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竹中半兵衛の名言・逸話まとめ

逸話・人物像

  • 半兵衛の容姿は痩身で女性のようであり、出陣するときも静かに馬に乗っているだけだったという。
  • 容姿が婦人のようであったことから、主君の斎藤龍興をはじめとする家臣らから侮られ、龍興の寵臣・斎藤飛騨守(さいとう ひだのかみ)にやぐらの上から馬鹿にされ、小便を顔にかけられたことがあった。
    数日後、飛騨守が龍興居室の宿直を務めていたとき、半兵衛は稲葉山城に詰めていた弟・重矩の看病のためと称し、武具を隠した数箱などをもって入城し、そして重矩の居室で武装して宿直部屋に居た飛騨守を斬殺して稲葉山城を乗っ取ったという。
  • 秀吉が半兵衛の功績に報いるため、加増を約束した書状を渡そうとしたが、「このような物は不用です。もし私の子が自身の不覚悟を忘れ、父にはここまで殿は懇意にされていたのに、なぜ私にはと恨みに思うようなことがあっては災いとなります」と言い、破り捨てたという。
  • 半兵衛はいつも貧相な馬を買い、それに乗馬していた。秀吉が「貴殿の身分でその貧相な馬はなかろう」と言うと、「名馬を買うと、いざ戦おうとする時にその名馬を他人に盗まれはしないかと惜しんで馬を下りられずに戦機を逃がすことになるから、馬は乗り捨てる覚悟なのでこれがいいのです」と言ったという。
  • 長篠の戦い(1575年)のとき、武田軍の一部が向かって左側に移動すると、秀吉は回りこまれるのではないかと焦ったが、半兵衛は織田勢の陣に穴を開けるための陽動ではないかと進言した。秀吉はこの進言に従わずに迎撃準備のために兵を動かしたが、半兵衛は反対して手勢と共に持ち場を動かなかった。
    まもなくして武田軍が元の位置に戻り、秀吉が不在の地点に攻め寄せてきたため、半兵衛が守っている間に秀吉もあわてて帰還したという。
  • 中国攻めの陣中で病死する際、秀吉は京で養生するように戒めたが、半兵衛は「陣中で死ぬこそ武士の本望」と断ったという。また、最後の策として、三木城兵糧攻めを秀吉に授け、別所長治を降伏させている。

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