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「賤ヶ岳の戦い」信長亡き後、織田家の主導権をかけた頂上決戦!
──天正11年(1583年)

歌川豊宣『賤ヶ嶽大合戦の図』
賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いは、信長死後、織田家の家臣である羽柴秀吉と柴田勝家が織田家の覇権をかけて戦った合戦である。

合戦の背景

天正10年6月2日(1582年)織田信長とその嫡男・信忠が本能寺で家臣の明智光秀に討たれ、非業の死を遂げた。(本能寺の変)

備中で毛利氏と戦っていた羽柴秀吉は、信長の死を知ってすぐに明智討伐に向かい、これに勝利。この後、同月27日には、織田家中で後継者問題と所領の再分配を決定する清州会議が行なわれることに──。
尾張国清洲(愛知県西部)にて開かれた会議では、信長の二男・織田信雄と三男・織田信孝がともに後継者の地位を望んだとされる。 このとき、織田家の筆頭家老の柴田勝家は三男信孝を後継者に推すが、これに対して秀吉はわずか2歳の信忠の子・三法師を擁立して両者は対立。結局光秀を討った秀吉に軍配が上がり、信長の嫡孫・三法師が家督を継ぎ、信雄や信孝が後見人、秀吉や勝家などが執権となることで収まった。

しかし、のちに秀吉が清州会議の決定を破棄し、二男信雄が家督を継ぐ決議を丹羽長秀池田恒興の三者で行うなどしたため、勝家と秀吉の対立が深まることに。やがて両者は先の決戦を見据え、調略で味方を増やすことに奔走しはじめ、秀吉派と勝家派の対立が鮮明となっていくことになる。

合戦の経過

そして12月2日、柴田勝家が雪のために本拠地の越前国(福井県北部)から身動きできなくなると、秀吉は柴田勝豊(勝家の養子)が守っている長浜城を攻め立て、両派の戦いが始まる。長浜城を攻めた秀吉は、数日で柴田勝豊を降伏させ、20日には岐阜城の織田信孝を降伏させている。

一方、翌天正11年(1583年)になると、勝家派の滝川一益が伊勢国(三重県中部)で挙兵。これに秀吉は伊勢に出陣し、2月中旬には一益の本拠・長島城に攻め込むが、頑強な守りによって城は落ちなかった。そうこうするうち、いよいよ勝家が動き出す──。

賤ヶ岳の戦いの要所マップ

2月末に越前を出陣した3万もの柴田軍は、佐久間盛政(勝家の甥)や前田利家を従えて、3月12日に近江国(滋賀県北東部)の柳ヶ瀬に布陣。一方の羽柴軍は蒲生氏郷などを伊勢の守りに残し、同19日に木ノ本に布陣。しかし、両者は布陣したまま戦闘はせず、膠着状態がしばらく続くことになる。

そして4月16日、一度は降伏した織田信孝が再び挙兵したことで開戦となる。

同17日、岐阜城に進軍してくる信孝軍を撃退するために、秀吉軍が戦場を離れたため、これを好機とみた柴田方の佐久間盛政が秀吉方の砦を攻めた。これにより、19日には大岩砦を守っていた中川清秀が討死。高山右近も退却するという戦果をあげる。しかし、このとき佐久間盛政は柴田勝家が撤退命令に従わずに前線に留まって、さらに賤ヶ岳砦も攻めたてた。だが、丹羽長秀の軍勢が賤ヶ岳砦を守る桑山重晴軍と合流したことにより、砦の陥落とならなかった。

柴田方の前田軍が突如退却

20日、大岩砦の陥落を知った秀吉は岐阜から大急ぎで戻ってきて(美濃大返し)、佐久間盛政との対決となった。このとき、戦闘中に柴田軍の予想もしないことが起きる。というのも、柴田方の前田利家が突如として軍を退却させてしまったのだ。

前田軍が退却したはっきりとした理由は不明であるが、利家は秀吉とは深い付き合いがあり、柴田勝家とは主従関係であったため、その板挟みにあったために退却したというのが有力である。

そして、利家に続いて金森長近や不破勝光も退却してしまったため、佐久間盛政軍は耐えきれずに壊滅。佐久間隊を撃破した秀吉方は柴田勝家の隊まで攻め込み、多勢の羽柴軍に対抗できず、柴田軍も総崩れになり、柴田勝家は居城である北ノ庄城まで撤退することになるのである。

4月23日、羽柴軍は賤ヶ岳の戦いに勝った勢いにのって、柴田勝家の本拠地である北ノ庄城まで攻め込み城を包囲する。翌24日に柴田勝家は夫人のお市の方(信長の妹)と共に自刃し、柴田家が滅亡する。 佐久間盛政は逃亡するが、捕らえられて斬首される。織田信孝は、柴田家が滅亡したのち、信雄に包囲されて降伏、4月29日に切腹させられることになるのだ。また、滝川一益は、一ヶ月の籠城した後に開城し、出家して越前大野に蟄居することになるが、その後羽柴秀吉の東国への外交官として働き、天正14年(1586年)まで生きることになる。

合戦の影響

この戦いの勝利により、秀吉は織田家の家臣の多くを臣下にすることに成功。また、畿内を手中に収めたことにより、朝廷からも認められ、同年5月には従四位下参議に任命された。秀吉が畿内を掌握した影響は大きく、上杉家や徳川家などの有力大名に対しても親交を深める効果もあり、天下の成り行きをうかがっていた中国の毛利氏も秀吉に従属するようになった。

なお、この戦いで活躍した秀吉方の福島正則加藤清正など7人は、後に「賤ヶ岳七本槍」と称されている。ただ、実際には、七本槍以外の石田三成大谷吉継などの武将も活躍しているため、7人なのは語呂合わせのためと言われている。


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