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【戦国全史】関東騒乱(1400年代-1500年代初頭)(2)

今川家で家督争いが勃発

時は文明8年(1476年)、京都では応仁の乱がまだ継続、関東でも長尾景春の乱が勃発するなど、まだまだ各地で混乱続きであった。

こうした中、遠江国では足利一門の今川氏6代当主・今川義忠がかつての遠江守護職の奪還のため、斯波氏と戦っていた。しかし、同年に斯波氏の家臣で遠江の有力国衆である横地氏、勝間田氏の襲撃によって討ち死にしてしまった。
この結果、今川家では義忠の子・幼少の龍王丸(=のちの今川氏親)と分家の小鹿範満との間で家督争いが生じ、範満を支持する堀越公方の重臣・上杉政憲や、扇谷上杉氏の家宰・大田道灌らまで介入してくる事態となる。

ここで北条早雲が登場する。

幕府申次衆であった早雲は龍王丸の叔父であったことから、京から駿河へ向かって家督問題の調停にあたり、龍王丸が成人元服までは代理として小鹿範満が執政にあたるということで話をまとめたのである。こうして早雲は再び京都へ戻った。

しかし、小鹿範満が龍王丸が成人後も家督を戻さなかった。

そして長享元年(1487年)、これを知った早雲は再び駿河へ下って小鹿範満とその弟の孫五郎を討ち取り、龍王丸が家督を継承して7代目当主・今川氏親が誕生したのである。

堀越公方でも家督争いが勃発

堀越公方では初代足利政知の子・茶々丸が廃嫡されて土牢に閉じ込められ、関東執事として仕えていた上杉政憲も自害させられる事件が起きた。実はここでも早雲が関与している。

廃嫡の理由は、茶々丸の母が死去したのち、政知と後妻との間に2人の男児が生まれたことにあった。兄は清晃(せいこう、後の11代将軍足利義澄)で弟は潤童子(じゅんどうじ)といった。上杉政憲の自害はこの件に関して政知を諌めたことで怒りを買ったのであった。

政知は清晃を次期将軍に、潤童子を堀越公方に就かせて中央と関東の再統一を果たす狙いがあった。しかし、政知は延徳3年(1491年)に病死。
この後、茶々丸は後妻に虐待されるも、土牢を脱出して後妻と潤童子を殺害した。清晃は出家して京にいたために難を逃れたようである。

こうした中、中央では明応2年(1493年)明応の政変と呼ばれるクーデターによって清晃が11代将軍となり、義遐(よしとお)と改名。そして幕府官僚の経歴を持ち、茶々丸の近隣に城を持っていた北条早雲に母と弟の敵討ちを命じたのであった。
これを受けて早雲は茶々丸を自害(※諸説あり)に追い込み、堀越公方を滅ぼした(伊豆討入り)

近年の研究だと、茶々丸は明応4年(1495年)に伊豆国から追放され、山内上杉氏や武田氏を頼って伊豆奪回を狙っていたことが明らかななようであり、 また、同年に早雲は、茶々丸の討伐・捜索を大義名分として甲斐へ出陣して甲斐守護の武田信縄と戦ったようである。
茶々丸は明応7年(1498年)8月に甲斐国で早雲に捕捉されて自害したという。

小田原城攻略

明応3年(1494年)、扇谷上杉氏に3つの不運があった。

  1. 上杉定正の重臣であった小田原城主・大森氏頼が病死。
  2. 新井城主(神奈川県三浦市)三浦時高が死去(死因は諸説あり)。
  3. 扇谷上杉氏当主・上杉定正が山内上杉氏との戦いで落馬して死去。

大森氏頼の死により、小田原城の城主は次男の大森藤頼が後を継ぎ、早雲は同盟関係の扇谷両上杉氏と距離をおいたのか、小田原城攻略を実行に移していく。

『北条記』によれば、早雲は藤頼にたびたび進物を贈り、警戒心を解いて接近した。ある日、箱根山での鹿狩りを名目に領内に勢子(せこ、=狩猟の際、動物を追い回す役割の人)を入れさせて欲しいと頼み、早雲に心を許していた藤頼は快諾した。
しかし、勢子の正体は早雲の兵士であり、その夜に敵の大軍の襲撃を装って小田原城を大混乱させ、早雲は簡単に城を乗っ取ったという。

真実は定かでないが、早雲は実際に小田原城を奪取したのである。明応4年(1495年)(※諸説あり)のことであった。

両上杉家、対立から和解へ

永正元年(1504年)には、山内・扇谷両上杉氏の争いである長享の乱の事実上の決戦となった立河原の戦いがはじまる。この戦に早雲は今川氏親の求めに応じる形で武蔵国立河原に出陣し、扇谷上杉の上杉朝良を援護し、山内上杉の上杉顕定と再戦して勝利した。

しかし、顕定の弟である越後守護・上杉房能がこの報を聞き、兄を救うべく扇谷上杉家の諸城に攻め入って攻略。翌永正2年(1505年)3月には、顕定の軍勢に河越城を包囲されてしまい、扇谷上杉家の降伏で長享の乱は収束となるのであった。

永正4年(1507年)には、顕定の養子・上杉憲房と朝良の妹の婚姻が成立して両上杉家は和解している。

この頃の早雲は、1501年 - 1504年に今川家の重臣として三河で松平長親と戦い、また、1506年には相模国で検地を実施するなどの領国支配に向けて強化している。

永正の乱

この頃、関東・北陸地方で永正の乱(えいしょうのらん)と呼ばれる一連の戦乱が発生しているが、複雑なために以下4つに分けてまとめる。

  1. 越後国の下剋上
  2. 山内上杉家の家督争い
  3. 古河公方家の内紛
  4. 北条早雲・扇谷上杉家の動き

その1:越後国の下剋上

永正3年(1506年)9月、一向一揆が盛んであった隣国の越中。これを抑えるために越後守護代・長尾能景が出陣。しかし、味方の武将の裏切りによって能景は戦死、子の長尾為景が家督を継いで越後守護代となる。
この状況においても主家の越後守護・上杉房能は援軍をださなかったため、父を亡くした為景は憤り、翌年の謀反につながっていく。

永正4年(1507年)8月、為景は上杉定実を傀儡として擁立し、主家の上杉房能を襲撃。房能は兄である関東管領の上杉顕定を頼って関東への逃亡を図ったが、これを追って途中で自害に追い込んだ。

永正6年(1509年)には顕定が弟の敵討ちのために報復の大軍を起こすと、為景は劣勢となって一旦は佐渡への逃亡を余儀なくされた。しかし、翌永正7年(1510年)に再び越後へ上陸すると、高梨政盛(為景の外祖父)の助力を得て顕定を討ち取るのであった(長森原の戦い)。

その2:山内上杉家の家督争い

山内上杉家は顕定が戦死した永正7年(1510年)、養子の上杉顕実が家督を継ぎ、関東管領職に就く。しかし、同じく養子の上杉憲房はこれに黙っておらず、横瀬景繁(よこせ かげしげ)・長尾景長らの支援を受けて家督を争う姿勢をみせた。

こうして、山内上杉家は二分。さらに複雑なことに、同じ頃に古河公方でも2代目古河公方の足利政氏と子の足利高基が対立しており、山内上杉家の家督争いに絡んでくる。
顕実は兄の2代目古河公方・足利政氏と、そして憲房は足利高基と組んで関東全域を巻き込んだ争いに発展。一方でこうした中、扇谷上杉家当主・上杉朝良が影響力の復活を図って仲介に動くも失敗している。

永正5年(1512年)には憲房が家督争いに勝利し、敗れた顕実は当主の座を失って兄の政氏を頼って古河城へと逃亡となった。そして、永正8年(1515年)には顕実が病死し、関東管領職も憲房のものとなる。

その3:古河公方の家督争い

理由はよくわからないが、2代目古河公方・足利政氏と嫡男の高基が対立し、永正3年(1506年)には高基が義父の宇都宮成綱を頼って下野宇都宮に逃亡した。
その後、永正6年(1509年)には関東管領・上杉顕定らの調停で一旦は政氏と和解して古河に戻ったが、翌永正7年(1510年)に上杉顕定が越後で戦死すると、高基は再び古河城を離れて公方家重臣の簗田高助(やなだ たかすけ)の元へ向かった。そして同年に山内上杉家の家督争いが勃発すると、政氏は顕実を、高基は憲房を支援し、再び対立することになった。

その後、永正9年(1512年)には先に述べたように山内上杉家の家督争いは憲房が勝利し、高基は政氏を古河城から追い出すことに成功したのであった。

山内上杉家の家督争いの最中、出家していた高基の弟は還俗して義明を名乗り、下総で小弓公方として独立するという出来事があった。

その4:北条早雲・扇谷上杉家の動き

早雲は永正6年(1509年)、扇谷上杉家・上杉朝良の本拠地江戸城に迫るも、上野に出陣していた朝良が兵をひき返して反撃、両者は翌1510年(永正7年)まで武蔵、相模で戦う。
同年、早雲は権現山城(横浜市)の扇谷上杉家の重臣・上田政盛を離反させて攻勢に出るが、朝良は山内上杉家を継いだ上杉憲房と和解、山内上杉家の援軍を得た扇谷上杉家が反撃に出て、権現山城は落城してしまう。さらに、早雲の最大の敵である扇谷上杉家傘下の三浦道寸が小田原城まで迫るが、扇谷家との和睦で切り抜けた。

永正9年(1512年)8月には逆に早雲が三浦道寸を攻撃、岡崎城を攻略して住吉城(逗子市)に敗走させて勢いに乗って住吉城も落とし、道寸は子の義意が守る三崎城に逃げ込こむ。
さらに早雲は鎌倉に入って相模をほぼ掌握し、同年10月には鎌倉に玉縄城を築城し、三浦氏攻略の拠点として三浦半島に閉じ込めてしまう。

永正13年(1516年)7月、扇谷上杉家が救援のために玉縄城を攻めてくるが早雲はこれを撃退。そして道寸・義意父子の篭る三崎城に攻め寄せ、激戦の末、道寸・義意父子を自害に追い込んだ。

ここに早雲は相模全域を平定。平安末期からの名族・三浦氏は滅びたのであった。

この相模平定から2年後の永正15年(1518年)、早雲は家督を嫡男の氏綱に譲り、翌永正16年(1519年)に死去。
以後、2代目北条氏綱は武蔵国へ領国を拡大、関東エリアは北条氏が支配を強めていくのである。



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