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5分でわかる豊臣秀吉の生涯

豊臣秀吉(とよとみ ひでよし、1537-1598年)は織田信長の家臣で戦国武将、大名、天下人、関白、太閤。三英傑の一人。信長に小者として仕え、次第に才能を発揮して頭角をあらわしていく。本能寺の変で信長が非業の死を遂げると、真っ先に謀反人・明智光秀を討伐し、その後、織田信長の天下統一事業を継承して、天下統一を成し遂げた。

身分の低かった秀吉。信長の元で頭角を現す!

父・木下弥右衛門と、なか(のちの大政所)の子として誕生するが、出自に関して明確なことは分かっていない。
侍になるために遠江国へ赴き、はじめは木下藤吉郎と名乗り、信長に仕えるまでは今川家臣・飯尾氏の配下の頭陀寺城主・松下之綱(加兵衛)に仕えたという。

織田信長に小者として仕えると、清洲城の石垣普請や薪奉行などで信長の関心を引くようになり、次第に織田家中で頭角を現していった。信長が足利義昭を連れて上洛する際、観音寺城の戦い(1568年)で功をあげ、上洛後には明智光秀や丹羽長秀らとともに京都の政務を任された。

その後、伊勢攻略における大河内城の戦い(1569年)に参戦し、続く浅井・朝倉との争いで、金ヶ崎の戦い(1570年)、姉川の戦い(1570年)、志賀の陣(1570年)、小谷城の戦い(1573年)等で出陣し、浅井氏滅亡後にはその旧領を拝領し、長浜城主となった。また、このころに木下から羽柴へ改姓し、羽柴秀吉と称した。秀吉は長浜で人材発掘に励み、旧浅井家臣団や石田三成などの有望な若者を積極的に登用していった。

中国攻めの指揮官にまで上り詰める

織田政権は引き続き、勢力を拡大していき、その中で秀吉も長篠の戦い(1575年)、越前一向一揆(1575年)、信貴山城の戦い(1577年)など、各地を転戦して功を重ねていった。

こうした中、以前、信長に敗れて毛利氏の庇護下に入っていた将軍・足利義昭が各地の大名を糾合して信長包囲網の再構築に向けて務めており、本願寺、甲斐・武田氏、越後・上杉氏、中国の毛利氏や宇喜多氏などが包囲網に参加。
中国攻め(1577-82年)の指揮官に命じられた秀吉は、播磨に入り、交流のあった小寺孝高(のちの黒田官兵衛)から姫路城をもらい受けて中国攻めの拠点として各地を転戦した。

第一次上月城の戦い(1577年)で毛利勢力圏の東方における事実上の最前線である上月城を陥落させて播磨を一旦は平定させた。しかし、翌1578年には別所長治、続いて荒木村重が離反し、三木合戦(1578-80年)、有岡城の戦い(1578-79年)での出兵を余儀なくされた。こうした背景から第二次上月城の戦い(1578年)では信長の命もあって援軍をだせなかったため、織田傘下の尼子氏は滅亡した。

荒木村重の離反の際、秀吉は村重と旧知の仲であった黒田官兵衛を説得の使者として有岡城へ向かわせたが、官兵衛は逆に有岡城に幽閉されている。

1579年(天正7年)には荒木村重を逃亡させて有岡城を陥落。さらに、毛利方であった備前国・美作国の宇喜多直家を服属させると、翌1580年には補給路を断たれた別所長治を三木の干殺しと呼ばれた秀吉の兵糧攻めで自害させた。
その後、再度播磨国を平定すると、続いて羽柴秀長隊に但馬国を攻略させ、守護山名氏を抑え、その統治を秀長に任せた。

鳥取城攻め(1581年)と淡路平定を経て、備前・備中に入り、備中高松城の戦い(1582年)では攻めあぐねたため、水攻めを決行。 その最中に信長が本能寺の変(1582年)で明智光秀に討たれた。



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