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「三木の干殺し」秀吉得意の兵糧攻め。播磨平定の足掛かりに。
──天正6-8年(1578-80年)

合戦の背景

時は天正5年(1577年)の秋口。織田信長が中国方面へも勢力を拡大する過程において、その方面軍団の指揮官を任された羽柴秀吉は播磨征伐に着手する。これまでは、織田家・毛利家の両勢力と友好関係を結んでいた播磨国内の諸勢力は、瞬く間に西播磨の拠点である上月城は攻略されたことにより平定され、播磨のほとんどが織田家の勢力下に入ったかに見えた。

ところが、天正6年(1578年)の3月、長い間播磨国の守護大名として力を持っていた赤松氏の流れをくむ別所氏の重臣・吉親が、三木城主である甥の別所長治を説得して織田家から離反し毛利方に付く結果となる。
この背景には、縁戚関係に合った丹波波多野氏の織田家離反や所領を安堵するという信長への強い不信感があったと言われている。

播磨の名門・別所長治が反旗を明らかにしたことで、当時影響力が大きかった東播磨の諸勢力が同調し毛利家の勢いが拡大し、羽柴秀吉は苦戦することになる。

ここから約2年間にも及ぶ秀吉率いる織田軍との壮絶な合戦が始まる──。

合戦の経過

別所長治は三木城に籠城することを決意し、城内には長治に同調する国人衆や浄土真宗の門徒などを含め、東播磨一帯の約7500人の人々が立てこもった。別所氏の最大の課題となったのは、この多くの人々が食べる兵糧(食料)の確保である。

播磨国内では、海沿いにある魚住城や高砂城などへ、友好関係を結んだ毛利家や英賀城の三木通秋から食料が次々と海上輸送された。陸揚げされた兵糧は、加古川や山間を抜けて点在する支城に送られ、見事な連係プレイで三木城に搬入されていった。

一方、秀吉は三木城下を取り囲んで焼き払うなどの作戦を行うが、強健な城を落とすことはできず、長期戦になることを覚悟して同年3月29日に三木城の周辺をぐるりと柵と築地で取り囲み、毛利方の食料の補給路を断つ兵糧攻め作戦を開始する。

そうした中、4月1日には、別所軍によって三木城近辺の冷泉為純・為勝親子と別所重棟が鎮圧されている。彼らは秀吉方の将であった。

その後の3~6日にかけ、秀吉は別所の支城の一つである野口城を落城させ、包囲網をじわじわと狭めていく。この間に、織田軍の尼子勝久の上月城が3万を超える毛利軍に攻められる(上月城の戦い)が、三木城の攻略を優先するか、上月城に救援に行くかを迷った秀吉は、最終的に救援を断念して三木城を攻めることを決意する。

だが、7月には毛利軍が上月城を攻略し、やむを得ず織田軍は三木城の西部にある高倉城近くから書写山まで撤退するなど、膠着状態がしばらくの間続くことになる。その後、毛利軍が東進しなかったことを機に、再び高倉城とその周辺の支城を攻略し、三木城の北東約2キロメートルの近距離に平井山本陣と支城を築き周囲を固めていく。この時点で包囲網が確立したかに思われたが、織田家の荒木村重が裏切って毛利軍につき、三木城の南に位置する有岡城に立てこもるという事態が起き、新たな食糧の輸送ルートが作られたのである。

何度か秀吉側の武将が説得に足を運ぶが応じることはなかった。ただ、兵糧の補給ルートは確保できても、城内には7千名を超える人々がおり、戦が長引けば食糧難になることは目に見えていた。

天正7年(1579年)の5月に、秀吉は重要な輸送ルートである淡河城を攻略。6月には八上城が落城し、毛利・別所側は自ら出兵し兵糧を運び込むという作戦に出る。その後、数々の兵糧の搬入が失敗に終わり、毛利と別所の中間に位置していた宇喜多直家の離反により、毛利からの支援は完全に分断されることになる。

秀吉は降伏を促すものの応じず、三木城では食料の補給を断たれたちまち食糧難に陥る。城内に備蓄された米は底をつき、馬は食料にされた。馬がなくなれば、人々は食べるものに困り雑草を口にしたという。

天正8年(1580年)の年明けに秀吉が総攻撃をかけた時には、人々はやせ衰え衰弱しきっていた。そしてまもなく、別所長治はついに、自分の命と引き換えに城内の人々の命を救うことを秀吉と約束し自害したのである。

織田家はこの後播磨を平定し、畿内への玄関口として姫路城が建設される。また、兵糧攻めはその後の合戦でも使用されるようになり、城兵は城主の切腹と交換に助命されるということも何度か行われた。


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