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戦国大名と国衆

戦国大名という言葉は昭和時代に創作された学術用語であり、江戸時代には一万石以上が大名という線引きが存在したが、戦国時代においては支配する領地や家臣団の規模により、どこからが戦国大名と呼べるのかの明確な基準はありませんでした。

歴史上最大の内乱ともいえる応仁の乱(おうにんのらん)は、1467年(応仁元年)から約10年にもわたって続き、その間に戦場となった京都を大きく荒廃させて、室町幕府の機能をも低下させました。
こうした背景の中、力のある地方権力者たちが幕府の政治体制や制度を無視し、在地の武士や農民を統率する地域のリーダーとして独自の領国統治を行なうようになっていきました。 これが戦国大名のはじまりです。

彼らは武力によって領土拡大していき食糧確保にも奔走しました。また、民衆の要求にもしたがい、民衆のために戦いました。 また、守護大名とは異なり、家臣との主従関係を強力に結ぶも、一方的に支配する専制君主ではありませんでした。
そして、幕府には従わずにそれぞれが分国法と呼ばれる独自の法律を作って領国の経営にあたりました。

戦乱の世では兵数や物資が多くて統率がとれたほうが当然強く、秩序が必要でした。このため、分国法を作ることは必然でした。

国衆

国衆(くにしゅう)は土地とのつながりが強い領主を意味し、国人領主(こくじんりょうしゅ)ともいいました。
このため、先祖から受け継がれた土地を守ろうとする意識が強く、また、国や地域毎に結束して守護による支配からの自立をはかる傾向が強くありました。

戦国時代において国衆は城を支配する独立領主として存在し、その大半は戦国大名の家臣団に組み込まれました。しかし、その一方で周辺の国衆を屈服させて戦国大名にまで成長する者も現れました。安芸国・毛利氏や土佐国・長宗我部氏、肥前国・龍造寺氏などはその代表例でした。


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