丁寧に歴史を追求した "正統派" 戦国Webマガジン

群雄割拠(1400年代後半-1559年)

東北エリア

東北の地には奥州探題・羽州探題が置かれ、奥州探題には斯波氏一門の大崎氏が、羽州探題には同じく斯波氏一門の最上氏(もがみ)が世襲により努めてきた。この地では中央の政争や関東の騒乱に巻き込まれることはほとんどなく、16世紀(1500年代)に入ると、伊達氏が台頭してくる。

伊達氏の台頭

伊達氏の第14代当主、伊達高宗。この男が1514年(永正11年)に家督を継ぐと、破竹の勢いで勢力を急激に拡大させていきます。
まず同年に、羽州探題・最上義定を長谷堂城にて破ると、妹を義定の室として送り込んで実質的に最上氏を支配下に置きます。

さらに1517年(永正14年)、10代将軍・足利義稙に上洛祝いを名目として多額の進物を送り、将軍から偏諱を受けて名を稙宗に改めるとともに、左京大夫に任官されます。この左京大夫という官職は大崎氏が代々就いていたものでした。

1520年(永正17年)、最上義定が後継ぎのないまま死去すると、最上の諸将が反発して争いに発展。しかし、翌年には和議を結び、さらなる勢力を拡大に成功します。

1522年(大永2年)、稙宗は陸奥守護職に就きます。陸奥は元来守護を置くことがなく、また、左京大夫は大崎氏が代々就いていた官職であったため、これは異例の出来事でした。
このようにして稙宗は、中央との結びつきを家格上昇に利用するとともに、周辺国との争いでは婚姻外交を織り交ぜて勢力の急激な拡大に成功するのです。奥羽に一大勢力圏を築き上げた稙宗は、伊達家中の統制を図るため、次々と台帳・分国法を作成して集権化を進めていきます。

  • 1533年(天文2年):13条からなる『蔵方之掟(くらかたのおきて)』作成
  • 同年:『棟役日記』作成
  • 1536年(天文5年):分国法「塵芥集(じんかいしゅう)」制定
  • 1538年(天文7年):『御段銭帳』

1536年(天文5年)に、大崎氏の内乱に、南奥州の諸侯を従えて出動、当主・大崎義直に次男の大崎義宣(よしのぶ)を入嗣させることで鎮圧。事実上、伊達氏の統制下に奥州・羽州の両探題職を置くことに成功します。

天文の乱

すべてが順風満帆に見えた稙宗でしたが、まさかおもわぬところで足止めを食らうことになります。
それは嫡子・伊達晴宗との対立でした。稙宗が更なる勢力拡大のため、晴宗の弟・時宗丸(実元)を越後の守護大名の上杉定実(さだざね)養子に出そうとしたこと、そして、義兄である相馬顕胤(そうま あきたね)に伊達領の一部を分け与えようとしていたことに晴宗が反発。

晴宗によって稙宗は西山城に幽閉されますが、家臣の小梁川宗朝(こやながわ むねとも)に救出され、1542年(天文11年6月)天文の乱が勃発。この戦いは6年にもおよび、1548年(天文17年3月)の13代将軍・足利義輝の停戦命令でようやく和睦にいたります。

このお家騒動によって伊達家は疲弊、以後、家臣団の統制に追われ、さらに支配していた周辺国との争いも再燃、東北の統一は遠のいてしまいます。

関東・中部エリア

北条・上杉・武田・今川、そして、織田・徳川(松平)など著名な戦国大名が出そろう関東・中部エリア。

後北条2代目・北条氏綱の登場

関東では戦国大名のパイオニア・北条早雲1519年(永正16年)に死去し、家督を継いで後北条氏の2代目となった北条氏綱が引き続き、関東平定に臨みます。
これに対して山内上杉家と扇谷上杉家は和睦し、タッグを組んで北条氏に対抗しようとします。

1524年、氏綱は武蔵国に攻め込んで、扇谷上杉の上杉朝興(ともおき)を撃破。さらに扇谷上杉の家臣・大田資高(おおた すけたか)を寝返らせて江戸城の奪取に成功します。 その後、資高の子の大田資頼(すけより)も寝返り、岩槻城などの諸城を攻略。

資高は大田道灌の孫であり、道灌謀殺の恨みがあった?

しかし、朝興も反撃を開始します。

らが加勢したことで大田資頼は扇谷上杉氏に降伏して帰参。
さらに扇谷上杉が上総国の真里谷武田氏、小弓公方そして安房国の里見氏とも手を結んで氏綱包囲網を形成。翌1525年以降、徐々に形勢が逆転していき、氏綱は苦境にたたされていきます。

しかし、1533年に安房国の里見氏の内紛で稲村の変が勃発。さらに翌1534年にも小弓公方を擁立する真里谷武田氏でも当主の真里谷 恕鑑(まりやつ じょかん)の死去をきっかけに内紛が始まり、氏綱は命拾いすることになるのです。
また、同年に尾張国では後に天下布武をかかげる男「織田信長」が生まれます。

1535年、今川氏の要請で氏綱は甲斐の武田信虎と戦います。この戦いで武田氏を撃破します。武田方の武田信友は討ち死に。このころの今川氏当主は今川氏輝で、北条氏はすでに今川氏から独立していましたが、関係は良好でした(駿相同盟)

今川義元の登場

1536年、今川氏輝が突然死。これには暗殺説が存在。父の今川氏親には男児が6人いたが、家督争いを避けるため、次男の彦五郎を残し、残りの4人は出家させていました。暗殺説の理由には以下の背景があったからです。

  • 氏輝の死の直前に五男・梅岳承芳(ばいがくじょうほう)とその教育係の禅僧・太原雪斎が駿府に呼び戻されていた
  • 次男の彦五郎も氏輝と同じ日に死去

今川家の公式見解では偶然ということになっているようです。そして、家督継承のために梅岳承芳が還俗、実はこの男が「海道一の弓取り」と称されたあの今川義元でした。
しかし、父・氏親の側室の子である玄広恵探(げんこうえたん)が義元の家督継承を認めませんでした。こうして同年に、今川家の家督争いが勃発(花倉の乱)
この戦いに義元が勝利し、玄広恵探は自害。ここに今川氏当主・今川義元が誕生します。

今川が武田と同盟、北条と今川は対立

1537年、扇谷上杉の朝興が川越城で病死します。ピンチ続きの氏綱が一転、この好機を逃さずに、川越城をおとします。
一方で今川義元が武田信虎の娘である定恵院を正室に迎えます(甲駿同盟)。これは太原雪斎が武田氏と婚姻することで外交方針を転換、三河や尾張に備えるための戦略であったのです。これにより、駿相同盟を結んでいた北条と今川は対立関係になり、氏綱は駿河へ出兵することになるのです。

※ちなみに三河は1529年に家康の祖父・松平清康が統一。1535年に松平清康が家臣に殺害されたのを機に信長の父・織田信秀(のぶひで)が三河に進出しています。

同年、駿相同盟の破棄によって、第1次河東一乱が勃発します。(※「河東」は争奪の対象となった富士川以東の地域を意味)
氏綱は富士川以東の地域(河東)を占拠。

1538年第一次国府台合戦が勃発。
4代目古河公方・足利晴氏(はるうじ)が氏綱に接近して同盟を結びます。敵は第3代古河公方足利高基の弟で小弓公方を自称の足利義明(よしあき)。
こうして古河・小弓公方の争いが氏綱をまきこんでの戦いとなり、足利義明は討ちとられ、小弓公方は消滅。小弓公方を支持した安房の里見義堯(さとみ よしたか)は早々と逃亡。

翌1539年、4代目古河公方・足利晴氏は氏綱の娘と婚姻。 これにより北条家は権威的な裏付けも獲得します。

1540年、このころ東海では尾張の織田信秀が三河国(愛知県東部)に侵攻を開始。 安祥城を攻略し、支配下に置きます。

1541年、氏綱が病死。

北条氏康・武田信玄・上杉謙信斎藤道三の登場

氏綱が死去により、北条氏康が家督を継ぎ、後北条氏は3代目にはいります。 一方、同年に甲斐では武田晴信(のちの信玄)が父・信虎を追放し家督を奪います。 信虎は同盟関係であった今川家に引き取られます。

1542年、諏訪領への侵攻を開始し、諏訪頼重(すわ よりしげ)を甲府へ連行して自害に追い込み、諏訪領を制圧。このとき信玄は頼重の娘である諏訪御料人(すわごりょうにん)を側室に迎え、生まれた男子に諏訪家の家名をそのまま継承させることで諏訪家中を懐柔しました。

のちに武田当主となる武田勝頼は、この諏訪御料人と信玄の間に生まれた子。

同年、東海では第1次小豆坂の戦いが勃発、織田信秀が今川軍と戦って勝利、西三河の権益を保持。また、美濃では国主の土岐頼芸が斎藤道三によって追放、道三が事実上の美濃国主となります。

1543年、大隅国にポルトガル人2名が乗った一隻の明船が漂着。そう、鉄砲伝来です。
この年、越後守護代の長尾為景(ためかげ)が死去。子の虎千代が元服して長尾景虎(かげとら)と名乗ります。のちの上杉謙信(けんしん)でした。このときは家督は兄・晴景が継いだが、のちに謙信が継ぐこととなります。

1544年、諏訪領は武田氏と分割され、頼継は西半分を支配していたが、 諏訪氏惣領を志向する諏訪氏庶流の高遠頼継(たかとお よりつぐ)が信玄の支配する土地を侵攻、しかし、敗退して諏訪から退去、さらに翌年には高遠城も落城して高遠頼継は降伏。

1545年第2次河東一乱が勃発。
北条氏に河東を占拠されたままの今川義元が奪還作戦にでます。義元は山内上杉の上杉憲政(のりまさ)、扇谷上杉の上杉朝定(ともさだ)とともに氏綱の家督をついだ北条氏康への反撃を開始。さらに、味方であったはずの古河公方の足利晴氏も関東管領(山内上杉家)に支援されて路線を変更、氏康に刃を向けてきます。

関東方面では山内・扇谷連合の大軍に武蔵国河越城を包囲。
もう一方の駿河では今川・武田連合軍に押される状態。
窮地に陥った氏康は信玄に仲介を依頼し、10月には今川家と和睦が成立。第1次河東一乱で奪った領土を今川方に返還することで決着。
こうして、北条氏は関東方面の両上杉・古河公方連合軍との戦いである翌年の河越城の戦いに専念することになります。

1546年、氏康は日本三大奇襲の一つ河越夜戦(かわごえよいくさ)」で両上杉・古河公方連合軍を撃破、扇谷上杉当主の上杉朝定は討ち死にし、扇谷上杉家は滅亡しています。

1547年、信玄はこの年、分国法「甲州法度次第」を制定します

信長、家康と出会う

このころ、尾張の織田信秀、駿河・遠江の今川義元に挟まれていた三河の松平広忠徳川家康の父)は、松平氏は今川氏の従属下に入り、忠誠の証に子の竹千代(後の徳川家康)を人質にだします。しかし、護送途中で織田方に引き渡されてしまいます。そして、尾張であの織田信長と出会い、家康は信長とともに幼少期をすごすことになるのです。このとき、家康はまだ6歳、信長は14歳でした。

1548年、今川・北条との関係が安定した信玄は北信濃の制覇に乗り出します。初戦の相手は葛尾城主・村上義清(よしきよ)。このとき信玄は村上軍に惨敗、信玄は宿老の板垣信方(いたがき のぶかた)・甘利虎泰(あまり とらやす)ら多くの兵を失い、信玄も傷を負います(上田原合戦)

この敗戦を機に小笠原長時が諏訪にせめてくるが、7月の塩尻峠の戦いで小笠原軍を撃退。

同年、一方で今川義元は織田信秀と交戦、軍師である雪斎と朝比奈泰能らを大将とした今川軍が大勝し、織田軍を安祥城へと敗走させます。義元は駿河・遠江、そして、三河をも勢力圏にいれるのです(第二次小豆坂の戦い)
この戦いに敗れた信秀は、敵対していた美濃国の斎藤道三と和睦、信長と道三の娘・濃姫を政略結婚させます。東に今川氏、北に道三、国内の敵対勢力に苦しめられていたための政策でした。
また、越後ではついに当主・晴景が景虎を養子とした上で家督を譲って隠退し、景虎が家督相続し、守護代となります。

1549年、今川・松平連合軍が三河の安祥城を守る織田信広(のぶひろ)を攻めて陥落させ、信広は捕虜となるが、人質交換によって織田家に帰還します。
このとき今川軍にだした人質が、尾張で人質としてすごしていた竹千代であり、竹千代は駿河へ移送されて今度は1547年にそうなるはずであった今川家の人質となります。こうして今川氏は松平氏を完全に保護下に置くことになります。

1550年7月、信玄が北上、小笠原領に侵攻します。小笠原長時にはすでに抵抗する力は無く、林城を放棄して村上義清のもとへ逃走。こうして、信濃中部を支配下にいれます。
さらに同年9月、村上義清の支城である砥石城を攻めるが、「砥石崩れ」と呼ばれる大敗をしてしまいます。
しかし、翌1551年信玄の家臣・真田幸隆の策略で砥石城を落城させます。

尾張の虎「信秀」死す

一方、尾張では織田信秀が死去し、信長が家督を継ぎます。当時、尾張国は今川氏の尾張侵攻により守護の斯波氏の力が衰え、尾張下四郡を支配した守護代であった「織田大和守家」当主で清洲城主の織田信友が実権を掌握しており、信秀は尾張国全域を支配できずにいました。こうして織田一族と尾張の統一は信長にバトンタッチされます。

1552年、今度は北条氏康が動きます。
関東管領・山内上杉の上杉憲政(のりまさ)のいる平井城を攻め、落城させると憲政を越後守護の長尾景虎(上杉謙信)の元へ逃亡させます。以後、謙信は憲政の重臣として行動することになります。
また、古河公方・北条晴氏がわが子に古河公方を譲位、北条氏の血をひく古河公方・足利義氏が誕生します。

1553年、信玄が再び、村上を攻め、ついに村上義清が葛尾城を放棄して越後の長尾景虎(上杉謙信)のもとへ逃れます。こうして信濃東部も武田家の支配下におさめ、北部を除いて信濃をほぼ平定。
しかし、この村上義清の行動が、信玄と謙信の5度にもわたる壮絶な合戦を引き起こすことになるのです。

北信濃国人衆(高梨氏や井上氏の一族など)は、以前から越後の守護代家であった長尾氏と繋がりがあり、村上氏の勢力に代わり、武田氏の脅威が増大すると援助を求めるようになります。特に高梨氏とは以前から縁戚関係を結んでいました。

信玄 vs 謙信「川中島の戦い」

大義名分を重んじる謙信は、同年、北信濃の与力豪族領の奪回を大義名分として南下。 こうして、第一次川中島の戦いが勃発。このときは交戦するも、深入りせずに互いに撤退。
謙信はこの直後に初めて上洛して、後奈良天皇に拝謁し、綸旨(りんじ)を得ます。これにより、謙信の敵対者は朝敵、すなわち、武田氏との戦いの大義名分になるのです。

1554年甲相駿三国同盟が結ばれます。これは甲斐の武田信玄、相模の北条氏康、駿河の今川義元の3者間の合意に基づくものです。 これにより、三者それぞれ戦略が定まることとなります。

  • 武田氏:北信濃の攻略、越後の謙信への備え
  • 北条氏:関東平定に向けての戦い
  • 今川氏:三河・尾張への進出

同年、信玄は謙信の家臣の北条高広(たかひろ)と通じ、謀反を起こさせます。

1555年、謙信は自ら出陣し、高広の居城である北条城を包囲、これを鎮圧します。この後、高広は帰参を許されています。
この間に信玄は善光寺別当・栗田鶴寿を味方につけ、旭山城を支配下に置きます。 これに対抗するため、第二次川中島の戦いが勃発。
謙信は4月に再び信濃国へ出兵し、晴信と川中島の犀川を挟んで対峙。決着がつかずに両軍は200日余に渡り対陣することに。最後は今川義元の仲介で和睦が成立し、両軍は撤兵することになります。

1556年(弘治2年)、越後上杉家では出家騒動に見舞われます。

謙信が突如出家を宣言して出奔、高野山にむかうのです。家臣同士の領土争いや国衆の紛争の調停で嫌気がさしたためといわれています。
その間に家臣・大熊朝秀が武田信玄に内通、会津の蘆名盛氏の支援を得て謀反を起こします。天室光育、長尾政景らの説得により出家を断念した謙信は越後国へ帰国し、越後へ進入した朝秀を打ち破っています。

一方、美濃国では斎藤道三が子の義龍に討たれて戦死します(長良川の戦い)
子の義龍が実子ではなく、土岐頼芸の子という説があり、道三がこれを疑って義龍と対立したと言われています。

1557年、後奈良天皇が崩御(=ほうぎょ。天皇や君主等の死亡を表す尊敬語)し、正親町(おおぎまち)天皇が即位。

上杉と武田氏の間で第三次川中島の戦いが勃発。この頃、三好政権と対立して京を追われていた13代将軍足利義輝から和解勧告があり、小競り合いのみで終わります。

1558年、今川家では義元が嫡子・氏真(うじざね)に家督を譲り、自らは西への遠征準備に入ります。

1559年、謙信が2度目の上洛をはたします。正親町(おおぎまち)天皇と将軍義輝に謁見。三管領に準じた特権を与えられ、関東管領・上杉憲政に関東平定の命をうけます。これにより、関東出兵の大義名分を得ることになるのです。

翌年から関東遠征を開始、14回にもわたる遠征だったが目立った成果はありませんでした。

同年、一方の尾張ではついに、あの大うつけと言われた信長が尾張国統一を果たします。そして、偶然にも信長も上洛をはたしています。信長は100名ほどの軍勢を引き連れて上洛し、将軍義輝に謁見して尾張統一の将軍のお墨付きを得るのです。

中国・四国エリア

中国エリアでの応仁の乱以後の情勢は、備中は守護の細川氏、備後は守護の山名氏、長門・周防・石見は守護の大内氏、出雲は守護代の尼子氏が、安芸を安芸武田氏が支配していました。

  • 細川氏:備中
  • 山名氏:備後
  • 尼子氏:出雲
  • 安芸武田氏:安芸
  • 大内氏:石見・周防・長門

尼子経久の台頭

尼子氏の当主は出雲守護代の尼子経久(あまご つねひさ)
尼子氏は京極氏の分家であり、経久は応仁の乱の最中には当時の出雲守護・京極政経へ人質にだされて京都に滞在していました。その後、応仁の乱が収束すると帰国を許され、家督を継ぎます。

そうした中、京極氏ではお家騒動の真っ最中で、経久は土地の横領・税の徴収代行などを拒否するなど、幕府や京極氏の命に背くようになり、独自に権力基盤を築くようになっていきます。

こうした行動に幕府や守護・国人らが反発、1484年(文明16年)には経久は居城の月山富田城を追い出され、守護代の職をはく奪されます。

しかし、1486年(文明18年)、経久は月山富田城を奪い返し、その後、京極政経との力関係が逆転、事実上の出雲国国主となります。その後は西をにらみ、大内氏と緊張状態になっていきます。

このころ、後の中国の覇者となる毛利氏の当主は毛利弘元(もうり ひろもと。毛利元就の父)であり、大内氏当主・大内政弘の勢力下である安芸国人領主の一人でした。

一方、四国エリアは讃岐・阿波・伊予・土佐の4国ありますが、応仁の乱以後、 讃岐・阿波・土佐東部は守護の細川氏、土佐西部は応仁の乱を避けて中央から下向した五摂家の一条家、 伊予は守護の河野氏が支配していました。

1493年(明応2年)、中央において明応の政変が勃発。あらたに細川政元の政権が誕生します。しかし、政元には後継者がいなかったため、三人の養子、細川澄之・細川澄元・細川高国をとったことが後に後継者争いを発生させることになります。

1494年(明応3年)、大内氏では当主・大内政弘が病気のため、嫡子の大内義興が家督を継ぎます。

1499年(明応8年)、毛利弘元が隠居、嫡男の毛利興元(おきもと)が8歳で毛利氏の当主となります。

1506年(永正3年)、毛利弘元は酒におぼれ死去。

1507年(永正4年6月23日)に、永正の錯乱が勃発。 細川政元は後継者候補の一人である細川澄之の手によって暗殺されてしまいます。
この事件で細川氏が中央に引き上げた影響で、土佐国は「土佐七雄」と呼ばれる7つの国人が割拠する状態となり、土佐一条氏はその上位に立って盟主的存在を担うようになります。

また、この乱に乗じて讃岐の国人の十河氏は細川京兆家の重臣・三好氏と結びつつ、讃岐守護代であった細川家臣の香西氏などと抗争し、徐々に勢力を拡大していきます。また、のちに三好長慶の弟・十河一存が養子に入り家督継承することで十河氏は三好一門となります。

土佐七雄とは本山氏、吉良氏、安芸氏、津野氏、香宗我部氏、大平氏、長宗我部氏のこと。 ちなみに長宗我部氏は翌1508年(永正5年)に一旦滅亡。しかし、一条氏に保護されていた国親が後に再興。

1508年(永正5年)、細川氏の後継者争いの最中、これを畿内進出の好機とみて周防(山口)から大内義興が足利義材改め義尹(よしただ、後の義稙)を奉じて上洛。

義興は時の11代将軍・義澄を近江に逃亡させ、足利義尹を将軍職に復帰させます。そして、管領は細川高国、義興は管領代と山城守護に任命され、細川高国と共に幕政を執行する立場になるのです。

1511年(永正8年)、中央で将軍・足利義稙を擁立する細川高国と前将軍・足利義澄を擁立する細川澄元で覇権をめぐる戦いが勃発します(船岡山合戦)
このとき、大内氏当主・大内義興に従う経久が上洛し、細川高国側について参戦しています。

毛利元就の登場

1516年(永正13年)、毛利氏当主・毛利興元が急死。これにより、毛利弘元の次男・毛利元就が興元の子、幸松丸を後見することになります。

1517年(永正14年)、安芸武田氏の武田元繁との戦いで元就が初陣、勝利します(有田中井手の戦い)
この戦いは「西国の桶狭間」と呼ばれ、安芸武田氏の衰退と毛利氏の台頭の分水嶺となった戦いとされるようになりました。この後、元就は大内氏から尼子氏に鞍替えします。

1518年(永正15年)、尼子氏の家臣の桜井宗的が出雲・阿用城で謀反を起こします。経久は嫡男の尼子政久(まさひさ)を派遣。しかし、その戦で政久は矢に当たり命を落としてしまいます。

1523年(大永3年)、毛利元就は、尼子経久の求めに応じて義父の吉川国経をともない、大内氏の支配する鏡山城を攻めます。元就は調略で城主・蔵田房信の叔父の直信を籠絡し、直信が房信を討って開城(鏡山城の戦い)
しかし、経久は約束を反故にして直信を斬首してしまい、元就は経久に対して反感を抱くようになります。経久もまた、元就のこの調略を脅威に感じるようになるのです。
この戦いの時点で尼子氏は安芸を支配し、大内氏を凌ぐ中国の覇者となります。

同年、元就が後見していた幸松丸が死去。毛利の家督をついだ元就が毛利家当主となります。

しかし、経久の指示により、毛利家の一部の家臣が元就の弟・相合元綱を擁立して対抗。 元就はこうした動きに対し、家中の対抗勢力を一掃。こうして元就は経久と手を切り、大内氏に寄ることを決意するのです。

1525年(大永5年)、元就は尼子氏から離れ、大内義興の傘下となる立場を明確にします。このころ、大内氏は安芸に攻め込み、尼子氏から安芸の一部の領土を奪い返します。

1528年(享禄元年)、大内義興が安芸門山城攻めの陣中で病に倒れ、山口に帰還後に死去。子の大内義隆が家督を相続します。

1537年(天文6年)、元就は大内氏に寄るため、大内氏当主・大内義隆に嫡男(のちの毛利隆元)を人質にだします。また、同年、尼子氏では経久が隠居し、孫の尼子晴久が家督を継いで当主となります。

1540年(天文9年)、尼子経久は晴久を毛利攻めに派遣。晴久の叔父で新宮党の当主・尼子国久が補佐。軍力のどうしようもない差に元就は1年にもおよぶ籠城にでます。

1541年(天文10年)、元就に援軍が到着。大内義隆の重臣・陶隆房率いる1万の大軍が加勢にきて形勢は逆転、尼子氏は退却を余儀なくされます。また、この年に尼子経久が死去。これにより尼子方に属していた国人衆らは大内氏へ鞍替えすることになります。

1542年(天文11年)、大内氏は経久の死を好機ととらえ、尼子氏討伐に打って出ます(月山富田城の戦い)
翌1543年(天文12年)、軍議で力攻めを提案する陶隆房と調略を提案する元就。力攻めが採用され、尼子氏は籠城するも戦いは長期化。
鞍替えしたばかりの吉川興経をはじめとする安芸国人衆らが城へ総攻撃とみせかけ、そのまま敵の抵抗もなく入城。この寝返りにより一気に形勢は逆転し、大内軍は急遽撤退に転じることになります。

このとき、外様の元就は殿を命ぜられ、窮地を迎えます。しかし、元就の家臣・渡辺通が身代わりとなって元就はかろうじて逃げのびることとなります。

この敗戦で以後、義隆は自ら戦にでることを忌み嫌うようになり、文化に傾倒、こうして文治派が台頭し、武断派の隆房は影響力を失って行きます。義隆とも不仲になってゆきます。

1544年(天文13年)、元就の三男・徳寿丸が竹原小早川家の家督を相続、のちの小早川隆景(たかかげ)です。3年前に竹原小早川家当主・小早川興景が病死、男児がいなかったために親戚筋の毛利から養子をむかえたための相続でした。このときの縁組は共通の主筋の大内義隆のすすめでなされたため、毛利・小早川の争いもなく円滑に行なわれました。

一方で元就の次男・元春も、3年後に親戚筋ではあるが毛利と敵対していた吉川家の吉川興経の養子となるのでした。月山富田城の戦いで吉川興経は寝返り、尼子氏についていたが、元々毛利と吉川は婚姻などで関係は良好でありました。

1546年(天文15年)、元就は家督を嫡子・隆元に譲ります。 

1547年(天文16年)、元就とその宿老らは吉川興経の命を保証し、隠退を納得させます。吉川興経の嫡子・千法師を吉川元春の養子にし、のちに家督を継がせるという条件を提示したのです。しかし、吉川興経は子の千法師ともども暗殺され、元就は吉川家の乗っ取りに成功します。

1548年(天文17年)、中央では三好長慶が謀反を起こし、翌1549年(天文18年)には細川晴元、足利義晴、13代将軍・義輝らを京から追い出し、細川氏綱とともに上洛します。これにより三好政権が誕生し、四国の細川領であった讃岐・阿波は三好氏が支配することになります。

1550年(天文19年)、小早川隆景が沼田小早川家という小早川宗家の家督継承に成功。
沼田小早川家当主・小早川繁平は弱冠9歳で病弱で目も見えませんでした。沼田小早川家の宿老達は反発するも誅殺されます。この家督継承には大内義隆の後押しがありました。

陶晴賢の謀反

1551年(天文20年)、大内家中では月山富田城の戦い以後、文治派と武断派が対立しており、ついに武断派の陶隆房が謀反を起こします。そして、長門の大寧寺において大内義隆を自害に追い込みます(大寧寺の変)
こうして大内氏は事実上滅亡。義隆の嫡子・大内義尊(よしたか)も殺害されます。

陶隆房はこの後、大内義隆から偏諱をうけていたので改名、陶晴賢(はるかた)と名乗るようになります。また、このころ、元就は以前からこの当主交代に同意していたため、陶晴賢の支持のもと、謀反前に大内氏の支城を攻略。晴賢は元就に安芸・備後の国人領主たちを取りまとめる権限を与えていました。

1552年(天文21年)、陶晴賢は義隆の養子であった大友晴英(はるひで。翌年、大内義長に改名)を傀儡として大内氏新当主にむかえることで大内氏の実権を掌握。
一方で元就は、尼子晴久が大内の支配下だった備後国に攻めてくると、政変後の処理に追われる晴賢に代わって交戦。

翌1553年(天文22年)には攻防の末に尼子氏を撤退に追い込みます。しかし、尼子撃退後の安芸・備後周辺の戦後処理を巡って、元就と晴賢の間には確執が生まれ始めるのです。

1554年(天文23年)、こうした中、義隆に恩義があった石見の吉見正頼(よしみ まさより)が晴賢に叛旗を翻し、三本松城の戦い(さんぼんまつじょうのたたかい)が勃発します。
陶氏と吉見氏は同じ大内家臣でありながら応仁の乱以来の仇敵でした。また、吉見氏は事前に密かに元就と交渉して決起を促していました。元就は晴賢からも出陣要請をうけたが、晴賢への不信感を抱いていた元就の嫡男・隆元の反対で出兵ができないでいました。
そこで晴賢は、安芸の国人領主たちに直接、出陣の督促の使者を派遣。しかし、これは安芸・備後の国人領主らを取りまとめる権限を元就に与えるとした約束に反していました。

使者を捕えた平賀広相からその事実を告げられた元就は晴賢との対決を決意します。(防芸引分)
こうして、元就は挙兵、安芸から大内方勢力を一掃し、安芸一国をほぼ手中に収めるのです。また、同年、尼子氏では晴久が新宮党当主の国久とその子である誠久を誅殺してしまいます。

元就、厳島の戦いで勝利

1555年(弘治元年)、前年に元就の謀反によって安芸を支配された晴賢は激怒、大軍を率いて安芸厳島に侵攻するが、村上水軍を味方につけた元就に敗れ、自害に追い込まれます(厳島の戦い)

この戦いに勝利した元就はその勢いを保ったまま、大内氏領周防・長門への侵攻を開始します。そして、1557年(弘治3年)、ついに元就は大内氏の当主・義長を討って、大内氏を滅亡に追い込みます。
これにより九州を除く大内氏の旧領の大半を手中に収めることに成功(防長経略(ぼうちょうけいりゃく))

1558年(永禄元年)、大友義鎮との和睦を破棄、北九州を攻めます。小早川隆景を派遣し、九州攻略の拠点の確保に成功します。

九州エリア

応仁の乱収束後の九州エリアの各勢力

1477年(文明9年)、応仁の乱の収束で大内氏14代当主・大内政弘(まさひろ)は10月に新将軍になった足利義尚の名で周防・長門・豊前・筑前の4か国の守護職を安堵されます。

また、当時の大友氏の当主・大友政親(まさちか)は前将軍・義政から家督の継承を認められ、豊後・筑後両国の守護に任じられます。

九州各国の主な勢力は以下

  • 大内氏:豊前・筑前
  • 大友氏:豊後・筑後
  • 小弐氏(しょうに):肥前の東部
  • 有馬氏:肥前の西部
  • 菊池氏:肥後
  • 伊東氏:日向
  • 島津氏:大隅・薩摩

1478年(文明10年)には大内氏が九州に出陣して少弐氏と戦い、豊前・筑前を確保

大友家内の混乱

1484年(文明16年)、大友氏では親子の対立が芽生えます。当主・大友政親が息子の親豊(後の義右(よしすけ))に家督を譲って隠居。しかし、親豊の母が大内氏の娘であったことから大内氏が干渉、さらに、従兄弟(第13代当主大友親綱の子)である大友親実大聖院宗心(だいしょういんそうしん)が政親と親豊の仲たがいを図って演出したこともあって、家中は政親派と親豊派に分裂していきます。大友氏はこうして一時的に衰退していきます。

1491年(延徳3年)、大内政弘が10代将軍・義材(のちの義稙)に従い、六角高頼の討伐のために再度上洛。そして翌1492年(明応元年)には嫡子・大内義興も参陣します。
こうした中、九州では大友氏や小弐氏が勢力を盛り返していきます。しかし、大内氏重臣の陶弘護が大友氏を撃退、さらに大内政弘が帰国すると小弐氏も撃退していきます。

1493年(明応2年)、中央では明応の政変が勃発し、細川政元に擁立された足利義高(のちの義澄)が11代将軍に就任し、細川政権が誕生します。この際、大友氏では、政親は足利義高(義澄)を、義右(親豊)は廃された足利義材(義稙)を支持し、この後も大友家中では混乱が続きます。

1496年(明応5年)、ついに、大友氏の親子対立がきっかけで事件が発生します。
大友義右(よしすけ)が急死し、大友政親(まさちか)が毒殺したとのうわさが流れます。大内政弘から家督継承した大内義興はこの報をきいて激怒、政親も大内領に侵攻するが自害に追い込まれます。
その後、政親の弟が大友親治(ちかはる)が家督相続しますが、義興は大友家の後継者に大聖院宗心を擁立して干渉してきます。

大内氏と大友氏は大友政親が大内政弘の妹を妻として婚姻関係を結び、次いで、彼女が生んだ大友義右が家督を継いだことで大内義興と義右が従兄弟として協力することになり、安定した関係が築かれていました。

1497年(明応6年)、大内義興が九州探題の渋川尹繁(ただしげ)救援を名目に肥前に挙兵。第15代当主・小弐政資(しょうに まさすけ)と子の高経は自害し、少弐氏は一時的に滅亡します。

1498年(明応7年)、大友氏の家督を継いだ親治(ちかはる)が豊前国下毛郡の戦いで大内軍を破って大聖院宗心を追放、大友氏の家中統一に成功します。

1501年(明応10年)、小弐政資の三男・小弐資元(すけもと)が弔い合戦の旗をあげます。さらに、大友親治も大内氏を討とうとします。しかし、このころ、大内氏は流れ公方こと足利義尹(よしただ)を保護していたため、義尹の仲介で和睦し、戦にはなりませんでした。

九州各国の主な勢力は以下

  • 大内氏:豊前・筑前
  • 大友氏:豊後
  • 菊池氏:肥後

大友氏の家督継承に大友義鑑(よしあき)が就くと争いが絶えなくなります

1518年(永正15年)、大友家臣の朽網親満(くたみちかみつ)が反乱を起こすもこれは鎮圧。

1520年(永正17年)、義鑑の弟・大友義武(菊池義武)が肥後の菊池の家督継承に成功。

1530年(享禄3年)、大内義興の家督を継いだ大内義隆が九州に出兵。 小弐資元を討つために家臣の杉興連や陶興房らに軍を預け、少弐氏を攻めるも大敗を喫してしまいます (田手畷の戦い (たてなわてのたたかい))。
このころ龍造寺氏は小弐氏に被官しており、この戦いで杉興連を敗走させたのが龍造寺家兼でした。龍造寺家兼は龍造寺氏の分家の当主でありました。

1534年(天文3年)、菊池義武が独立。やむなく大友義鑑は挙兵し、義武は逃亡。大内義隆が小弐氏打倒に動きます。

1535年(天文4年)、大内義隆が小弐資元を自害に追い込みます。このとき、龍造寺家兼は動かなかったために謀反人扱いされ、家兼の子と孫が資元の重臣・馬場頼周(よりちか)に殺害されてしまいます。龍造寺家兼は難を逃れ、筑後柳川城主・蒲池鑑盛(かまちあきもり)の元で再起を図ることになります。

1546年(天文15年)、龍造寺家兼は仇の馬場頼周を討ちます。

1548年(天文17年)、家兼はひ孫の龍造寺隆信に家督を継がせ、再興を果たします。
さらに、同年に龍造寺本家の当主が死没したため、隆信はその未亡人を娶り、本家の家督継承に成功。これに本家の宿老は反発。反発をおさえるために隆信は大内義隆を頼ります(当主になれたのも大内氏の後ろ盾があったからでした。)

1550年(天文19年)二階崩れの変が勃発。大友義鑑は嫡子・義鎮(後の大友宗麟)の廃嫡を試みると4人の重臣が反対。そのうち2人を殺害します。しかし残り2人の重臣が反撃。
義鑑が家督継承させようとしていた塩市丸とその実母を殺害。義鑑は返り討ちにするが、自身も傷を負い、数日後に死去。こうして大友宗麟(そうりん)が家督を継承します。

1551年(天文20年)大寧寺の変で大内義隆が家臣の陶隆房(すえたかふさ?、後の陶晴賢)の謀反によって討たれ、大内氏は事実上滅亡します。
一方、大内義隆という後ろ盾を失った龍造寺隆信は本家から追放され、柳川の蒲池鑑盛の元に逃れることになります。しかし、隆信はその2年後、挙兵して本家を奪還、再び本家当主に返り咲くのです。

1554年(天文23年)、宗麟が菊池義武を滅ぼします。

1559年(永禄2年)、龍造寺隆信はかつての主君・小弐氏の当主・小弐冬尚(ふゆひさ)を自害に追い込み、ここに小弐氏は戦国大名としては滅亡することになります。


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