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5分でわかる豊臣秀吉の生涯(3)

関白宣下を受け、ついに事実上の豊臣政権を樹立した秀吉。

1586年(天正14年)、秀吉は徳川家康を懐柔し、上洛させて臣下にと試みていた。なかなか従わない家康に対し、秀吉は人質という手段を選択する。

同年4月23日には実妹・朝日姫(南明院)を家康の正室として差し出し、5月14日に家康はこれを迎え入れた。 しかし、それでも上洛しない家康に対し、10月18日には生母・大政所を朝日姫の見舞いの名目で家康のもとへ送ると、さすがの家康も上洛を拒む手はなく、上洛して秀吉に臣従せざるを得なくなるのであった。

同年、越後国の上杉景勝も上洛して秀吉と会見し、養子の畠山義真(当時は上杉姓)を人質として差し出して臣従している。なお、このとき石田三成と直江兼続が結びつけたとされている。

この年、秀吉は正親町天皇から豊臣の姓を賜り、さらに太政大臣に就任。

九州征伐

一方、九州では3月に島津氏が秀吉から占領地の過半を大友氏に返還する国分案を提示されるが、大友氏への攻撃を再開して九州統一戦を進めていった。こうした中、秀吉は4月に毛利輝元に対し、九州攻めのための人員・城郭・兵糧などの準備を指示。

筑前国での戦い

秀吉の到着前に九州統一を成し遂げたい島津軍が6月に大友領の筑前国への侵攻を開始した。

7月、島津軍が大友氏の家臣・高橋紹運が籠る岩屋城を陥落させると(岩屋城の戦い)、8月には大友家配下の立花家当主・立花宗茂が守る立花山城に進軍してこれを包囲した。
しかし、豊臣秀吉の援軍である毛利輝元が安芸国より、小早川隆景が伊予国より、吉川元春が出雲国よりそれぞれ出陣し、豊前国・小倉城まで進軍、せまってきていたため、島津軍は撤退。この直後、宗茂は高鳥居城を奪取、8月末までには援軍とも連携して島津軍を追い、岩屋城、宝満山城を奪還した(立花山城の戦い)

豊前・豊後国での戦い

9月、秀吉の命によって十河・長宗我部の両氏も豊後に出陣して大友氏と合流。また、このころの秀吉陣営は、豊前国の花尾城・広津城・時枝城・宇佐城、そして、筑前国の龍ヶ岳城を支配下に入れていった。

10月になってこのころの秀吉陣営は豊前国の小倉城・馬ヶ岳城・浅川城、そして、筑前国の剣ヶ岳城を支配下に入れた。 また、島津氏当主・島津義久は東九州に進軍して大友宗麟の本国である豊後を直接攻めることで雌雄を決する方針に転じた。

1587年(天正14年12月)には、豊前のほとんどが秀吉陣営の支配下となる。さらに、このころ、秀吉は諸国に対して自らも島津討伐に加わることを伝え、畿内および北陸道・東山道・東海道・山陰道・山陽道などの約37か国に対して、計20万の兵を大坂に集めるように通達。

同年12月12日、豊後国・戸次川(へつぎがわ)にて島津軍と秀吉軍の長宗我部元親・信親父子、仙石秀久、大友義統、十河存保らが激突。豊臣勢は大敗。大友義統は島津氏の勢威を恐れて豊前に逃亡、豊後の西部及び中央部はほぼ島津氏の占領下に入った。(戸次川の戦い)

秀吉自ら出陣、そして、九州平定へ

同年(天正15年3月)にはついに秀吉自らが出陣。肥後方面軍は秀吉自身が、日向方面軍は豊臣秀長が率い、兵は合わせて20万を数えるほどの大軍であった。圧倒的な兵力差を悟った義久は戦線の縮小を図り、一部占領していた豊後国から完全に撤退。

4月、日向国にて、日向高城の戦い、および、それにつづく根白坂の戦いの敗北によって島津氏の組織的抵抗は最後となり、義久は降伏。

こうして九州全域をほぼ支配しつつあった島津氏を屈服させ、秀吉は西国を完全に豊臣氏の支配下に収めたのである。

天下取りへ向け、各種法令を次々と発布

残されたエリアは関東と奥羽。秀吉は残りエリアを侵攻する大義名分を得るため、同年末に豊臣政権より関東・奥羽(陸奥国・出羽国)の惣無事令(私闘を禁じた法令)を出し、家康に監視をさせた。この後、東国を除いて全国統一をほぼ成し遂げた秀吉は内政に関する規制を次々と発布していく。

バテレン追放令

同年、九州平定後、九州において強制的なキリスト教への改宗や神社仏閣の破壊などといった神道・仏教への迫害や、ポルトガル人による日本人の奴隷売買などが行われていたことが秀吉に発覚。
これにより、秀吉はイエズス会の布教責任者ガスパール・コエリョを呼び出し、問い詰めた上で博多でバテレン追放令(キリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁制文書)を発布、これらの行為を禁止した。

元々秀吉は信長の政策を継承し、キリスト教布教を容認していた。この法令は個人が自分の意思でキリスト教を信仰することは規制しておらず、下層の民については自由であることを定め、建前としては信仰の自由を保障するものであった。また、一定の領地を持つ大名についても秀吉の許可があればよしとした。

その他、布教に関係しない外国人商人の渡来に関しても規制しておらず、また、この機に乗じて宣教師に危害を加えたものは処罰するとしている。

この年、関白になった豊臣秀吉の政庁兼邸宅として前年から着工していた聚楽第が完成。 九州征伐を終えた秀吉は大坂より移り、ここで政務をとった。翌1588年には後陽成天皇の行幸を迎えてこれを饗応。また、天正少年使節や徳川家康の謁見もここで行われた。

海賊禁止令・刀狩令

1588年(天正16年)、秀吉はこの年、刀狩令と海賊禁止令を同時に発布。

刀狩令は兵農分離を徹底して下剋上の再発を防ぐのが目的であり、海賊禁止令は海賊衆(水軍)に対して、以下のいずれかを迫るものであった。

  • 豊臣政権体制の大名となる
  • 特定の大名の家臣団となる
  • 武装放棄して百姓となる

1589年(天正17年)、側室の淀殿との間に鶴松が産まれ、後継者に指名。

秀吉、ついに誰も果たせなかった天下人に。

1590年(天正18年)、ついに秀吉は関東へ遠征、後北条氏の本拠小田原城を包囲。 後北条氏の支城は豊臣軍に次々と攻略していき、秀吉は黒田官兵衛と織田信雄の家臣・滝川雄利を使者として遣わし、これに北条氏政・氏直父子はついに降伏、小田原城を3か月の篭城戦の後に開城させた(小田原征伐)

北条氏政・北条氏照は切腹し、氏直は紀伊の高野山に追放となった。

北条氏を滅ぼした秀吉は、最後に東北地方に対する領土仕置を実施(奥州仕置(おうしゅうしおき))

この時点で伊達氏は奥羽に150万石近い大領国を築いていたが、当主・伊達政宗が小田原征伐の際に遅参したことに加え、秀吉が1587年に発布した惣無事令にも違反していたことから会津郡、岩瀬郡、安積郡は没収され、陸奥出羽のうち13郡、およそ、72万石に減封された。

この奥州仕置によって、ついに秀吉の天下統一事業が完成されたのである。



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