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豊臣秀吉の名言・逸話まとめ

幼年・青年期

手がつけられない?

秀吉は生まれつき賢く、成長するにしたがって束縛を嫌い、継父の竹阿弥(ちくあみ)にも反発するようになり、母の諌めにも全く耳を傾けずにわがままな振る舞いが多かったという。

8歳のころに寺に預けられたが、学問などはせずに一日中竹木で槍術や剣術のマネごとをし、人が武芸や合戦に関する事を語っているときには必ず聞いていたといい、また、常に「坊主はみな乞食だ!おれは乞食になどなるものか!」と言って悪口し放題で遊んでおり、人とのトラブルが絶えなかったという。
これを見兼ねた寺の僧が「家に返す」と言うと、秀吉は「追い出すなら寺に火をつけて坊主どもを斬り殺す」とあたりちらした。このため僧は他の理由をつけて寺を出るよう頼み込み、色々なモノを与えるなど秀吉の機嫌をとって家に返したという。(『名将言行録』)

母親もあきれはてる

寺から戻った秀吉は、生計の手伝いをしたが、家が貧しかったために他人の奴僕(=召使い)に出されたりもした。しかし、どこへ行っても長く続かず、家に戻ってきては継父に逆らう始末であり、母もあきれはて、秀吉に涙を流して小言を意見するほどだったという。(『名将言行録』)

松下之綱に仕える(秀吉15歳)

秀吉は天文20年(1551年)に家を出て、尾張の清洲で針を売買してはそれを旅費にあって東国へ向かった。そして、遠江の引間で今川義元の家臣・松下之綱に声をかけられると、一目置かれてその場所で主従の約束を交わしたという。

しかし、まもなく秀吉は之綱の知人に紹介され、彼らに一芸を披露。その結果、彼らは秀吉を気に入り「もらい受けたい」と之綱に所望し、之綱もその知人にもらわれるように秀吉に勧める。
これに秀吉は「今日主従の約束をしたのに、今日ほかに行けというのは、主君としての法ではない」と言って之綱を理で屈服させ、之綱に仕えることになったという。(『名将言行録』)

信長に仕えた下積時代

信長の草履取り(秀吉22歳)

織田信長の草履取り(=主人の外出のときに草履をそろえ、替えの草履を持って供をした下僕)をしていた、ある雪降る夜の日、信長が局から帰るときに草履をはくと暖かくなっていた。

秀吉が冷えた草履を背中に入れて暖めておいたからであった。信長はその忠義に秀吉をすぐに草履取頭にしたという(『名将言行録』)。

秀吉のアピール話

秀吉は仲間たちに自分を知ってもらうため、あえて小姓の小便所の下に隠れ、小便をかけられると「小便をしかけるのは何者だ!」と相手を咎め、相手が「そこにいるとは知らなかった。」と言うと、「ご存じなくてごもっとも。お気にかけられるな」と返答したため、"物わかりのいい奴" として誰もが幾分秀吉のことを知るようになってきたという。

また、あるとき、ミカンの皮を小姓からもらい、その後すぐに肩衣(=小袖・袴の上に補助衣的に着用されたもの)を着て「これはミカンの皮で仕立てたものだ」とアピールしたという。周りの者にその理由を問われると、「ミカンの皮を集めて売って手に入れた銭で作った」と答え、皆に賢い者だと知られるようになったという。(『名将言行録』)。

日々、勇む

ある日、信長が犬山城近辺を焼き働きに出たが、その時に馬に乗って勇む者がいた。

信長が「誰だ!」と問うと、秀吉が「藤吉郎めにございます」と名乗った。その後、信長が夜明けごろに鷹狩りにでた際も「誰かいるのか」と言うと、秀吉が「藤吉郎ここにおります」と答えたといい、信長は感心して次第に親近の情を増していったという(『名将言行録』)。

清洲城の石垣の普請(秀吉23歳)

永禄2年(1559年)に信長の居城・清洲城の石垣が崩れたため、普請(=土木・建築の工事のこと)することになった。
このとき、20日余りかかってもはかどらなかったが、秀吉がその役目が与えられると、わずか2日でこれを完了させた。そして、信長から俸を賜わり、役人に取り立てられたという(『名将言行録』)。

指揮官としての才覚(秀吉27歳)

永禄6年(1563年)、信長が川狩り(=魚捕り)にでかけたとき、信長はふざけて兵士らを整列させ、秀吉を指揮官とさせた。
すると、秀吉は兵に役割を振り当てて指揮をしたが、その様子は兵法に精通している者のようであったという。(『名将言行録』)

薪奉行

信長は薪炭(=たきぎとすみ。たきもの。燃料)の出費が多いことを心配して秀吉を薪奉行にした。秀吉は、かまどの前に垣を作る事で薪の入用を大きく減らし、出費も減らせたという(『名将言行録』)。

許されぬ旗竿

織田の軍勢が美濃国へ出兵したときに見慣れない旗があった。
信長が「誰だ!」と聞くと「木下藤吉郎の旗です」と返答が返ってきた。そのとき信長は激怒して旗竿を切り折らせたが、秀吉はこれを少しも恨む様子もなく平然としていたという。(『名将言行録』)

墨俣一夜城の建設(秀吉30歳)

永禄9年(1566年)には美濃国の斎藤氏との戦いの中で、戦線打開のために砦を築いて守備するという危険な任務に自ら手をあげたという。(『名将言行録』)

ちなみにこの砦が秀吉が一夜にして築いたと伝えられる墨俣一夜城であり、美濃攻略に大きな功績を残した。

織田政権下(将軍義昭の誕生後~)

金ヶ崎の戦いで殿を務める(秀吉34歳)

元亀元年(1570年)の金ヶ崎の退き口と呼ばれる撤退では、秀吉は自ら殿軍の名乗りをあげたと言われている。

しかし、『武家雲箋』には、殿軍には秀吉より地位の高い摂津守護の池田勝正や明智光秀がいたことが記されているため、秀吉が殿軍の大将を務めたという説には疑問が残っている。また、戦後には信長に論功行賞で貢献を称えられ、黄金数十枚を与えられたという。

荒木村重謀反のとき(秀吉43歳)

天正7年(1579年)に信長家臣の有岡城主・荒木村重が反意を明らかにした時、秀吉は有岡城に出向いてこれを諭すも、村重はこれに応じなかった。そして、秀吉をもてなしていた最中、村重の家臣が秀吉殺害を村重に進言した。

しかし、村重はそれを制止して秀吉にそのことを伝えたという。すると秀吉はその村重家臣を勇士として褒め称え、呼び出して盃を交わした後、腰間の短刀を差替もなく贈呈した。
秀吉のその凛然とした勇気に手出しするものは一人もいなかったという。(『名将言行録』)

秀吉の家臣の扱い方

明智光秀の家臣・宮部加兵衛という者は最初、秀吉に仕えていた。
ある日、光秀が加兵衛に秀吉の家臣の扱い方を聞くと、秀吉のそれは他とそんなに違いはないが、少しの功績で想像以上の多くの褒美を与えるとのことであった。光秀はこれを聞いて舌を巻いたという。(『名将言行録』)

武田勝頼の死を惜しむ(秀吉46歳)

秀吉は天正10年(1582年)の甲州征伐で信長が甲斐武田氏を滅ぼしたとき、中国方面軍団の指揮官として中国攻めの最中であった。秀吉は武田勝頼の死を知ると、その死を繰り返し悔やんだという。

「わしが甲州征伐に従軍していたなら、勝頼を生かして甲斐・信濃の2国を与え、関東の先鋒に命じたならば、東国支配を推し進められたものを」と。(『名将言行録』)

天下統一事業の覇権争い(信長死後~)

中国大返しで宇喜多氏に一計(秀吉46歳)

信長が討たれた後の中国大返しのとき、秀吉は備前岡山の宇喜多氏の謀略を警戒し、事前に使者を派遣して「ともかくそちらへ行って弔い合戦の策を練る」と伝えさせた。
宇喜多はもともと光秀と心を通じていて、秀吉らの帰路を塞ごうかどうか迷っていたが、この報を聞いて城中で秀吉を討ち取ろうと企てた。

秀吉はまもなく岡山城へ着くことをいい触らしたが、仮病を装って時間を稼ぎ、その間に雑兵にまぎれて城を通り抜けたという。その後、岡山城を通りぬけた言い訳をし、宇喜多勢をあきれさせたという。(『名将言行録』)

柴田勝家の謀を見透かす(秀吉46歳)

信長の死後、織田家の後継者決めで秀吉と柴田勝家との間に不和が生じて権力闘争がはじまったが、まもなくして勝家から秀吉に和睦交渉を持ちかけられて和睦成立となった。
勝家は越前国を本拠としており、これは雪で身動きがとれなくなるために春まで時間稼ぎをしようという見せかけの和睦であった。

しかし、秀吉は最初からこれを見抜いており、和睦を反故にして出兵したという。(『名将言行録』)

あまりある食糧(秀吉46歳)

賤ヶ岳の戦いの前、秀吉は加藤清正に足軽30人を付け、金銀や米を集めさせて5万人ほどの兵糧と秣(まぐさ、馬や牛などの飼料にする草)を手にして兵士たちは十分に腹を満たすことができた。そして上下の者みなが言った。
「これほどまでに多くの食糧にありつけた軍陣ははじめてだ」と。

敵味方の区別なし(秀吉47歳)

天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いの最中、熱暑にあえぐ負傷兵に対し、農家から大量の菅笠を買って敵味方の区別なく被せて回ったという。(『賤ヶ岳合戦記』)

数万の徳川兵に臆せず(秀吉48歳)

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの後、上洛した徳川家康の下を近習一人をつれて密かに訪れ、数万の徳川兵の中で酒を交わしながら翌日の拝謁の打ち合わせをしたという。

秀吉、秀長を言い聞かせる(秀吉50歳)

戦わずして勝ちを得るのは、良将の成すところである。(『名将言行録』)

秀吉は家康を懐柔して従属させるため、天正14年(1586年)に母・大政所を家康の元に人質として向かわせることを決めたが、これをよく思わなかった弟の豊臣秀長がいさぎよく家康と戦うことを進言した。
この後、秀吉が秀長を言い聞かせた一節が冒頭の言葉。

豊臣政権下(関白宣下以後)

島津義久を圧倒(秀吉51歳)

天正15年(1587年)、九州征伐で降伏してきた島津義久に対し、義久が丸腰であるとみた秀吉は自らの佩刀を与えたという。義久は秀吉を討ち取る機会を得るも、そうすることはできず、そして、このことを伝え聞いた九州の者らはますます秀吉を恐れて従ったという。(『名将言行録』)

北野大茶湯にて(秀吉51歳)

茶の湯執心のものは、若党、町人、百姓以下によらず、釜一、つるべ一、のみ物一、茶はこがしにても苦しからず候。ひつさげ来たり然るべき事。

「茶の湯執心の者は若党や町人、百姓以下によらず、釜一つ、釣瓶水指一つ、湯呑み一つでもよい。抹茶のない者は、麦こがしでもかまわないから持参するべし」という意味。これは天正15年(1587年)の秀吉主催の京都・北野天満宮の境内で行なわれた茶会に際し、公布した触書の一つ。

刀狩り令(秀吉52歳)

百姓は農具さへもち 耕作もっぱらに仕候へば、子々孫々まで長久に候(『小早川家文書』)

「百姓というものは農具さえ持って耕作に専念すれば、子々孫々に至るまで末長く栄えるものだ」という意味。これは天正16年(1588年)の秀吉の刀狩り令の一節。

伊達政宗を怯ませる(秀吉54歳)

天正18年(1590年)の小田原征伐で遅参した伊達政宗 に佩刀を預けて石垣山の崖上で二人きりになったとき、政宗は秀吉の度量に気を呑まれて斬りつけることは出来なかったという。

銃弾がかすり・・(秀吉54歳)

弾にあたるもあたらぬも運のひとつじゃ(『名将言行録』)

小田原征伐で銃弾が秀吉の頭をかするほどに通って狼狽した。秀吉はこれを悔しく思い、一人で城のほうへ近づいてわざわざ鉄砲の激しい場所で小便をしたという。
これに近臣らが竹束をもって矢面に立ったときに秀吉が言った言葉。

インドのゴアの総督へ(秀吉55歳)

それ、わが朝は神国なり。神は心なり。森羅万象、一心に出ざるなし。

「そもそもわが日本国は神国である。神の道は万物の根源をなすものであり、仏道や儒道なども、その根本はみな神道である。」という意味。これは天正19年(1591年)に秀吉がインドのゴアの総督に送った国書の一節。キリスト教の布教の禁止を宣告するもの。

信長を批評

信長公は勇将であるが良将ではない。(『名将言行録』)

秀吉はこのように言い、続けてその理由(以下)を述べたという。

  • 剛を持って柔に勝つことを知っていたが、柔が剛を制することは死らなかった。
  • 敵対した者に対しては、いつまでも怒りを解かず、ことごとくその根を断ち、葉を枯らそうとした。
  • だから降伏する者をも誅殺した。これは器量が狭いためだ。人には敬遠され、衆から愛されることはない。

わしに勝つ者はいない

天下にはわしに背く者はあっても、わしに勝つ者はいない。(『名将言行録』)

これは秀吉が常に近臣たちにいっていた言葉という。

源頼朝よりも格上

わしの功は源頼朝よりも100倍も上なのじゃ。(『名将言行録』)

これは秀吉が家臣らと古今の人物を評論していたときに言った言葉。


辞世の句

露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢

「ひとしずくの"露"のようにこの世に生まれ、また、露のように儚く消え果てた我が身の上であった。大阪で過ごした日々も夢の中の夢のようだ。」といった意味。

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