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黒田官兵衛の名言・逸話まとめ

織田政権期

信長に謁見する(官兵衛28歳)

官兵衛がまだ播磨の御着城主・小寺政職に仕えていた頃、政職が家臣を集め、天下統一に近い織田・毛利・三好の三家のいずれに従属すべきかを聞いた。

このとき、官兵衛は織田信長が天下の権力を握ると力説し、一同はこれを聞いて同意した。そして、その使者に取り立てられて信長に謁見した。天正元年(1573年)のことという。(『名将言行録』)

頭部に瘡(かさ)

謀反を起こした荒木村重を説得するため、有岡城へ出向いたが逆に捕えられて長く幽閉されたことで、頭部に醜い瘡を患ったとされている。

良平

竹中半兵衛と並んで秀吉の機密談合の相手であり、頭の回転が早く、常識にとらわれずに驚くような策をたてたという。秀吉配下の者たちはこの2人を評して「良平だ」といったという(『名将言行録』)。

※良平とは、中国の前漢初期にかけての政治家・軍師「張良」と「陳平」の良と平の一字をとったもの。

秀吉に警戒されはじめる(官兵衛37歳)

さてさて天の加護を得させ給ひ、 もはや御心のままに成たり(『藩鑑』)

「天の加護を得て、天下はもはや(秀吉の)御心のままになる」といった意味で、これは天正10年(1582年)に本能寺で信長が討たれたという知らせをうけたとき、官兵衛が秀吉に対して発した言葉。

このとき、秀吉や官兵衛らは備中高松城の戦いの最中であった。

官兵衛は秀吉がまだ何も言葉に出さないうちに秀吉の側に進み寄り、笑いながら秀吉の膝を叩き、このような天下取りを勧める発言をしたという。
そしてこれ以後、秀吉は官兵衛に心を許さなくなったという。(『名将言行録』)

中国大返しの立役者(官兵衛37歳)

本能寺の変(1582年)を知った官兵衛はすぐに備中高松城の戦いを毛利氏と和睦する形で終わらせ、秀吉全軍を京都へ大移動させた。

このとき官兵衛はいち早く明智光秀を討つため、途中で中国攻めの拠点・姫路城への立ち寄りをしないよう秀吉へ進言し、その手筈を整えたことで姫路城へ寄ることなく明智討伐へ向かったという。

豊臣政権期

長宗我部元親の策を見抜く(官兵衛40歳)

天正13年(1585年)、秀吉による四国攻めの際、長宗我部元親は讃岐国の植田城に敵を誘いこみ、自らは阿波国に本陣を置いて挟み撃ちと夜戦をもって計画した。

豊臣軍は阿波・讃岐・伊予の3方向から侵略を計画し、讃岐国へは官兵衛・宇喜多秀家・仙石秀久の隊が上陸した。しかし、官兵衛は植田城を見分したあと、阿波国への攻撃を優先することを主張して転進した。
これを知った元親は、官兵衛に策を見破られたことを悟って悔しがったという。(『名将言行録』)

茶の湯を好きになったきっかけ

茶の湯が盛んであった秀吉の時代に、官兵衛はこれを嫌い「勇士の好むべきものではない。主客が無刀で狭い席に集まり座っており、きわめて無用心だ」と度々いっていた。

あるとき、秀吉が官兵衛を茶室に招いて合戦の密談をしたのち、「こういう密談が茶の湯の一徳なのだ。何でもない普通の日にそなたを招いて密談をすれば、人々は疑いを生じ、禍を招くことにもなる。ここならば例の茶の湯ということで人は疑いを生じることはない」と言った。

官兵衛は感服して「拙者は今日はじめて茶の味のすばらしさを飲み覚えました。名将が一途に物にのめり込むことなく心を配っておられる点は愚慮の及ばぬところです」といい、茶の湯を好むようになったという。(『名将言行録』)

大軍をも自在に操る将(官兵衛45歳)

天正18年(1590年)の小田原征伐のとき、秀吉は諸陣営をみてまわり、「今においてこのような大軍はみたことがない」と言うと、続けて中世の元弘の乱(のときの幕府軍の20万・100万とも伝わる大軍の話を引きあいに出し、「その頃は100万の軍勢を引きまわせるだけの良将もいただろうが、今に至ってはそのような者がいるとは思えぬ」と言った。

しばらくして、秀吉はまた言った。
「だが、もしこれを指揮してみる者があるとすれば・・・それは官兵衛だ。ほかには知らぬ。」と。(『名将言行録』)

秀次との対話

関白となった豊臣秀次との対話で、自身の器量がどのくらいかを問われた官兵衛は答えた。「上なら秀吉に仕え、自ら天下を取っている、下なら国持ち大名にはなっていない。だから中なのだ」と。

秀吉に恐れられる(官兵衛47~48歳頃)

ある日、秀吉は近臣たちに自分が死んだ後は誰が天下人になれるかを聞いた。
近臣らはいずれも豊臣政権の五大老(徳川家康や前田利家など)の名をあげたが、秀吉は官兵衛の名をあげ、畏怖の念を抱きながら官兵衛のことについて語り続けたという。

やがて官兵衛が剃髪して如水と号した文禄2年(1593年)頃、秀吉は言った。
「いまの世に恐ろしいのは徳川と黒田だ」と。そして「徳川は温和な人だが、黒田はどうも心を許しがたい」とも。(『名将言行録』)

家康の天下を予言する

秀吉の天下の治め方では二代は続かないことを論じ、次に家康の時代がやってくることを予言したという。(『名将言行録』)

命を惜しむな!

義にあたりて命を惜むべきにあらず(『黒田家譜』)

「義の旗を立て続けるため、命を惜しむべきでない」といった意味。"義"とは、儒教が説く五常の一つであり、人がなすべき正しい行いのことである。

大将は威厳が必要

大将たる人は、威厳というものがなくては、万人を押さえることができぬ。さりながら、悪く心得て、威張ってみせ、下を押さえ込もうとするのは、かえって大きな害である。(『黒田如水教諭』『名将言行録』)

倹約と金の使い道

  • 我れ人に媚ず、富貴を望まず(『黒田家譜』)

    「わしは人に媚びず、富や身分が高いことを望まない」といった意味。

  • 金銀を用いるべき事に用いなければ、石瓦と同じである。(『黒田家譜』)

    倹約家で無駄な出費をしなかった官兵衛。倹約で蓄えた金は困窮するものを救うため等に多く使ったといい、その出費の多さを家臣に諌められたときに言った言葉。

  • 総じて人には得手、不得手のあるものなり(『黒田家譜』)

    「人は誰にでも得意なこと、不得意なことがあるものだ」といった意味。

大切なのは神より主君、主君より家臣や民

神の罰より主君の罰おそるべし。主君の罰より臣下の罰おそるべし。そのゆえは神の罰は祈りてもまぬるべし。主君の罰は詫言して謝すべし。ただ臣下百姓にうとまれては必ず国を失う。ゆえに祈りても詫言してもその罰はまぬかれがたし。ゆえに神の罰、主君の罰より臣下万民の罰はもっとも恐れるべし。

神には祈り、主君には詫びて謝ればよいが、家臣や領民から疎まれたら取り返しがつかないから、家臣や領民を大切にするようにといった意味。これは如水が為政者として未経験の長政に不安を覚え、長政に対して発せられたとする言葉。

晩年

如水と凶相の馬(如水55歳)

慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦のとき、如水は九州で戦ったが、そのとき乗っていた馬は額に矢負という旋毛(つむじ)があった。
如水はこの馬を指し、「わしはこの凶相を知っておるが、人は万物の霊長だと聞く。人に勝る万物はない。わしが非道ならこれ(=非道)より大きな凶相はないだろうが、この馬の毛傷はそれほどのではない。」と言ったという。(『常山紀談』『名将言行録』)

重臣をののしる(如水59歳)

これはそちのためにしているのだ。乱心ではない。(『老人雑話』『名将言行録』)

如水が病気で死を目前にした30日ほど前から豹変して家臣をののしり始めたとき、子の長政に諌められた時に小声で言った言葉。
如水はさらに「わしが家臣達に嫌がられて、一日も早く筑前守殿(長政)の代になるとよいと思わせるためだ。」と言ったという。

死の間際、長政へ語る

  • 軍は死生の境なれば、 分別するほど大義の合戦は なりがたきものなり(『古談実録』『名将言行録』)

    「合戦は死ぬか生きるかの境目であるから、考えすぎると重要な大合戦はできない。」といった意味。これは如水が死の間際に子の長政に伝えた言葉。

辞世の句

おもひおく 言の葉なくて つひにゆく みちはまよわじ なるにまかせて


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