あなたの好きな戦国武将が詳しく丸ごと早わかり! 最大級の戦国まとめサイト

【戦国全史】東北の群雄割拠(1400年代後半-1559年)

東北の地には奥州探題・羽州探題が置かれ、奥州探題には斯波氏一門の大崎氏が、羽州探題には同じく斯波氏一門の最上氏(もがみ)が世襲により努めてきました。この地では中央の政争や関東の騒乱に巻き込まれることはほとんどありませんでした。
そうした状況の中、16世紀に入ると伊達氏が台頭してきます。

伊達氏の台頭

伊達氏の第14代当主、伊達高宗。この男が1514年(永正11年)に家督を継ぐと、破竹の勢いで勢力を急激に拡大させていきます。
まず同年に、羽州探題・最上義定を長谷堂城にて破ると、妹を義定の室として送り込んで実質的に最上氏を支配下に置きます。

さらに1517年(永正14年)、10代将軍・足利義稙に上洛祝いを名目として多額の進物を送り、将軍から偏諱を受けて名を稙宗に改めるとともに、左京大夫に任官されます。この左京大夫という官職は大崎氏が代々就いていたものでした。

1520年(永正17年)、最上義定が後継ぎのないまま死去すると、最上の諸将が反発して争いに発展。しかし、翌年には和議を結び、さらなる勢力を拡大に成功します。

1522年(大永2年)、稙宗は陸奥守護職に就きます。陸奥は元来守護を置くことがなく、また、左京大夫は大崎氏が代々就いていた官職であったため、これは異例の出来事でした。
このようにして稙宗は、中央との結びつきを家格上昇に利用するとともに、周辺国との争いでは婚姻外交を織り交ぜて勢力の急激な拡大に成功するのです。奥羽に一大勢力圏を築き上げた稙宗は、伊達家中の統制を図るため、次々と台帳・分国法を作成して集権化を進めていきます。

  • 1533年(天文2年):13条からなる『蔵方之掟(くらかたのおきて)』作成
  • 同年:『棟役日記』作成
  • 1536年(天文5年):分国法「塵芥集(じんかいしゅう)」制定
  • 1538年(天文7年):『御段銭帳』

1536年(天文5年)に、大崎氏の内乱に、南奥州の諸侯を従えて出動、当主・大崎義直に次男の大崎義宣(よしのぶ)を入嗣させることで鎮圧。事実上、伊達氏の統制下に奥州・羽州の両探題職を置くことに成功します。

天文の乱

すべてが順風満帆に見えた稙宗でしたが、まさかおもわぬところで足止めを食らうことになります。
それは嫡子・伊達晴宗との対立でした。稙宗が更なる勢力拡大のため、晴宗の弟・時宗丸(実元)を越後の守護大名の上杉定実(さだざね)養子に出そうとしたこと、そして、義兄である相馬顕胤(そうま あきたね)に伊達領の一部を分け与えようとしていたことに晴宗が反発。

晴宗によって稙宗は西山城に幽閉されますが、家臣の小梁川宗朝(こやながわ むねとも)に救出され、1542年(天文11年6月)天文の乱が勃発。この戦いは6年にもおよび、1548年(天文17年3月)の13代将軍・足利義輝の停戦命令でようやく和睦にいたります。

このお家騒動によって伊達家は疲弊、以後、家臣団の統制に追われ、さらに支配していた周辺国との争いも再燃、東北の統一は遠のいてしまいます。


 PAGE TOP