丁寧に歴史を追求した "正統派" 戦国Webマガジン

【超入門】5分でわかる豊臣秀吉

豊臣秀吉の肖像画
人心掌握術に長け、天下統一を成し遂げた秀吉の生涯とは?

身分の低かった秀吉。信長の元で頭角を現す!

父・木下弥右衛門と、なか(のちの大政所)の子として誕生するが、出自に関して明確なことは分かっていない。
侍になるために遠江国へ赴き、はじめは木下藤吉郎と名乗り、信長に仕えるまでは今川家臣・飯尾氏の配下の頭陀寺城主・松下之綱(加兵衛)に仕えたという。

織田信長に小者として仕えると、清洲城の石垣普請や薪奉行などで信長の関心を引くようになり、次第に織田家中で頭角を現していった。信長が足利義昭を連れて上洛する際、観音寺城の戦い(1568年)で功をあげ、上洛後には明智光秀丹羽長秀らとともに京都の政務を任された。

その後、伊勢攻略における大河内城の戦い(1569年)に参戦し、続く浅井・朝倉との争いで、金ヶ崎の戦い(1570年)、姉川の戦い(1570年)、志賀の陣(1570年)、小谷城の戦い(1573年)等で出陣し、浅井氏滅亡後にはその旧領を拝領し、長浜城主となった。また、このころに木下から羽柴へ改姓し、羽柴秀吉と称した。秀吉は長浜で人材発掘に励み、旧浅井家臣団や石田三成などの有望な若者を積極的に登用していった。

中国攻めの指揮官にまで上り詰める

織田政権は引き続き、勢力を拡大していき、その中で秀吉も長篠の戦い(1575年)、越前一向一揆(1575年)、信貴山城の戦い(1577年)など、各地を転戦して功を重ねていった。

こうした中、以前、信長に敗れて毛利氏の庇護下に入っていた将軍・足利義昭が各地の大名を糾合して信長包囲網の再構築に向けて務めており、本願寺、甲斐・武田氏、越後・上杉氏、中国の毛利氏や宇喜多氏などが包囲網に参加。
中国攻め(1577-82年)の指揮官に命じられた秀吉は、播磨に入り、交流のあった小寺孝高(のちの黒田官兵衛)から姫路城をもらい受けて中国攻めの拠点として各地を転戦した。

第一次上月城の戦い(1577年)で毛利勢力圏の東方における事実上の最前線である上月城を陥落させて播磨を一旦は平定させた。しかし、翌1578年には別所長治、続いて荒木村重が離反し、三木合戦(1578-80年)、有岡城の戦い(1578-79年)での出兵を余儀なくされた。こうした背景から第二次上月城の戦い(1578年)では信長の命もあって援軍をだせなかったため、織田傘下の尼子氏は滅亡した。

荒木村重の離反の際、秀吉は村重と旧知の仲であった黒田官兵衛を説得の使者として有岡城へ向かわせたが、官兵衛は逆に有岡城に幽閉されている。

1579年(天正7年)には荒木村重を逃亡させて有岡城を陥落。さらに、毛利方であった備前国・美作国の宇喜多直家を服属させると、翌1580年には補給路を断たれた別所長治を三木の干殺しと呼ばれた秀吉の兵糧攻めで自害させた。
その後、再度播磨国を平定すると、続いて羽柴秀長隊に但馬国を攻略させ、守護山名氏を抑え、その統治を秀長に任せた。

鳥取城攻め(1581年)と淡路平定を経て、備前・備中に入り、備中高松城の戦い(1582年)では攻めあぐねたため、水攻めを決行。 その最中に信長が本能寺の変(1582年)で明智光秀に討たれた。

本能寺の変後の各諸将の動き

1582年(天正10年6月2日)、山城国(京都)の本能寺の変の勃発当時、信長家臣団や同盟国の徳川軍はどこでなにをしていたのか?

  • 羽柴秀吉:備中高松城の戦いで毛利勢と交戦中
  • 徳川家康:堺を遊覧中
  • 柴田勝家魚津城の戦いで越中魚津城で上杉勢と交戦中
  • 滝川一益:上野厩橋城で北条勢を牽制
  • 丹羽長秀:大坂・堺で四国征伐に向けて準備中
  • 明智光秀:変の当事者であり、京都・本能寺で信長を討つ

信長軍団の中で信長の死を知っていち早く動いたのは秀吉であった。

秀吉は備中高松城の戦いで水攻めの最中であったが、本能寺の変の報を聞いてすぐさま清水宗治の命を条件に城兵を助命する講和を毛利輝元と結び、京都に軍を返した中国大返し

丹羽長秀は信孝とともに四国征伐の準備中で京に近い大坂・堺にいたため、光秀を討つのに最も有利な位置にあった。しかし、長秀らと別行動をとっていた四国派遣軍が信長の死を知ると、混乱のうちに四散して兵力が激減。大規模な軍事行動ができない長秀はやむをえず、秀吉軍の到着を待つこととなった。

家康は動揺して信長の後を追おうとするが、本多忠勝に説得されて思いとどまったという。このとき、家康の供は徳川四天王をはじめとする徳川家の重鎮など少人数であったために極めて危険な状態であった。家臣・服部半蔵の進言を受けて、伊賀国の険しい山道を越えて伊勢国から海路で三河国に辛うじて帰還した(神君伊賀越え)

柴田勝家は越中・魚津城で上杉勢と交戦中であったが、6月3日に魚津城を陥落させている。事件を知って6日の夜から全軍撤退して北ノ庄城へ戻るも、上杉側が変を知って失地回復のために越中・能登の国衆を扇動したため、すぐに京都に向かうことができないでいた。

そして、本能寺の変の当事者である光秀はすぐに信長・信忠父子の残党追捕を行い、さらに、安土城への入城と近江を抑えようとしたが、光秀の誘いを拒絶した瀬田城主の山岡景隆が瀬田橋と居城を焼いて甲賀郡に避難したため、仮橋の設置に3日間かかってしまった。その間、光秀は近江や美濃の国衆の誘降に費やしている。

6月5日には瀬田橋を復旧させて安土城を奪取、信長の残した金銀財宝を家臣や新しく従属した将兵に分与。さらに秀吉の本拠地・長浜城(滋賀県長浜市)や丹羽長秀の元本拠地・佐和山城(滋賀県彦根市)、山本山城(長浜市)なども占領した。光秀は7日まで安土城にいたという。

中国大返しの最中、秀吉にとって懸念材料は去就をためらっている中川清秀・高山右近ら摂津衆の動向であった。しかし、秀吉が大軍を率いて無傷で帰還したことで、一気に摂津衆の多くを味方にしたのであった。一方で光秀も新政権を整えるため、細川藤孝・忠興父子や筒井順慶、摂津衆などを味方に説得を試みたが失敗している。

信長の弔い合戦で光秀を討つ!(6月13日)

天正10年6月13日、中国大返しをした秀吉が摂津国と山城国の境に位置する山崎で光秀を討って勝利山崎の戦い
光秀は落ち延びる途中、小栗栖の藪(京都市伏見区)で土民の落ち武者狩りに遭い、そこで竹槍に刺されて絶命したという。

※このときの秀吉軍は池田恒興・丹羽長秀・中川清秀・高山右近・織田信孝・羽柴秀長・黒田孝高・蜂須賀正勝堀秀政など。

家康は明智光秀を討つため、軍勢を集めて尾張国鳴海まで進軍したが、羽柴秀吉によって光秀がすでに討たれたことを知ります。一方で勝家も上杉対策を前田利家佐々成政らに託し、やっと18日に近江に出動するも、光秀はすでに討たれていた。

信長の死によって武田旧領のバトルが開始!

関東方面の支配を任されていた滝川一益は、関東の北条氏政に信長の死を知られた後も、北条方から引き続き協調関係を継続する旨を受けていた。しかし、これは表面的に友好関係を維持していただけであり、氏政が深谷に軍勢を差し向けると一益もこれに呼応して軍勢を差し向けるなど、互いに不信感は増幅していった。

神流川の戦い(6月16~19日)

そして数日後には明白に対立関係となって武蔵国児玉郡上里町周辺で衝突となった。北条軍は滝川軍の3倍の兵力で大勝し、一益は尾張までの敗走を余儀なくされた(神流川の戦い)

一方、織田氏の領国となっていた甲斐・信濃では大量の一揆が起こり、河尻秀隆が甲斐と信濃国・諏訪郡支配を担っていたが一揆勢に敗れて戦死。そうした中、上杉氏・北条氏は旧武田領への侵攻の気配を見せる。
また、滝川一益が上野国と信濃国小県郡・佐久郡の支配を担っていたが、武田遺臣による一揆が相次いで勃発し、滝川配下の信濃の森長可と毛利秀頼は領地を捨てて畿内へ敗走となった。

天正壬午の乱(6月~10月29日)

こうして甲斐・信濃・上野の武田旧領は空白地帯となり、天正壬午の乱と呼ばれる争奪戦が起こった。 徳川氏・北条氏・上杉氏、さらに真田昌幸などの武田遺臣や地元の国人衆らが勢力拡大を画策。

最終的に徳川軍と北条軍の対決となり、両者の和睦で終結した。おおまかに甲斐国・信濃国は徳川領、上野国は北条領といった具合であった。

こうして織田家は甲斐・信濃・上野を一挙に失うことになった。

清洲会議(6月27日)

一方、天正壬午の乱が始まった頃に織田家では、信長の後継者と遺領の分割を決定するために清洲城にて会議が開いた(清洲会議)
集まった織田家家臣は柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人。滝川一益は天正壬午の乱に巻き込まれて敗走中であったために参加できずにいた。

後継者問題では信長三男・織田信孝を擁立する柴田勝家と、信長の嫡孫にあたる信忠の嫡男・三法師を擁立する秀吉とで意見が対立するも、以下の要因により三法師が後継者として決定。

  • 血統的な正統性は信孝よりも三法師のほうが高かった
  • 丹羽長秀・池田恒興は秀吉を支持
  • 秀吉が妥協案として織田信孝を三法師の後見人とすることを提示
  • 秀吉は光秀討伐の実績があった

この会議で、織田家筆頭家老としての勝家の影響力は低下。さらに、信長の遺領分割では明智光秀の旧領が秀吉に与えられたことで領地でも秀吉に劣ることとなり、勝家と秀吉の立場は逆転となったのである。

清洲会議の終了後、勢力を増した秀吉と勝家など他の織田家重臣との権力抗争が開始される。

秀吉は周囲の勢力を掌握しようと調略を行っていき、これに勝家は滝川一益や織田信孝を味方につけて対抗。秀吉は10月には京都で信長の葬儀を行なうなどして信長の後継者が自分であることをPRした。
さらに秀吉は年末に、越前にいる勝家が雪で動けないのを機とし、信孝が三法師を安土に戻さないことを大義名分として挙兵。柴田勝家の養子・柴田勝豊が守る長浜城を包囲し、調略をして長浜城ごと寝返らせた。

賊ヶ岳の戦い

1583年(天正10年12月)になると、秀吉は美濃に侵攻して稲葉一鉄らの降伏や織田信雄軍の合流などもあってさらに兵力を増強させた。岐阜城に孤立した信孝は降伏。

天正11年1月、伊勢の滝川一益は秀吉に対して挙兵、これに対し、秀吉も2月に北伊勢に侵攻し、戦いは激化。
そして3月にはいり、ついに勝家が前田利家、佐久間盛政ら3万の軍勢を率いて挙兵し、近江国で秀吉軍と対峙

4月になると、秀吉に降伏していた柴田勝豊の家臣・山路正国の寝返り、そして、織田信孝が岐阜で再挙兵したことで、秀吉は近江、伊勢、美濃の3方面作戦を強いられ、美濃に進軍。
秀吉軍が近江から離れたのを機に勝家の重臣・佐久間盛政の奇襲で大岩山砦の中川清秀を討ち取り、情勢は勝家方が優勢になりつつあった。しかし、盛政は勝家から撤退命令がだされるも、これを拒否して前線に軍勢を置き続けた。
その間に丹羽長秀の軍が戦地に合流すると戦局が一変、さらに、美濃から迅速に引き返してきた秀吉軍の反撃(美濃大返し)と、前田利家の裏切りが発生し、柴田軍は大敗。勝家は越前に撤退した。
その後、前田利家を先鋒とする秀吉軍に包囲され、夫人のお市の方らとともに勝家は自害(賊ヶ岳の戦い)

佐久間盛政は逃亡するものの黒田孝高の手勢に捕らえられ、のちに斬首。

美濃方面の織田信孝は秀吉に与した兄・織田信雄に岐阜城を包囲されて降伏、尾張国内海に移されたのち、信雄の使者から切腹を命じられて自害。

伊勢方面の滝川一益はさらに1か月篭城し続けたのちに開城、出家して、丹羽長秀の元、越前大野に蟄居

秀吉はこうして反対勢力を一掃し、織田家の家臣ナンバー1の地位を確立。三法師を傀儡として実質的に織田家中を掌握することになったのである。

賤ヶ岳の戦いで自害した織田信孝の代わりに、信長の次男・織田信雄が三法師の後見につき、安土城へ入城。しかし、秀吉はすぐに信雄を退去させたことから秀吉と信雄との関係が険悪化。
この信雄は清洲会議の際には織田家の後継者になろうと画策していた。そして、信雄は秀吉に対抗するため、妹・徳姫の縁もあって家康に接近して同盟関係を結んだ。

小牧・長久手の戦い

1584年(天正12年)、秀吉は信雄家臣の津川義冬、岡田重孝、浅井長時(田宮丸)の三家老を懐柔し傘下に組み込もうとするが、信雄は秀吉と内通したとしてこの三家老を処刑。これに激怒した秀吉は信雄に対して出兵を決断。 こうして秀吉 vs 信雄・家康連合の戦い(小牧・長久手の戦い)が勃発。

戦いは小牧山城を占拠、長久手では池田恒興・森長可を討ち取るなど尾張国では家康軍が優勢だったものの、伊勢では秀吉軍の侵攻をうけた信雄が家康に無断で講和してしまいます。そして、家康は大義名分を失い、戦いは幕を閉じた。

同年、秀吉は従三位権大納言に叙任され、公卿となる。

豊臣政権の誕生

1585年(天正13年)にはいると、秀吉は3月から4月にかけて紀州征伐を行ない、雑賀衆、根来衆の反抗をねじ伏せて紀伊国を平定。
さらにその後、四国をほぼ統一していた長宗我部元親に対して挙兵、わずか数か月で長宗我部氏を降伏させ、7月には四国を平定(四国攻め)
この四国攻めの最中にかねてから朝廷で紛糾していた関白職を巡る争い(関白相論)に介入、近衛前久の猶子となって関白宣下を受けた。ここに実質上、豊臣政権が誕生となったのである。

8月には越中国の佐々成政の討伐討伐を開始富山の役、佐々成政を降伏させている。こうして紀伊・四国・越中を平定。次の狙いは九州であった。

関白となった秀吉は各地で検地を実施、また、朝廷権威をもって九州地区での私闘禁止令をだした。
これに大友氏は受け入れるが、島津氏はこのとき、九州攻略を優勢に進めており、これを拒否した。

関白宣下を受け、ついに事実上の豊臣政権を樹立した秀吉。

1586年(天正14年)、秀吉は徳川家康を懐柔し、上洛させて臣下にと試みていた。なかなか従わない家康に対し、秀吉は人質という手段を選択する。

同年4月23日には実妹・朝日姫(南明院)を家康の正室として差し出し、5月14日に家康はこれを迎え入れた。 しかし、それでも上洛しない家康に対し、10月18日には生母・大政所を朝日姫の見舞いの名目で家康のもとへ送ると、さすがの家康も上洛を拒む手はなく、上洛して秀吉に臣従せざるを得なくなるのであった。

同年、越後国の上杉景勝も上洛して秀吉と会見し、養子の畠山義真(当時は上杉姓)を人質として差し出して臣従している。なお、このとき石田三成と直江兼続が結びつけたとされている。

この年、秀吉は正親町天皇から豊臣の姓を賜り、さらに太政大臣に就任。

九州征伐

一方、九州では3月に島津氏が秀吉から占領地の過半を大友氏に返還する国分案を提示されるが、大友氏への攻撃を再開して九州統一戦を進めていった。こうした中、秀吉は4月に毛利輝元に対し、九州攻めのための人員・城郭・兵糧などの準備を指示。

筑前国での戦い

秀吉の到着前に九州統一を成し遂げたい島津軍が6月に大友領の筑前国への侵攻を開始した。

7月、島津軍が大友氏の家臣・高橋紹運が籠る岩屋城を陥落させると岩屋城の戦い、8月には大友家配下の立花家当主・立花宗茂が守る立花山城に進軍してこれを包囲した。
しかし、豊臣秀吉の援軍である毛利輝元が安芸国より、小早川隆景が伊予国より、吉川元春が出雲国よりそれぞれ出陣し、豊前国・小倉城まで進軍、せまってきていたため、島津軍は撤退。この直後、宗茂は高鳥居城を奪取、8月末までには援軍とも連携して島津軍を追い、岩屋城、宝満山城を奪還した(立花山城の戦い)

豊前・豊後国での戦い

9月、秀吉の命によって十河・長宗我部の両氏も豊後に出陣して大友氏と合流。また、このころの秀吉陣営は、豊前国の花尾城・広津城・時枝城・宇佐城、そして、筑前国の龍ヶ岳城を支配下に入れていった。

10月になってこのころの秀吉陣営は豊前国の小倉城・馬ヶ岳城・浅川城、そして、筑前国の剣ヶ岳城を支配下に入れた。 また、島津氏当主・島津義久は東九州に進軍して大友宗麟の本国である豊後を直接攻めることで雌雄を決する方針に転じた。

1587年(天正14年12月)には、豊前のほとんどが秀吉陣営の支配下となる。さらに、このころ、秀吉は諸国に対して自らも島津討伐に加わることを伝え、畿内および北陸道・東山道・東海道・山陰道・山陽道などの約37か国に対して、計20万の兵を大坂に集めるように通達。

同年12月12日、豊後国・戸次川(へつぎがわ)にて島津軍と秀吉軍の長宗我部元親・信親父子、仙石秀久大友義統十河存保らが激突。豊臣勢は大敗。大友義統は島津氏の勢威を恐れて豊前に逃亡、豊後の西部及び中央部はほぼ島津氏の占領下に入った。戸次川の戦い

秀吉自ら出陣、そして、九州平定へ

同年(天正15年3月)にはついに秀吉自らが出陣。肥後方面軍は秀吉自身が、日向方面軍は豊臣秀長が率い、兵は合わせて20万を数えるほどの大軍であった。圧倒的な兵力差を悟った義久は戦線の縮小を図り、一部占領していた豊後国から完全に撤退。

4月、日向国にて、日向高城の戦い、および、それにつづく根白坂の戦いの敗北によって島津氏の組織的抵抗は最後となり、義久は降伏。

こうして九州全域をほぼ支配しつつあった島津氏を屈服させ、秀吉は西国を完全に豊臣氏の支配下に収めたのである。

天下取りへ向け、各種法令を次々と発布

残されたエリアは関東と奥羽。秀吉は残りエリアを侵攻する大義名分を得るため、同年末に豊臣政権より関東・奥羽(陸奥国・出羽国)の惣無事令(私闘を禁じた法令)を出し、家康に監視をさせた。この後、東国を除いて全国統一をほぼ成し遂げた秀吉は内政に関する規制を次々と発布していく。

バテレン追放令

同年、九州平定後、九州において強制的なキリスト教への改宗や神社仏閣の破壊などといった神道・仏教への迫害や、ポルトガル人による日本人の奴隷売買などが行われていたことが秀吉に発覚。
これにより、秀吉はイエズス会の布教責任者ガスパール・コエリョを呼び出し、問い詰めた上で博多でバテレン追放令(キリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁制文書)を発布、これらの行為を禁止した。

元々秀吉は信長の政策を継承し、キリスト教布教を容認していた。この法令は個人が自分の意思でキリスト教を信仰することは規制しておらず、下層の民については自由であることを定め、建前としては信仰の自由を保障するものであった。また、一定の領地を持つ大名についても秀吉の許可があればよしとした。

その他、布教に関係しない外国人商人の渡来に関しても規制しておらず、また、この機に乗じて宣教師に危害を加えたものは処罰するとしている。

この年、関白になった豊臣秀吉の政庁兼邸宅として前年から着工していた聚楽第が完成。 九州征伐を終えた秀吉は大坂より移り、ここで政務をとった。翌1588年には後陽成天皇の行幸を迎えてこれを饗応。また、天正少年使節や徳川家康の謁見もここで行われた。

海賊禁止令・刀狩令

1588年(天正16年)、秀吉はこの年、刀狩令と海賊禁止令を同時に発布。

刀狩令は兵農分離を徹底して下剋上の再発を防ぐのが目的であり、海賊禁止令は海賊衆(水軍)に対して、以下のいずれかを迫るものであった。

  • 豊臣政権体制の大名となる
  • 特定の大名の家臣団となる
  • 武装放棄して百姓となる

1589年(天正17年)、側室の淀殿との間に鶴松が産まれ、後継者に指名。

秀吉、ついに誰も果たせなかった天下人に。

1590年(天正18年)、ついに秀吉は関東へ遠征、後北条氏の本拠小田原城を包囲。 後北条氏の支城は豊臣軍に次々と攻略していき、秀吉は黒田官兵衛と織田信雄の家臣・滝川雄利を使者として遣わし、これに北条氏政・氏直父子はついに降伏、小田原城を3か月の篭城戦の後に開城させた(小田原征伐)

北条氏政・北条氏照は切腹し、氏直は紀伊の高野山に追放となった。

北条氏を滅ぼした秀吉は、最後に東北地方に対する領土仕置を実施奥州仕置(おうしゅうしおき))

この時点で伊達氏は奥羽に150万石近い大領国を築いていたが、当主・伊達政宗が小田原征伐の際に遅参したことに加え、秀吉が1587年に発布した惣無事令にも違反していたことから会津郡、岩瀬郡、安積郡は没収され、陸奥出羽のうち13郡、およそ、72万石に減封された。

この奥州仕置によって、ついに秀吉の天下統一事業が完成されたのである。

誰も成し遂げられなかった全国統一を果たした豊臣秀吉。

1591年、東北の南部氏では後継者争いのもつれで九戸政実の乱が勃発した。

南部家内では1582年(天正10年)に当主・南部晴政が没したことで後継者争いが発生しており、その後、南部信直が当主になるものの、九戸政実(くのへ まさざね)は遺恨を抱き、南部家中は不穏な状態であった。

そうした中での政実の挙兵であった。もともと南部一族の精鋭であった九戸勢に信直は苦戦。そして、信直は自力での討伐を諦めて秀吉に援軍を要請した。
秀吉は九戸征伐以外にも大規模な奥州での一揆鎮圧という目的もあったため、奥州再仕置軍を編成した。豊臣秀次を総大将とした九戸討伐軍が奥州への進軍を開始し、政実らが籠城する九戸城を包囲。そして、九戸政実は降伏を余儀なくされ、処刑という形で乱は終結となった。

一方で秀吉はこの年に後継者に指名していた嫡男・鶴松を病死で失った。このため、甥・羽柴秀次を家督相続の養子として関白職を彼に譲り、太閤(=前関白の尊称)と呼ばれるようになる。
ただし、秀吉は全権を譲らずに実権を握り続け、二元政を敷いた。

朝鮮出兵(文禄の役)

1592年(文禄元年)、豊臣政権は朝鮮出兵を開始。

秀吉は来春に「唐入り」を決行することを全国に布告し、まず、肥前国に出兵拠点となる名護屋城を築き始め、同年3月には明の征服と朝鮮の服属を目指して宇喜多秀家を元帥とする16万もの軍勢を朝鮮に出兵。

初期は日本軍が朝鮮軍を撃破し、漢城や平壌などを占領するなど圧倒していたが、各地の義兵による抵抗や明の援軍が到着したことによって戦況は膠着状態となっていくと、翌1593年(文禄2年)には明との間で講和交渉が開始された。

一方で国内では側室の淀君との間に子(のちの豊臣秀頼)が誕生し、秀吉は京都の伏見城に母子を伴って移り住むこととなる。

秀吉は伏見城に来て、日本を5つに分け、その4つを秀次、残り1つを秀頼に譲ると言ったという(『言経卿記』)。

1595年(文禄4年)には突然、関白秀次に謀反の疑いが持ち上がり、関白が切腹でこの世を去るという一大事件が発生した。この謀反の嫌疑や切腹の真相などは諸説ある。

1596年(文禄5年)、明との間の講和交渉が決裂。
明との講和交渉は日本と明双方の講和担当者が穏便に講和を行うために、秀吉は「明が降伏」、明朝廷は「日本が降伏」という、それぞれが偽りの報告を受けていた。
文禄同年9月、秀吉は来朝した明使節と謁見。自分の要求が全く受け入れられていないのを知って激怒。使者を追い返して朝鮮への再度出兵を決定。

一方で、10月には土佐国にスペイン船が漂着。奉行・増田長盛らは船員たちに「スペイン人たちは海賊であり、ペルー、メキシコ(ノビスパニア)、フィリピンを武力制圧したように日本でもそれを行うため、測量に来たに違いない。このことは都にいる三名のポルトガル人ほか数名に聞いた」という秀吉の書状を告げた。サン=フェリペ号事件
12月8日、この事件の影響により、秀吉は再び禁教令を公布。

朝鮮出兵(慶長の役)

1597年(慶長2年)、秀吉は朝鮮半島へ再出兵(慶長の役)。

一方で、秀吉はイエズス会の後に来日したフランシスコ会(アルカンタラ派)の活発な宣教活動が禁教令に対して挑発的であると考え、京都と大坂に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛して処刑するよう、京都奉行の石田三成に命じた。
三成はパウロ三木を含むイエズス会関係者を釈放しようとしたが果たせなかった。
最終的に日本人20名、スペイン人4名、メキシコ人、ポルトガル人各1名の26人(日本二十六聖人)が長崎で処刑された。

太閤秀吉の最後

1598年(慶長3年3月15日)、秀吉は豊臣秀頼・北政所・淀殿ら近親の者を初め、諸大名からその配下の女房女中衆約1300人を招いて盛大な花見を催した(醍醐の花見)

その後、秀吉は徐々に病に伏せるようになっていくが、子の秀頼が心残りであった。
5月には徳川家康・前田利家・前田利長・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元ら五大老、及びその嫡男らと五奉行のうちの前田玄以長束正家に宛てた十一箇条からなる遺言書を出し、これを受けた彼らは起請文を書いてそれに血判を付けて返答した。

秀吉は自身を八幡神として神格化することや遺体を焼かずに埋葬することなどを遺言した。

7月4日には居城・伏見城に徳川家康、他の諸大名を呼び、家康に対して秀頼の後見人になるように依頼。そして、8月5日、五大老宛てに二度目の遺言書を記したが、これが最後の遺言となって8月18日、秀吉は没した。享年62。

秀吉の死後、豊臣氏は秀吉の嫡男である秀頼が継ぐも、わずか6歳だったため、豊臣氏内部では加藤清正福島正則ら武功派と石田三成や小西行長ら文治派の対立が表面化し、豊臣家臣団は分裂していくことになる。


 PAGE TOP