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「肥後国人一揆」国人が一気に不満噴出!きっかけは佐々成政の失政か。
──天正15年(1587年)

一揆勃発の背景

肥後国は現在の熊本県に相当する地域である。天正15年(1587年)5月に島津氏の降伏によって豊臣秀吉による九州征伐が終結すると、戦後の恩賞として肥後国は佐々成政に与えられることになった。

もともと織田信長の家臣であった成政は、信長死後は幾度となく秀吉に盾突いたが、秀吉に敗れた後に命だけは救われていた。そしてこの九州征伐に貢献したことで、秀吉から隈本領主に任命されて再び国主に返り咲いたのである。

こうして肥後の国衆たちは新領主の成政の配下に置かれることになった。 国衆というのは地元で暮らしている土着の武士や農民であり、それぞれが自分の領地や兵を持っているため、新しい領主にとってはその扱いはとても難しいものである。

その肥後の国衆の中で中心人物であったのが隈部親永であり、彼は秀吉に恭順した。しかし、肥後を任された佐々成政は、国人らをできるだけ早く支配下に置こうと、すぐに検地を進めて国人の領地の一部を減らそうとするが、これは国人達にとって許し難いことであった。

こうした成政の性急な一連の行動に対し、国衆らの不満が爆発。隈部親永は検地を拒否したうえで隈府城という城に籠城し、肥後国人一揆が勃発した。

一揆の経過

肥後国人一揆の要所マップ

一揆に対し、佐々成政は7000の兵で隈府城を攻めると、隈部親永は耐えきれず隈府城を放棄して城村城に移った。成政の軍勢は続いて城村城も包囲したが、陥落に手こずっていた間に他の肥後国人ら3万5千余が隈部親永に呼応して挙兵。成政の居城・隈本城も包囲されるに至り、成政はあわてて隈本城に撤退せざるを得なくなった。

しかし、成政は撤退中に一揆勢の攻撃を受けて多くの被害を被ったため、自力でこの一揆を鎮圧することができなくなってしまうことになった。成政がやむなく秀吉に援軍を求めたところ、第一陣としてまず立花宗茂ら1200の軍勢が柳川城を出発し、成政の救援に向かうことになる。

立花宗茂は一揆軍勢が待ち伏せていることを察知し、これを撃破して佐々成政が籠城する平山城に兵糧と共に到着。平山城は一揆軍に包囲されていたが、宗茂は偽の情報を流して奇襲を仕掛けて双方乱戦となった。宗茂は1日に13度も戦い、7つの敵城を落とすなどのの大活躍で一揆軍を総崩れにしたという。

鎮圧を急ぎたい秀吉はさらに小早川秀包を総大将として小西行長加藤清正ら九州、四国の秀吉軍を肥後国に送った。秀包らの援軍は隈部親永率いる一揆の拠点であった田中城を包囲、さらに一揆側の国人に寝返り工作などを行った。そして同年12月、ついに隈部親永が降伏して一揆は終結。立花宗茂と小早川秀包はこの戦いで意気投合し、義兄弟の契りを結んだ。

戦後処理ほか

一揆を起こした隈部親永の一族12名は立花宗茂によって全員切腹させられた。52人いた国人のうち48人が戦死または処刑された。この中には一揆に参加せず中立を保った国人もいたが、秀吉は許さなかったのである。

また、この一揆には百姓も多く参加し、彼らが武器を持っていた事も鎮圧の遅れにつながったため、秀吉はこのようなことを防ぐためにあの有名な「刀狩り」をこの時発布した。しかし、この刀狩りはあくまでも刀を農民が持つことを禁じるもので、そのほかの武具、例えば槍や弓、さらには鉄砲までも持つことが許されたので農村には引続き大量の武器が残ったままであった。

一方、その一揆の原因を作った佐々成政は、翌天正16年(1588年)2月に秀吉に謝罪に行ったが、秀吉から面会すらも拒否され、尼崎に幽閉。その後、助命嘆願はあったものの、秀吉は聞き入れずに成政は切腹を命じられている。

秀吉はこの年、九州に残っていた毛利輝元に自身への忠誠を誓わせ、徳川家康織田信雄ら有力大名を完全に従えることとなり、事実上日本全土を治めることとなった。そして成政の死後、肥後国は小西行長が南部を、加藤清正が北部を治めることとなり、清正の城である隈本城はのちに天下の名城と呼ばれる熊本城になったのである。


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