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「備中高松城の戦い」日本史上最も有名!?秀吉による水攻め
──天正10年4-6月(1582年)

月岡芳年『高松城水攻築堤の図』
現在の岡山県に位置する備中高松城を舞台に繰り広げられた、秀吉による水攻めで知られる「備中高松城攻め」とは?

合戦の背景と経過

群雄割拠の時代を制して近畿地方を平定した織田信長は、全国統一を進める次の一手として現在の中国地方一帯を治めていた毛利氏攻略にとりかかった。この時、毛利攻めの総大将をつとめていたのがのちに天下統一を成し遂げる羽柴秀吉である。

瀬戸内海側から中国地方に侵攻した秀吉は、天正10年3月(1582年)に宇喜多家の亀山城を味方につけ、総勢3万人の軍勢にすると、備中高松城に差し掛かったところで毛利軍の激しい抵抗に遭った。この時、毛利軍の先方をつとめていたのが備中高松城主清水宗治である。

宗治は毛利家の中でも屈指の智将であり、5千余りの兵で城に籠城した。一方、秀吉は圧倒的な兵数で周囲の砦を攻略しながら、4月には高松城を包囲。数回にわたって攻勢を仕掛けるも、宗治の激しい抵抗に苦戦を強いられていた。しかし、信長は秀吉に対して一日も早く攻略することを指示。そこで秀吉の軍師であり、旧知の仲でもある黒田官兵衛が水攻めを行うことを進言した。

水攻めとは、川などに囲まれた地域にある城において川の堤防を決壊させたり、逆に堤防を築くことで流路を変えたりすることによって城を水没させ、大軍で城を包囲することで単純な兵糧攻め以上に効率的に敵の士気を下げ、降伏させる策略の一つである。しかし、水攻めを行うにはそのような川の流路変更のための労力が膨大にかかるうえ、敵軍に発見されて妨害されるリスクが大きく、一般に行われることは少ない策でもある。しかし秀吉は現地の農民や築城に長けた建築者集団などを駆使し見事に水攻めを行うことに成功、備中高松城を水没させることに成功したのである。

しかし、毛利軍清水宗治は兵士の鼓舞もうまく、すぐには降伏をしなかった。そこで秀吉は水攻めに平行して、近畿にいた信長に援軍を要請する書状を送っており、その援軍の総大将に選ばれたのが明智光秀であった。だが、のちに光秀は援軍には向かわず、突然の謀反を起こし京都の本能寺へ向かったのであった。これがのちに言う本能寺の変であり、ここで信長は絶命する。

光秀は毛利軍に密書を送り、京都と中国地方から秀吉を挟撃することを提案しようとするが、密書を携えた伝令は誤って秀吉軍に捕らえられてしまい、同時に信長死去の知らせを織田家中の誰よりも先に知ることになる。

光秀の謀反と信長の死去の知らせを知った秀吉は即座に方針を転換し、まずは毛利軍との戦いを終わらせることを目指した。 一方、既に長く包囲戦を繰り広げていた備中高松城の兵士は疲弊しており、兵糧も枯渇していたため、毛利軍は秀吉に対して「備中、備後、美作、伯耆、出雲を割譲すること」を条件に「清水宗治以下すべての兵士の命を安堵した和睦」を提案していた。しかし秀吉はこれを拒絶し、「備中、備後、美作、伯耆および出雲の割譲」に加えて「清水宗治の切腹」を要求した。

毛利軍はこれに戸惑いを見せるも交渉を続けた。非常に家臣思いであることでも知られていた清水宗治は城の兵士の命を守るためこの提案を受諾。自らが切腹することと引き換えに城を明け渡し、家臣もろとも降伏する決断をした。
記録によると、宗治は水没した城から数人乗った小舟で城の外にやってきて、そこで自害することで自らの去就を明らかにしたとされている。辞世の歌は「浮世をば今こそ渡れ武士(もののふ)の名を高松の苔に残して」と詠まれたと伝えられている。

最終的には清水宗治、および重臣数人の切腹、および備中・美作・伯耆の三国の割譲と引き換えに和睦し、それぞれ人質を送りあうことで終結する。こうして秀吉は毛利軍との和睦を成功裏におさめ、謀反者の明智光秀を討伐すべく京都へ引き返すことを決めた。

戦後

本能寺の変において、信長だけでなく嫡男信忠も討ち取られたため、織田家の跡取りも不明確であった。名目上は主君信長の「敵討ち」であったが、事実上はその敵討ちを果たしたものが次に織田家の覇権を握るようなものであったのだ。
この時すでに信長の死の噂は広まっており、光秀討伐に動こうとする者もいたが、秀吉が近畿に戻る速さは尋常ではなかった。 これがのちに「中国大返し」と呼ばれる行軍である。

秀吉はいち早く軍を移動させるために備中付近で足軽たちに鎧や槍などのすべての装備を捨てるように指示し、身軽な状態で京都まで走らせた。そしてあらかじめ京都に近い道中に別の鎧や装備を準備させて戦場の直前で再装備させるという奇策を打ち出したのである。この作戦は功を奏し、光秀が十分な対策を講じる前に秀吉軍は近畿に到着。

光秀と秀吉は山崎で衝突し、秀吉は勝利し光秀は敗走(山崎の戦い)。光秀は戦場から逃れたものの、落ち武者狩りに遭って絶命。その首は秀吉のもとへ届けられて晒された。

これによって秀吉は実質的に畿内を平定し、天下統一への足場固めをしたのである。


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