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「前田利家」加賀百万石成立の軌跡!立身出世の秘密とは?

前田利家の肖像画
加賀100万石の礎を築き、加賀藩主前田氏の祖で知られる前田利家。信長と秀吉に仕え、織田政権時代は柴田勝家の与力として北陸方面の攻略を担当。信長死後の豊臣政権下においては、五大老の一人として太閤秀吉を支えた。

槍の又左!

利家は天文7年(1539年)、現代の名古屋市中川区に当たる尾張国海東群荒子村で前田利春の4男として誕生した。利家の幼名は前田犬千代。

父の前田利春は荒子前田家の当主で2千貫の土豪だったというが、実のところ確証はない。というのも利春以前の前田家の記録がほとんどないからである。前田家の出自については、以下の記事で取り扱っているのでここでは省略する。

 前田利家の家紋・家系図

さて、利家の幼少・青年期だが、13歳となった天文20年(1551年)頃に当時17歳の織田信長の小姓となって側仕えを始めたという。この頃はちょうど信長が家督を継承した時期にあたり、信長の快進撃と共に利家も頭角を現していくことになる。

まず、天文21年(1552年)には信長と清洲城主織田信友が争った萱津の戦いにおいて初陣を飾ると、元服前にもかかわらずに首級ひとつを挙げる功を立てたという。そして翌天文22年(1553年)頃に元服し、ここで名を前田又左衛門利家と称した。

ちなみに若い頃の利家は派手な格好をしたかぶき者で、血気盛んでキレやすい人物だったようだ。また、身長は180センチを超えていたといい、当時の男性の平均身長が160センチ足らずだったことを考えると、いかに大男だったかが分かるだろう。
それ以降も利家は戦場で次々と活躍していった。

弘治2年(1556年)稲生の戦いでのエピソードは特に有名。この戦いは信長と彼の弟である信勝との派閥における家督争いである。このとき利家は信長に味方し、戦場で目の下を矢で射ぬかれながらも矢が刺さったまま敵陣に飛び込み、自分を射た相手を討ち取ったといわれている。この勇猛な行為は味方の士気を高めることとなり、信長からも大いに称賛されることとなった。
さらに、永禄元年(1558年)には岩倉城の新城主となった織田信賢を攻めた浮野の戦いにも従軍し、武功を挙げている。

戦場で場数を踏んでいった利家は、槍の名手として知られるようになり、三間半もの長い槍を自在に操ったことから「槍の又左」と呼ばれるようになっていた。なお、同年には信長の親衛隊である赤母衣衆の指揮官にも抜擢されるなど順調に出世。 また、一方で小説やドラマなどでもおなじみ、利家の従妹「まつ(後の芳春院)」との結婚もこの年であり、公私にわたっての充実ぶりがうかがえる。ところが、この翌年には信長の怒りを買って追放の憂き目にあうことになる。

死罪の危機を乗り越え、前田の家督継承へ

順風満帆の出世街道を歩んでいた利家だが、永禄2年(1559年)にそれを台無しにしてしまう事件を自ら起こしてしまう。信長に同朋衆として仕えていた捨阿弥と争いを起こし、彼を斬殺してしまったのだ。

同朋衆とは主君のそばに仕えて能や庭園造りといった芸事に携わる者のことで、捨阿弥は信長のお気に入りだった。 捨阿弥はそのことを笠に着て、横柄な振る舞いが多かったという。利家に対しても、まつからもらった大事な刀を盗み出すなど目に余る行為が続き、堪忍袋の緒が切れた利家がついに行為に及んでしまったという。
いくら相手に非があるとは言え、主君の同朋衆を切り殺すのは大罪である。本来であれば利家は問答無用で死罪となるところだったが、信長の重臣であった森可成柴田勝家の助命嘆願によって死罪を免れ、その代わりに出仕停止処分を命じられた。

これによって利家は無収入となり、日々の生活にも窮するようになる。しかも、武勇を頼みとする利家は日頃から傲慢な振る舞いが多く、その人望のなさが災いして浪人となった利家を支援してくれる人間は少なかった。この時期、利家は大変な苦労をし、そのことによって "前田家の経理はすべて自分で行う" という倹約家としての一面が育まれていくことになる。また、利家はそろばんの愛用者としても知られ、その現物は前田家の家宝として残されている。ちなみに、当時のそろばんは中国から伝わったばかりの貴重なもので、この事実を見ても利家がいかに経理というものを重要視していたかが分かるだろう。

無断参戦で活躍

ともあれ、自ら招いた不祥事によって職を失った利家は独自に再就職活動を始める。その方法というのが、呼ばれてもいない戦場に無断で参戦し、信長に対して手柄のアピールをするというものだった。

その最初の無断参戦が、信長の戦いの中でももっとも有名と思われる、永禄3年(1560年)の"桶狭間の戦い" である。このとき利家は見事に敵の3つの首を挙げるものの、信長からの許しは得られなかった。それでも、利家はめげることなく翌年の森部の戦いにも参戦。利家は斉藤義龍軍と戦ったこの戦で猛将の足立六兵衛を討ち取り、その功が認められてようやく織田家帰参の許しを得ることになった。この不遇の時代の苦労により、利家の性格から傲慢さが消え、次第に律儀者との評価を得るようになったのはまさにケガの功名だと言えるだろう。

前田家を継ぐ

一方、桶狭間の戦いと同じ年に利家の父親・利春が死去。前田家の家督は長男である利久が継いでいたにもかかわらず、永禄12年(1569年)には信長から前田家の家督を継ぐように命じられた。実子がなく、病弱で軍役を十分に果たせない利久は、信長から「武者道少御無沙汰」の烙印を押されて前田家当主の座を追われることになったのである。
こうして、利家は将来の大大名としての第一歩を踏み出すことになる。

能登国主への道

尾張・美濃を平定し、すでに上洛も果たして幾内も掌握していた信長。だが、元亀元年4月(1570年)の越前攻めでは同盟を結んでいた北近江の浅井長政が裏切ったことで、命からがら退却するハメに。このとき信長は少数の家臣を率いて即座に退却をはじめるが、その警護を担当したのが利家であった。(金ヶ崎の退き口)

以後、信長包囲網が敷かれ、信長は合戦続きで苦戦を強いられるようになるが、一方で利家は次々と武功を重ねていくことになる。
続く同年6月の姉川の戦いでは、利家は浅井助七郎という武将を討ち取り、日本無双の槍と称えられることに。さらに続く9月の石山本願寺との間に起きた春日井堤の戦いでは、織田軍が敗走する中で踏みとどまって奮戦。そして、多くの敵を倒して自軍の退却を助ける武勲を立てたのである。このように、利家はこの年だけでもさまざまな手柄を立てて大いに勇名を馳せることとなった。

それ以降も、天正元年(1573年)には朝倉義景を滅ぼした一乗谷城の戦い、翌天正2年(1574年)には長島一向一揆との戦いに従軍。なお、この年は後の宇喜多秀家の正室として知られる利家の四女・豪姫が誕生しており、数え2歳の時に羽柴秀吉の養女となっている。

そして天正3年(1575年)、5月の長篠の戦いでは、武田軍との戦いで深手を負いながらも敵将の弓削左衛門の首級を挙げるという手柄を立てている。8月に織田軍は総力で越前一向一揆を殲滅したが、利家もこれに従軍。戦後は柴田勝家が越前国の8郡を与えられて北陸方面軍団の指揮官に任命され、利家・佐々成政・不破光治の3人(いわゆる府中三人衆)にも越前国の2郡(今南西と南条)が与えられた。

以後、利家ら府中三人衆は勝家の柴田勝家の与力として越後国の上杉氏と戦うなど、主に北陸方面の攻略に力を注ぐことに。とはいえ、播州討伐の一環である天正6-8年(1578-80年)の三木合戦や、信長に反旗を翻した荒木村重との戦いとなった天正7-8年(1579-80年)の有岡城の戦いにも参加している。

天正9年(1581年)には能登一国を与えられ、七尾城主となる。その後、七尾城を廃城して小丸山城を築城した。利家の禄高は23万石を数えるまでになり、傘下の兵数も5千超となっていたというから、一兵卒から身を起こしたことを考えると、これは驚異的な大出世だと言えるだろう。

だが、再び苦難が利家に襲いかかることに。天正10年(1582年)、武田をも滅ぼし、天下統一を目前にしていた信長が明智光秀の謀反によって非業の死を遂げたのである。(本能寺の変)

秀吉と勝家の板挟みに苦しんだ賤ヶ岳の決戦

本能寺の変が起きた時、利家ら北陸方面軍団は上杉景勝が治める越中で魚津城を攻略中だった。このため、信長の弔い合戦となった山城の戦いには参戦できず、その手柄は羽柴秀吉が独り占めすることとなる。そして織田の後継者決めのため、まもなく開催された清洲会議においても秀吉が主導権を握り、それまで織田家の筆頭家老と目されていた柴田勝家との対立は決定的なものとなった。

勝家の与力だった利家は、そのまま勝家陣営に組み込まれる形となって、織田家の覇権争いがはじまった。そして天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いでは、利家は5千の兵を率いて柴田軍と共に布陣していたが、戦闘の最中に突如撤退を開始。これを柴田軍の敗走と誤認した柴田陣営は次々と撤退を始めて総崩れとなり、敗北が決定的なものとなってしまった。利家が撤退行動をとった理由については諸説あり、旧友の秀吉と上司の勝家との板挟みで苦しんで耐えきれなかったというのが現代における有力な説である。

その後、利家は越前府中城に籠城。このとき勝家は北ノ庄城へ敗走する途中で利家の陣を訪ねたが、利家の裏切り行為に対して一言の文句も言わず、今までの労をねぎらってただ茶漬けを一杯だけ所望したというエピソードが残されている。結局、利家は秀吉に降伏して最終決戦の地となった北ノ庄城攻めでは先鋒を務める形となり、勝家は自害となって決着がついた。

戦後、利家は秀吉から領土を安堵されたばかりか加増までされて、本拠を小丸山城から加賀・尾山城(のちの金沢城)に移している。なお、その際に利家は家督を強奪する形になってしまった兄・利久とその養子・利益に対して7千石の領地を分け与えている。

豊臣政権を支え、やがて五大老へ

その後、利家は秀吉の腹心の武将として手腕を発揮していく。

天正12年(1584年)徳川家康織田信雄の連合軍と羽柴秀吉の間で広域の合戦となった小牧・長久手の戦いが勃発。その戦いのひとつである末森城の戦いでは、家康陣営の佐々成政が1万5千の兵で加賀・能登の国に侵攻をはじめるが、利家はわずか2千5百の兵でこれを撃退している。
やがて秀吉が徳川家康・織田信雄と和睦すると、翌天正13年(1585年)には10万の兵で秀吉軍が北陸に侵攻すると、佐々成政は降伏。(富山の役
利家はこの戦いの功績によって越中4群の内、3群が利家の嫡男である利長に与えられた。これによって前田家は90万国の大大名にとなったのである。

ちなみに同年、秀吉は四国平定も果たし、関白にも就任して事実上の豊臣政権を成立させている。そして天正14-15年(1586-87年)には九州征伐によって島津が降伏して九州平定となった。なお、このとき利家は幾内を守備している。また、九州平定後は秀吉が主催した北野大茶湯や後陽成天皇の聚楽第行幸に同席、さらに豊臣姓の下賜、参議への任命など、豊臣政権下で次々と地位を上昇させていったことがうかがえる。

天正18年(1590年)の小田原征伐では北国勢の総指揮として参戦し、利家は多くの城を落城させる活躍を見せた。さらに北条家が降伏し、秀吉が帰途についた同年8月以降は東北地方の鎮圧に務め、このことによって前田家は北陸だけではなく、東北でも強い影響力を持つようになったのである。

天下人となった秀吉は文禄元年(1592年)から朝鮮出兵を行なっている。
利家は同年3月に8千の兵を率いて九州の名護屋に向かった。当初、名護屋で秀吉が直接陣頭指揮を取っていたが、秀吉の母・大政所が危篤となったことで3カ月間大坂へと戻っていた。この間、代わりに名護屋で指揮をとっていたのが利家と徳川家康だった。この事実からも当時の利家が豊臣政権下において家康と双璧をなす存在だったことが分かるだろう。
文禄2年(1593年)の正月には利家にも渡海命令が出るが、その後、明との和平交渉が進み、彼自身が朝鮮に渡ることはなかった。

慶長3年(1598年)の4月、利家は高齢を理由に隠居を発表。しかし、その影響力の強さから隠居を許されず、家康らと共に政権の五大老に任命されている。そして、この年の8月には秀吉が病没し、天下は再び大きく動き出すことになる。

利家の最期 ──加賀百万石へ──

家康は伊達政宗福島正則といった有力大名と婚姻関係を築き、勢力の拡張を始める。大名同士の勝手な婚姻は秀吉の遺訓によって禁じられていたのだが、家康はそれを平然と踏みにじったのだ。

その傍若無人なふるまいに立ち向かっていったのが利家だった──。
彼は上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家ら五大老と加藤清正、浅野幸長、細川忠興らの武断派の諸将、さらには石田三成をはじめとする奉行衆たちを味方に引き入れ、家康と対抗。利家の人望の高さを見せつけられた家康は、今ことを構えるのは得策ではないと判断し、利家たち五大老と誓詞を交わして秀吉の遺訓を守ると約束をする。

こうして、豊臣家の危機は回避されたかのように思われた。しかし、皮肉なことにこの直後に利家は病で倒れてしまう。 自らの寿命を悟った利家は妻・まつに遺言を書かせると、慶長4年(1599年)の4月27日、この世を去った。

利家亡き後、家康を止められる者はなく、時代は徳川の世に向かって動き始める。その際、前田家も家康によって討伐される危機に瀕したものの、まつを人質にすることによってこれを回避したのだった。慶長5年(1600年)、関ヶ原合戦では前田家は徳川家に味方し、その功績によって領地は加増され、ここに加賀100万石が完成に至ることになる。

織田信長や豊臣秀吉といった英傑たちと共に歩んできた利家の人生は、その略歴だけを見ると順風満帆だったようにも思える。 しかし、実際は最後の最後まで波乱に満ちたものであったといえるだろう。


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