あなたの好きな戦国武将が詳しく丸ごと早わかり! 最大級の戦国まとめサイト

5分でわかる豊臣秀吉の生涯(4)

誰も成し遂げられなかった全国統一を果たした豊臣秀吉。

1591年、東北の南部氏では後継者争いのもつれで九戸政実の乱が勃発した。

南部家内では1582年(天正10年)に当主・南部晴政が没したことで後継者争いが発生しており、その後、南部信直が当主になるものの、九戸政実(くのへ まさざね)は遺恨を抱き、南部家中は不穏な状態であった。

そうした中での政実の挙兵であった。もともと南部一族の精鋭であった九戸勢に信直は苦戦。そして、信直は自力での討伐を諦めて秀吉に援軍を要請した。
秀吉は九戸征伐以外にも大規模な奥州での一揆鎮圧という目的もあったため、奥州再仕置軍を編成した。豊臣秀次を総大将とした九戸討伐軍が奥州への進軍を開始し、政実らが籠城する九戸城を包囲。そして、九戸政実は降伏を余儀なくされ、処刑という形で乱は終結となった。

一方で秀吉はこの年に後継者に指名していた嫡男・鶴松を病死で失った。このため、甥・羽柴秀次を家督相続の養子として関白職を彼に譲り、太閤(=前関白の尊称)と呼ばれるようになる。
ただし、秀吉は全権を譲らずに実権を握り続け、二元政を敷いた。

朝鮮出兵(文禄の役)

1592年(文禄元年)、豊臣政権は朝鮮出兵を開始。

秀吉は来春に「唐入り」を決行することを全国に布告し、まず、肥前国に出兵拠点となる名護屋城を築き始め、同年3月には明の征服と朝鮮の服属を目指して宇喜多秀家を元帥とする16万もの軍勢を朝鮮に出兵。

初期は日本軍が朝鮮軍を撃破し、漢城や平壌などを占領するなど圧倒していたが、各地の義兵による抵抗や明の援軍が到着したことによって戦況は膠着状態となっていくと、翌1593年(文禄2年)には明との間で講和交渉が開始された。

一方で国内では側室の淀君との間に子(のちの豊臣秀頼)が誕生し、秀吉は京都の伏見城に母子を伴って移り住むこととなる。

秀吉は伏見城に来て、日本を5つに分け、その4つを秀次、残り1つを秀頼に譲ると言ったという(『言経卿記』)。

1595年(文禄4年)には突然、関白秀次に謀反の疑いが持ち上がり、関白が切腹でこの世を去るという一大事件が発生した。この謀反の嫌疑や切腹の真相などは諸説ある。

1596年(文禄5年)、明との間の講和交渉が決裂。
明との講和交渉は日本と明双方の講和担当者が穏便に講和を行うために、秀吉は「明が降伏」、明朝廷は「日本が降伏」という、それぞれが偽りの報告を受けていた。
文禄同年9月、秀吉は来朝した明使節と謁見。自分の要求が全く受け入れられていないのを知って激怒。使者を追い返して朝鮮への再度出兵を決定。

一方で、10月には土佐国にスペイン船が漂着。奉行・増田長盛らは船員たちに「スペイン人たちは海賊であり、ペルー、メキシコ(ノビスパニア)、フィリピンを武力制圧したように日本でもそれを行うため、測量に来たに違いない。このことは都にいる三名のポルトガル人ほか数名に聞いた」という秀吉の書状を告げた。(サン=フェリペ号事件)
12月8日、この事件の影響により、秀吉は再び禁教令を公布。

朝鮮出兵(慶長の役)

1597年(慶長2年)、秀吉は朝鮮半島へ再出兵(慶長の役)。

一方で、秀吉はイエズス会の後に来日したフランシスコ会(アルカンタラ派)の活発な宣教活動が禁教令に対して挑発的であると考え、京都と大坂に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛して処刑するよう、京都奉行の石田三成に命じた。
三成はパウロ三木を含むイエズス会関係者を釈放しようとしたが果たせなかった。
最終的に日本人20名、スペイン人4名、メキシコ人、ポルトガル人各1名の26人(日本二十六聖人)が長崎で処刑された。

太閤秀吉の最後

1598年(慶長3年3月15日)、秀吉は豊臣秀頼・北政所・淀殿ら近親の者を初め、諸大名からその配下の女房女中衆約1300人を招いて盛大な花見を催した(醍醐の花見)

その後、秀吉は徐々に病に伏せるようになっていくが、子の秀頼が心残りであった。
5月には徳川家康・前田利家・前田利長・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元ら五大老、及びその嫡男らと五奉行のうちの前田玄以・長束正家に宛てた十一箇条からなる遺言書を出し、これを受けた彼らは起請文を書いてそれに血判を付けて返答した。

秀吉は自身を八幡神として神格化することや遺体を焼かずに埋葬することなどを遺言した。

7月4日には居城・伏見城に徳川家康、他の諸大名を呼び、家康に対して秀頼の後見人になるように依頼。そして、8月5日、五大老宛てに二度目の遺言書を記したが、これが最後の遺言となって8月18日、秀吉は没した。享年62。

秀吉の死後、豊臣氏は秀吉の嫡男である秀頼が継ぐも、わずか6歳だったため、豊臣氏内部では加藤清正や福島正則ら武功派と石田三成や小西行長ら文治派の対立が表面化し、豊臣家臣団は分裂していくことになる。



あわせて読みたい
豊臣秀吉の年表
豊臣秀吉トップ / 入門
豊臣秀吉の名言・逸話30選
豊臣秀吉トップ / 入門
豊臣秀吉の家紋・家系図
豊臣秀吉トップ / 入門

 PAGE TOP