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蜂須賀正勝

蜂須賀正勝(はちすか まさかつ、1526-1586年)は信長・秀吉の家臣。通称は小六。

前半生は主君を転々としたが、信長に仕えた後は秀吉の与力として常に功をあげた。
秀吉による中国攻め(1577-82年)や四国攻め(1585年)の際には交渉等の取次も務めるなど、特に軍事・外交面でその手腕を大いに発揮した。

経歴

正勝は大永6年(1526年)に蜂須賀正利の長男として尾張国で誕生した。通称は小六。

蜂須賀氏の出自

蜂須賀氏は尾張国・海東郡蜂須賀郷の国人領主であり、正勝の祖は足利義兼の子孫といい、正勝の祖父・正成のころにはかろうじて家名をつなぐほどに勢力は衰えていたというが、定かではない。

祖父・正成には正忠・正利の2人の子があり、正忠はその子・政刻の代に三河国へ移って徳川家康に仕えたといい、これが蜂須賀氏の宗家といい、正利と正勝は分家にあたるという。

信長・秀吉に仕えるまで

正勝は天文22年(1553年)の父の死後は母の故郷・尾張丹羽郡宮後村に移住して犬山城主・織田信清に仕えたという。信清の不在中、何者かに犬山城が乗っ取られた際、正勝は謀略を進言して城を奪い返したといい、その戦いでは首級も上げる功をたてたという。
続いて岩倉城主・織田信賢に仕えたといい、その後は美濃国の斎藤道三に仕えたという。

弘治2年(1556年)に起きた道三とその嫡男・斎藤義龍が争った長良川の戦いでは、道三軍として首級を上げたという。

道三死後、やがて信長に仕えたとされ、永禄3年(1560年)の桶狭間合戦でも首を一つとる功をあげたとされる。

秀吉の与力として

永禄9年(1566年)、美濃攻めにおける墨俣城の普請を協力した国人衆の1人として活躍。墨俣城は秀吉がわずか数日の内に築いたとされる伝説の城である。
秀吉がこの城の守将となった後、正勝は秀吉の与力となり、斎藤氏を調略する案内役として活動した。

永禄11年(1568年)の信長と足利義昭の上洛後は、秀吉の代官として洛中の警備にあたっている。

永禄12年(1569年)の5月には、将軍となった義昭の仮御所・二条城で火災が起きた際に迅速に対応し、その功として将軍義昭から桐紋の羽織を与えられている。
また、同年の夏には伊勢攻略に従軍している。

のちに秀吉が桐紋(太閤桐)を用いるようになった際には、正勝は桐紋の使用を憚り、柏の丸紋に替えたという。

元亀元年(1570年)、信長が朝倉攻めを行なった際、同盟国の浅井長政が朝倉方に転じて挟み撃ちの危機にさらされたことで撤退を余儀なくされた。このとき秀吉軍が殿軍を務めたが、正勝はこれに属して任務を勇敢に務めている。

その後も同年の姉川の戦い、翌元亀2年(1571年)の近江・横山城の攻略、伊勢長島一向一揆攻めなどに秀吉に従って参戦している。

天正元年(1573年)の小谷城の戦いで秀吉とともに浅井長政を滅ぼした後、翌天正2年(1574年)に長浜城が築城されて秀吉がそこに移ると、正勝は秀吉から伊勢長島1000石、近江長浜領内600石を拝領したという。

天正5年(1577年)に秀吉が中国攻めを命じられると、天正6年(1578-80年)には三木合戦に従軍、

天正8年(1580年)頃には龍野城5万3千石を与えられ、城持ちの大名格にまで上り詰めた。

天正9年(1581年)の因幡鳥取城攻め、同年の淡路の平定にも貢献し、天正10年(1582年)には備中高松城の戦いにも参陣している。

備中高松城は沼地や湿地の中に築城された沼城で容易に攻略できる城ではなかった。このため、秀吉は堤防を作って水攻めを行なったが、正勝はその際の堤防の普請奉行に任命されている。

この戦いの最中に京で本能寺の変が勃発したが、このとき正勝は黒田官兵衛と共に毛利氏との交渉にあたるなどし、秀吉に従って中国大返しを成功に導き、明智光秀の討伐にも貢献した(山崎の戦い)。

その後、正勝は官兵衛と共に再び中国方面に赴き、毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊らと領国の境界線の交渉にあたっている。

信長死後

天正11年(1583年)には一旦毛利氏との交渉を中断し、秀吉が織田重臣の柴田勝家と戦った賤ヶ岳の戦いに従軍した。
また、同年には秀吉が大阪城の築城をはじめたが、正勝はこの普請に携わっている。

戦後に毛利氏との交渉を再開するものの、和睦条件を巡って難航しているうち、翌天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いが開始されたため、交渉は再び頓挫した。

この戦いで正勝は嫡男・家政とともに大阪城の留守居役を務めた。和泉国の岸和田城に根来衆、雑賀衆が侵攻してきた際には家政と黒田長政らが出陣して撃退しているが、このとき正勝は病床にあって出陣できなかったという。
しかし、その後は回復して出陣し、北伊勢・桑部城へ駐留している。

同年に娘の糸姫が黒田官兵衛の嫡男・黒田長政に嫁いでいる


天正13年(1585年)に入ると、正勝は従四位下・修理大夫に叙任された。

同年3月から行なわれた秀吉による紀州征伐では、これに従軍して太田城の水攻めに参加している。

続く6月の四国攻めでは、讃岐方面の目付として家政・黒田官兵衛らとともに進軍し、宇喜多秀家隊と合流して讃岐国屋島に上陸した。その後は阿波国に進んで羽柴秀長率いる本隊と合流すると、正勝らは得意の水攻めなどで次々を長宗我部軍の諸城を攻略して阿波国を平定した。

まもなくして長宗我部元親が降伏すると、正勝が仲介を務めて、のちに講和を成立させている。
また、戦後の論功恩賞として秀吉から阿波一国を与えられるも、これを辞退すると、嫡男・家政が父に代わって拝領した。

天正14年(1586年)には病のために京都で養生していたが、まもなく大阪城外の邸宅で死没した。

墓所

法名は福聚院殿前匠作四品良巌浄張大居士。

  • 徳島県徳島市の眉山町、および、同市下助任町の大雄山興源寺
  • 愛知県あま市蜂須賀の池鈴山蓮華寺

略年表

  • 1526年(大永6年)、蜂須賀正利の長男として誕生
  • 1553年(天文22年)、尾張国犬山城主・織田信清に仕えたという
  • 時期不明、尾張国岩倉城主・織田信賢に仕えたという
  • 1556年(弘治2年)、斎藤道三に仕えており、長良川の戦いで道三軍として首級を上げる
  • 1560年(永禄3年)、この頃は既に信長に仕え、桶狭間の戦いに参戦
  • 1566年(永禄9年)、美濃国での墨俣城の築城に協力し、秀吉がその守備頭となった際に与力に
  • 1568年(永禄11年)、秀吉の代官として洛中の警備を務める
  • 1570年(元亀元年)、金ヶ崎の戦いでは殿軍を務める。同年の姉川の戦いにも従軍
  • 1571年(元亀2年)、伊勢長島一向一揆攻めに従軍
  • 1573年(天正元年)、小谷城の戦いに従軍
  • 1574年(天正2年)、伊勢長島1000石、近江長浜領内600石を拝領する
  • 1578-80年(天正6-8年)、三木合戦に従軍
  • 1580年(天正8年)頃、龍野城5万3千石を拝領する
  • 1581年(天正9年)、因幡鳥取城攻めに参戦
  • 1582年(天正10年)、備中高松城攻めを経て、山崎の戦いに従軍
    黒田官兵衛とともに毛利氏との和睦条件を巡る交渉を開始
  • 1583年(天正11年)、賤ヶ岳の戦いに従軍
  • 1584年(天正12年)、小牧・長久手の戦いで大阪留守居役を務める
  • 1585年(天正13年)、従四位下・修理大夫に叙任。同年、紀州攻め、四国攻めに従軍
    四国攻めの講和交渉を務める
  • 1586年(天正14年)、大坂城外の邸宅にて死去。享年61


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