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「富山の役(越中征伐)」秀吉の天下統一への知られざる一歩。
──天正13年8月(1585年)

天正13年(1585年)に行なわれた富山の役(越中征伐)とは、羽柴秀吉が敵対した佐々成政を討伐するために行われた戦いである。かつてはともに織田信長の有力な家臣だった2人は、信長死後に敵対関係となっていた・・。

合戦の背景

信長が本能寺の変で横死すると、秀吉が明智光秀を討ったことで一気に織田家中での地位を高めたが、その事で秀吉派と柴田勝家派が対立することになり、両派は天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いで激突。佐々成政は柴田勝家の与力だったため、勝家派として秀吉と戦ったが、勝家が敗れて自害したことで降伏を余儀なくされた。
このとき、成政は娘を人質に差し出して自らは剃髪することで、本領の越中国(=富山県)を安堵されている。

一気に天下人へと名乗りを上げた秀吉だが、やがて信長の次男・織田信雄と不和となり、信雄が徳川家康を頼った。これが翌天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いに発展し、今度は織田・徳川連合と戦うことに──。

成政はこれに乗じて再び秀吉に背き、徳川方につくことを選択。この戦いでは、成政は秀吉方の前田利家を攻めたが、同時に背後の上杉景勝とも敵対していた。ゆえに、能登国(=石川県)と越後国(=新潟県)の両国において、苦戦を強いられることになった。戦況は織田・徳川連合が有利であったが、秀吉の調略によって信雄が単独で和議に応じてしまったため、家康も停戦を余儀なくされた。

これを知った成政は、厳しい冬の飛騨山脈(北アルプス)・立山を越えて、浜松(=静岡県)にいる家康のもとを訪れ、再び挙兵するように促した。これは「さらさら越え」と呼ばれているが、結局は家康の説得に失敗し、秀吉・家康間でも講和が成立となったのである。

合戦の内容

小牧・長久手の戦いの後、秀吉は徳川方についた諸将の討伐を開始することに。そのターゲットの一人が成政である。

天正13年8月(1585年)、秀吉は同月4日に織田信雄を総大将として兵を出陣させると、7日には自ら大軍を率いて、越中国に出陣。それに対して成政は、国内の城塞から兵を引き上げ、居城の富山城に集中させることで秀吉軍の侵攻に備えた。

19日、越中に入った秀吉軍は、国内の要所に火を放ち、富山城を包囲。これに呼応して越後の上杉景勝も挙兵しており、越中堺まで出陣している。さらに成政の同盟者であった姉小路頼綱も秀吉方に攻め込まれて降伏したため、成政は孤立無援の状態になった。

だが、富山城は神通川を水濠に引く「浮城」という異名をもっており、これを陥落させるのは秀吉でも容易ではなく、同時に暴風雨に見舞われたことから、秀吉軍にも大きな被害が出ていたようだ。

26日、成政は多勢に無勢と判断し、信雄の仲介によって秀吉に降伏を申し入れることにした。秀吉もそれを受け入れ、成政とその妻子を大阪城に移している。

戦後の影響

成政はその後、越中国のほとんどの所領を没収され、御伽衆として秀吉に仕えた。その後、肥後国(今の熊本県)を与えられたが、国内で起こった一揆を鎮められず、その責で切腹させられている。

一方の秀吉は、この戦いで越中を平定。同年は並行して紀伊・四国も制圧。これらの地域は信長の存命時に彼に従属していた地域である。そのほとんどを秀吉は掌握し、再び支配領域としたのである。なお、同年に関白にも就任している。

信長死後の秀吉は、明智光秀・柴田勝家を討ち、さらには織田信雄をも降伏させるなど、織田家の覇権を完全に握った。 関白にも就いた秀吉は、名実ともにかつての主君・信長を超え、天下人への確実な一歩を踏み出したのである。


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