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【戦国全史】明応の政変と幕府二分化

この記事では応仁の乱以後の中央を中心とした展開をみていくこととする。

応仁の乱以後の中央

応仁の乱が終了しても、山城南部では畠山義就と畠山政長の争いは継続、戦火によって土地や建物は荒廃しており、こうした状況の中、文明17年(1485年)にはついに、南山城の国人衆や農民が協力して立ちあがった(山城国一揆)。

南山城の国人衆や農民らが宇治の平等院に集まって「国中掟法(くにじゆうおきて)」という取り決めを結び、両畠山氏を追い出すと、「三十六人衆」と呼ばれる指導的な国人衆により政治を行うという "惣国" とよばれる政治形態にしたのである。
この惣国という自治は約8年間も続いた。

第一次六角征伐(鈎の陣)が勃発

長享元年(1487年)、近江守護の六角高頼が寺社・公家や奉公衆の領地を横領して配下の国人衆に分け与えていたというクレームが第9代将軍・足利義尚の元にとどいた。
これに義尚は六角討伐のために挙兵するが、甲賀の山中に逃亡した高頼によってゲリラ戦に持ち込まれてしまうのであった。 義尚はそのゲリラ戦の最中のに病死した。

本願寺勢力の台頭と加賀一向一揆

一方、加賀でも長享3年(1488年)に一向一揆が発生した。加賀の守護であった富樫正親は、このとき第一次六角征伐(鈎の陣)に参戦中であったが、居城の高尾城が本願寺門徒による襲撃を受けたために加賀に戻った。しかし、一向衆に追い詰められて自害に追い込まれている。

この一向一揆が起こった原因はなんなのか?
きっかけは本願寺八世蓮如が1471年に越前吉崎に下向し、布教の拠点(吉崎御坊)を置いたことにさかのぼる。

当時は応仁の乱の最中であり、京都を追われた公家や民衆達は周辺都市や地方の所領などに疎開していき、蓮如もその一人であった。
吉崎御坊を置いた蓮如は徐々に門徒を増やし、この勢力は越前だけにとどまらず、加賀・越中にも広げていった。
加賀の守護の富樫正親は、当初は門徒の力を利用しようとするも、その実力の恐ろしさを知って一転して門徒の弾圧を開始した。このため蓮如は吉崎御坊を退去し、加賀の門徒は越中に逃れていたのである。

こうして加賀の守護・富樫正親と本願寺門徒衆は対立関係となり、政親が鈎の陣に従軍した際に、越中から帰還した門徒衆が国人衆とともに決起。帰還してきた政親を討ち取るのであった。

その後、名目上の守護・富樫泰高が擁立されたが、実際の政治は蓮如の三人の息子らが行なうことに。以後、おおよそ100年、加賀は本願寺門徒衆が支配する世となるのであった。(※本願寺は浄土真宗の開祖である親鸞の教えを受け継ぐ教団。)

クーデターの勃発

長享3年(1489年)、将軍義尚は鈎の陣で六角氏とゲリラ戦の最中に病死する。そのため、応仁の乱の直後に美濃へ逃れていた足利義視・嫡子の義材が上洛した。

そして、翌延徳2年(1490年)に元将軍の義政も死去し、室町幕府の将軍の座が空位となると日野富子と畠山政長の後押しによって10代将軍・足利義材が誕生することになった。

しかし、管領の細川政元は将軍として堀越公方の足利政知の子・清晃(せいこう、=のちの足利義澄)を推しており、この決定には反対していた。日野富子の推しで新将軍に就いた義材であったが、すぐにその日野富子と関係が悪化してしまう。

さらに不幸なことに、同年に義材の実母が、翌延徳3年(1491年)には父の足利義視が立て続けに死去してしまった。

同年に義材は、足利義尚がなしえなかった六角高頼の討伐に動きだした。六角高頼はまたもや甲賀へ逃げ込みゲリラ戦に誘いこむも、義尚のときとは違って、高頼と対立している六角虎千代を守護に任命して近江から撤退。

明応2年(1493年)、畠山政長が畠山基家(畠山義就の子)の討伐を要請。これにも細川政元は反対するが、義材は討伐軍をだしてしまう。 このことで義材と政元の対立が深刻化、細川政元は、義材に不満を抱き始めた日野富子や赤松政則、伊勢貞宗を抱き込み、4月22日夜に清晃を還俗させて11代将軍に擁立。クーデターを決行するのである。

日野富子の指揮のもとで政元が京都を制圧すると、さらに新将軍に従う旨の「謀書」が送られ、義材に同行する武士の大半が京都に帰還。こうして義材は幽閉され、畠山政長は自害に追い込まれてしまった。
その後、義材は側近らの手引きで脱走に成功し、畠山政長の領国であった越中に逃亡する。そして、政長の家臣であった神保長誠を頼って、以後5年間滞在することになる。

このクーデターが明応の政変であり、以後は細川政元が幕政を掌握して、傀儡化した将軍権力は幕府公権の二分化により弱体化し、二流に分かれた将軍家を擁した抗争が各地で続いていくことになる。


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