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石田三成の名言・逸話まとめ

豊臣政権下

禄の半分を分ける(三成27歳)

三成が四万石の水口城主になった翌年にあたる天正14年(1586年)、半分の二万石を島左近に与えて家臣としたという。この後、三成が佐和山城を賜って18万石となったときに左近に加増しようとしたが「もう禄は十分だから他の者に差し上げられよ」と断られたという。(『常山紀談』)

三成に過ぎたるもの

近江で「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と謡われたという。(『常山紀談』)

主君から与えられた銭

常に奉公人は、主君より取物を遣ひ合せて、残すべからず。残すは盗なり。つかひ過ごして借銭するは愚人なり(『老人雑話』)

「奉公人は主君より公のことに遣うようにといって与えられたものを全部使いきり、残してはならぬ。残すことは盗むのと同じだ。といっても遣い過ごしてそのために借金をするのは愚か者の行ないだ。」という意味。

秀吉の健康に対する気遣い

成るべく、季節のものをば進上ありたし(『翁草』)

「なるべく季節のものを進上してほしい。」という意味。
ある年に毛利輝元が大きな桃を太閤秀吉に献上しようといって三成に届けてきた。三成は季節はずれの果物を秀吉が食して病気になることを心配し、輝元の使者に冒頭の言葉を述べて、輝元に桃を返却したという。

関ヶ原の戦い(三成41歳)

春日九兵衛の進言を退ける

関ヶ原の戦いのとき、大垣にいた三成は春日九兵衛から、”叛意のある者がいるから陣所の配置を変えるべき”との進言を受けたが、これを受け入れなかったという。その結果、関ヶ原に敗れた。(『常山紀談』)

宇喜多秀家の献策を退ける

関ヶ原の戦いのとき、家康が岡山に着陣した様子をみた宇喜多秀家が夜討ちの意見をしたが、三成は「このような大軍での夜戦は不利だ」といって退けた。秀家は後々までこれを悔やんだという。(『常山紀談』)

生け捕りのいきさつ

関ヶ原で敗れた三成は、近江浅井郡に逃れ、再挙を計ろうとしていた。
土地の百姓の与次郎太夫に匿われて山中に潜んでいたが、逃亡途中で食べ物に窮して稲穂などを食べたために下痢をして起きることも不自由な身体だったという。
やがて与次郎太夫は、三成を匿っていることを名主に知られてしまい、田中吉政に差し出すように言われた。田中吉政は三成とは幼いころから親しい間柄であったという。
そして三成は天運の尽きたことを覚悟し、百姓の好意に感謝し、田中吉政のもとに連絡させたという。(『常山紀談』『慶長見聞書』)

このほかにも以下のような説がある。

  • 与次郎太夫の隣家の三郎左衛門が「徳川方の捜索が厳重なために、長く隠し切れるものではない。咎めを受けるよりも、早く訴え出た方がよい」とすすめた。三成もこれを察し、与次郎太夫に難儀がかからないよう、田中長吉のもとに訴え出させたという。(『関ヶ原軍記大成』)
  • 与次郎太夫の養子が三成のことを名主に訴え出たため、三成が生け捕りされた。(古橋村の言い伝え)
  • ある小雨の降る暗夜、江北にある田中吉政の宿所の前をこっそりと通り過ぎようとする不審な者がいたが、番所の者が捕えてみたところ、それが石田三成であった。(板坂卜斎の覚書)

田中吉政との対面

旧知の親しい間柄であった田中吉政と対面したとき、礼儀正しく言葉をかけられ、関ヶ原で敗戦して今に至るその境遇を慰められた。

これに対して三成は、"豊臣家のためにしたことだから、後悔はない" という旨の話をし、かつて秀吉から拝領した脇差を吉政に与えたという。(『常山紀談』『名将言行録』)

田中吉政は、三成に饗応役をつけて手厚くもてなしたが、三成は最初は食事に手をつけなかった。
しかし、饗応役から吉政の好意を説かれると、三成は素直に受け入れて韮雑炊を求め、これを快く食べて横たわり、高イビキをかいて寝たという。(『名将言行録』)

また、吉政は三成を3日間井ノ口村に留めて病気を療養させてから、家康に引渡すために三成を連れて出発ししたという。

小早川秀秋に対し・・

汝に二心あるを知らざりしは愚かなり。されど、義を捨て人を欺きて、裏切したるは、武将の恥辱、末の世までも語り伝へて笑うべし。(『常山紀談』)

「おまえに二心あることを知らなかったのは、この三成が愚かだった。だが、義を捨てて人を欺き、裏切ったことは武将としての恥辱であるから末の世まで語り伝えて笑うべきだ。」という意味。

これは関ヶ原合戦(1600年)で三成を裏切った小早川秀秋が、敗戦して東軍に捕えられた三成の様子を見物しにきたおり、秀秋に対して言った言葉。

家康と対面

家康は大津で三成を引見した後、「三成はさすがに大将の道を知るものだ。平宗盛などとは大いに異なる」と言ったという。(『常山紀談』)

本多正純に激怒

家康と対面した後、三成は本多正純に預けられて、挙兵したことや敗戦しても自害しないことを非難された。

これに三成は激怒し、武略を知らない正純をののしり、その後は一切口を聞かなかったという。(『名将言行録』ほか)

上様とは誰なのか?

処刑前の三成、小西行長、安国寺恵瓊の3人に、家康が小袖を与えた際に他の二人は受け取ったが、三成は「この小袖は誰からのものか」と聞き、「江戸の上様(家康)からだ」と言われると、「上様といえば秀頼公より他にいないはずだ。いつから家康が上様に成ったのか」と言って受け取らなかったという(『常山紀談』・『武功雑記』)。

最期まで生をあきらめず

大義とおもふものは、首をはねらるる期までも命を惜しむは、なにとぞ本意を達せんと思ふゆえなり。(『茗話記』)

「大義名分を思う者が首を刎ねられる最期まで命を惜しむのは、なんとかして本望を遂げようと思うからだ。」という意味。

関ヶ原合戦に敗れ、京都の処刑場に護送される途中、三成はのどの渇きに湯を所望した。しかし、湯がなかったために警護の者が干し柿ならあると伝えると、三成は痰の毒であるから不要だと断った。
すると、警護の者は「これから死ぬものがおかしなことを言う」と嘲笑ったという。この時に三成が述べた言葉。

敗れても誇りを持つ

われ、大軍を率い、天下わけ目の軍しけることは、天地やぶれざる間は、かくれあらじ、ちつとも心にはづる事はし。(『常山紀談』)

「大軍を率い、天下分け目の大合戦を行なったことは、天地がやぶれない限りは隠れない事実だ。少しも心に恥じることはない。」という意味。これは関ヶ原合戦の敗北後、捕えられて京都の六条河原に引き出された三成が語った言葉。

辞世の句

筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり


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