人の男児が生まれたことにあった。兄は清晃(せいこう、後の11代将軍足利義澄)で弟は潤童子(じゅんどうじ)といった。上杉政憲の自害はこの件に関して政知を諌めたことで怒りを買ったのであった。

政知は清晃を次期将軍に、潤童子を堀越公方に就かせて中央と関東の再統一を果たす狙いがあった。しかし、政知は延徳3年(1491年)に病死。この後、茶々丸は後妻に虐待されるも、土牢を脱出して後妻と潤童子を殺害した。清晃は出家して京にいたために難を逃れたようである。

こうした中、中央では明応2年(1493年)明応の政変と呼ばれるクーデターによって清晃が11代将軍となり、義遐(よしとお)と改名。そして幕府官僚の経歴を持ち、茶々丸の近隣に城を持っていた北条早雲に母と弟の敵討ちを命じたのであった。これを受けて早雲は茶々丸を自害(※諸説あり)に追い込み、堀越公方を滅ぼした(伊豆討入り)

近年の研究だと、茶々丸は明応4年(1495年)に伊豆国から追放され、山内上杉氏や武田氏を頼って伊豆奪回を狙っていたことが明らかななようであり、 また、同年に早雲は、茶々丸の討伐・捜索を大義名分として甲斐へ出陣して甲斐守護の武田信縄と戦ったようである。
茶々丸は明応7年(1498年)8月に甲斐国で早雲に捕捉されて自害したという。

小田原城攻略

明応3年(1494年)、扇谷上杉氏に3つの不運があった。

  1. 上杉定正の重臣であった小田原城主・大森氏頼が病死。
  2. 新井城主(神奈川県三浦市)三浦時高が死去(死因は諸説あり)。
  3. 扇谷上杉氏当主・上杉定正が山内上杉氏との戦いで落馬して死去。

大森氏頼の死により、小田原城の城主は次男の大森藤頼が後を継ぎ、早雲は同盟関係の扇谷両上杉氏と距離をおいたのか、小田原城攻略を実行に移していく。

『北条記』によれば、早雲は藤頼にたびたび進物を贈り、警戒心を解いて接近した。ある日、箱根山での鹿狩りを名目に領内に勢子(せこ、=狩猟の際、動物を追い回す役割の人)を入れさせて欲しいと頼み、早雲に心を許していた藤頼は快諾した。
しかし、勢子の正体は早雲の兵士であり、その夜に敵の大軍の襲撃を装って小田原城を大混乱させ、早雲は簡単に城を乗っ取ったという。

真実は定かでないが、早雲は実際に小田原城を奪取したのである。明応4年(1495年)(※諸説あり)のことであった。

両上杉家、対立から和解へ

永正元年(1504年)には、山内・扇谷両上杉氏の争いである長享の乱の事実上の決戦となった立河原の戦いがはじまる。この戦に早雲は今川氏親の求めに応じる形で武蔵国立河原に出陣し、扇谷上杉の上杉朝良を援護し、山内上杉の上杉顕定と再戦して勝利した。

しかし、顕定の弟である越後守護・上杉房能がこの報を聞き、兄を救うべく扇谷上杉家の諸城に攻め入って攻略。翌永正2年(1505年)3月には、顕定の軍勢に河越城を包囲されてしまい、扇谷上杉家の降伏で長享の乱は収束となるのであった。

永正4年(1507年)には、顕定の養子・上杉憲房と朝良の妹の婚姻が成立して両上杉家は和解している。

この頃の早雲は、1501年 - 1504年に今川家の重臣として三河で松平長親と戦い、また、1506年には相模国で検地を実施するなどの領国支配に向けて強化している。

永正年間の一連の争乱「永正の乱」

この頃、関東・北陸地方で永正の乱(えいしょうのらん)と呼ばれる一連の戦乱が発生しているが、複雑なために以下4つに分けてまとめる。

  1. 越後国の下剋上
  2. 山内上杉家の家督争い
  3. 古河公方家の内紛
  4. 北条早雲・扇谷上杉家の動き

その1:越後国の下剋上

永正3年(1506年)9月、一向一揆が盛んであった隣国の越中。これを抑えるために越後守護代・長尾能景が出陣。しかし、味方の武将の裏切りによって能景は戦死、子の長尾為景が家督を継いで越後守護代となる。
この状況においても主家の越後守護・上杉房能は援軍をださなかったため、父を亡くした為景は憤り、翌年の謀反につながっていく。

永正4年(1507年)8月、為景は上杉定実を傀儡として擁立し、主家の上杉房能を襲撃。房能は兄である関東管領の上杉顕定を頼って関東への逃亡を図ったが、これを追って途中で自害に追い込んだ。

永正6年(1509年)には顕定が弟の敵討ちのために報復の大軍を起こすと、為景は劣勢となって一旦は佐渡への逃亡を余儀なくされた。しかし、翌永正7年(1510年)に再び越後へ上陸すると、高梨政盛(為景の外祖父)の助力を得て顕定を討ち取るのであった(長森原の戦い)。

その2:山内上杉家の家督争い

山内上杉家は顕定が戦死した永正7年(1510年)、養子の上杉顕実が家督を継ぎ、関東管領職に就く。しかし、同じく養子の上杉憲房はこれに黙っておらず、横瀬景繁(よこせ かげしげ)・長尾景長らの支援を受けて家督を争う姿勢をみせた。

こうして、山内上杉家は二分。さらに複雑なことに、同じ頃に古河公方でも2代目古河公方の足利政氏と子の足利高基が対立しており、山内上杉家の家督争いに絡んでくる。
顕実は兄の2代目古河公方・足利政氏と、そして憲房は足利高基と組んで関東全域を巻き込んだ争いに発展。一方でこうした中、扇谷上杉家当主・上杉朝良が影響力の復活を図って仲介に動くも失敗している。

永正5年(1512年)には憲房が家督争いに勝利し、敗れた顕実は当主の座を失って兄の政氏を頼って古河城へと逃亡となった。そして、永正8年(1515年)には顕実が病死し、関東管領職も憲房のものとなる。

その3:古河公方の家督争い

理由はよくわからないが、2代目古河公方・足利政氏と嫡男の高基が対立し、永正3年(1506年)には高基が義父の宇都宮成綱を頼って下野宇都宮に逃亡した。
その後、永正6年(1509年)には関東管領・上杉顕定らの調停で一旦は政氏と和解して古河に戻ったが、翌永正7年(1510年)に上杉顕定が越後で戦死すると、高基は再び古河城を離れて公方家重臣の簗田高助(やなだ たかすけ)の元へ向かった。そして同年に山内上杉家の家督争いが勃発すると、政氏は顕実を、高基は憲房を支援し、再び対立することになった。

その後、永正9年(1512年)には先に述べたように山内上杉家の家督争いは憲房が勝利し、高基は政氏を古河城から追い出すことに成功したのであった。

山内上杉家の家督争いの最中、出家していた高基の弟は還俗して義明を名乗り、下総で小弓公方として独立するという出来事があった。

その4:北条早雲・扇谷上杉家の動き

早雲は永正6年(1509年)、扇谷上杉家・上杉朝良の本拠地江戸城に迫るも、上野に出陣していた朝良が兵をひき返して反撃、両者は翌1510年(永正7年)まで武蔵、相模で戦う。
同年、早雲は権現山城(横浜市)の扇谷上杉家の重臣・上田政盛を離反させて攻勢に出るが、朝良は山内上杉家を継いだ上杉憲房と和解、山内上杉家の援軍を得た扇谷上杉家が反撃に出て、権現山城は落城してしまう。さらに、早雲の最大の敵である扇谷上杉家傘下の三浦道寸が小田原城まで迫るが、扇谷家との和睦で切り抜けた。

永正9年(1512年)8月には逆に早雲が三浦道寸を攻撃、岡崎城を攻略して住吉城(逗子市)に敗走させて勢いに乗って住吉城も落とし、道寸は子の義意が守る三崎城に逃げ込こむ。
さらに早雲は鎌倉に入って相模をほぼ掌握し、同年10月には鎌倉に玉縄城を築城し、三浦氏攻略の拠点として三浦半島に閉じ込めてしまう。

永正13年(1516年)7月、扇谷上杉家が救援のために玉縄城を攻めてくるが早雲はこれを撃退。そして道寸・義意父子の篭る三崎城に攻め寄せ、激戦の末、道寸・義意父子を自害に追い込んだ。

ここに早雲は相模全域を平定。平安末期からの名族・三浦氏は滅びたのであった。

この相模平定から2年後の永正15年(1518年)、早雲は家督を嫡男の氏綱に譲り、翌永正16年(1519年)に死去。
以後、2代目北条氏綱は武蔵国へ領国を拡大、関東エリアは北条氏が支配を強めていくのである。


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