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「豊臣秀長」豊臣政権No.2となった秀吉の信頼厚き異母弟

豊臣秀長の肖像画
秀吉の異父弟で知られる豊臣秀長、信長家臣時代の秀吉が中国攻めの指揮官となった際には主に但馬方面の支配をまかされ、但馬平定に大きく貢献している。信長死後は秀吉の天下統一過程における重要な戦いで功を重ねていき、秀吉からの信頼は絶大だった。彼は豊臣政権内においての序列はナンバー2である。

不明な前半生

天文10年(1541年)羽柴秀吉の異父弟(一説に同父弟とも)として尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に誕生した。初名は "長秀"。

秀長はいつ頃に信長や秀吉に仕えたのかよくわかっていないが、確かな史料による初見は『信長公記』による天正2年(1574年)の伊勢長島一向一揆の殲滅戦である。このとき兄の秀吉は越前一向一揆の抑えとして越前に残っていたため、秀長は秀吉の代理として丹羽長秀ら先陣の中に一緒に名を連ねている。

秀吉に付き従って各地を転戦

その後、信長勢力が拡大するにつれて信長方面軍団が形成されていき、天正5年(1577年)から兄秀吉が中国攻めの指揮官に任命された。秀長は秀吉に付き従って播磨国へ赴いたが、同年11月頃には秀吉と別行動をとって但馬攻めを行ない、竹田城を陥落させている。その後は竹田城の城代を任されることになったという。

天正6-8年(1578-80年)に播磨の別所長治の謀反の際には援軍として三木城に赴いている(三木合戦)。そうした中、翌天正7年(1579年)には信長の命により、秀長は丹波・黒井城を攻める明智光秀の援軍に向かい、これを攻略している(第二次黒井城の戦い)。

天正8年(1580年)には三木城が陥落してようやく三木合戦が終結すると、秀長は支配が後退していた但馬国へ再び攻め入り、山名氏の但馬出石城・有子山城を落城させて但馬を平定。戦後に出石城主となった。

天正9年(1581年)には毛利氏の因幡鳥取城を攻め、兵糧攻めでの包囲軍として参加している。

豊臣政権下で重鎮へと成長していく。

天正10年(1582年)には本能寺の変が勃発。このとき秀吉とともに備中高松城の戦いに従事していたが、信長の死の報が入ると秀吉に従って明智光秀討伐に向かい、戦功をあげている(山崎の戦い)。
なお、同年の大徳寺での信長の葬儀にあたっては、警護にあたり、対立していた織田重臣の柴田勝家ら反秀吉勢力の動きを牽制したという。翌天正11年(1583年)には織田家の覇権を賭けて秀吉派と勝家派が激突。この、織田家の覇権を賭けた賤ヶ岳の戦いで秀吉が勝利して天下人への道を歩みはじめるのは周知のとおりである。当然のごとく、秀長もこの重要な一戦に参加し、戦後には播磨・但馬2か国の守護としてその多くを拝領し、姫路城を居城とした。

天正12年(1584年)、秀吉が織田信雄と不和になったことにより、今度は信雄を支援する徳川家康小牧・長久手の戦いで激突。このとき秀長は7千の兵を率いて伊勢に侵攻して信雄を監視、戦後には信雄との講和交渉で秀吉の名代として直接交渉に赴いている。

天正13年(1585年)の紀州征伐では秀吉の副将を務め、その功により、和泉国・紀伊国64万石を拝領している。
続く同年6月からの四国攻めにおいては、秀吉に代わってついに秀長が総大将に、そして甥の秀次が副将に命じられた。秀長本隊は両陣営の主力が集まった阿波国へ渡海し、秀次隊や先鋒の黒田官兵衛蜂須賀正勝らと合流。わずか2ヶ月ほどで長宗我部元親を降伏させると、その功により戦後に大和国を加増された。

そして9月には秀吉とともに大和国・郡山城に入城し、大和・紀伊の支配拠点としているが、これは郡山城が大阪を守る要衝であったことなどから、秀吉がかつての領主・筒井定次を転封してまで親類の秀長に任せたということであった。また、同年には和歌山城の築城を開始しており、築城の名手として名高い藤堂高虎にその普請奉行を命じている。

天正14年(1586年)の3月に日本イエズス会のガスパル・コエリョ一行が秀吉の元を訪れた際、秀吉は「全国統一後はこれを弟の秀長に譲り、自らは朝鮮・中国の征服に専念したい」といった旨の話をしたという。なお、同年11月に秀長は従三位(中納言)に叙任され、豊臣政権下の家臣内序列では、徳川家康(大納言)、織田信雄(内大臣)に次ぐ三番目にまで上りつめていた。

天正15年(1587年)の九州征伐では日向方面の総大将を務めており、戦後の功績によって同年8月には徳川家康と同じ従二位権大納言に叙任されている。

やがて病に臥すように…

天正17年(1589年)、正月には大坂城にて諸大名らと共に、秀吉に新年祝賀の太刀進上を行っている。しかし、この頃には摂津国の有馬温泉に湯治に赴いたが、病にかかって京の邸宅に戻っている。

そして天下統一を目前に控えた天正18年(1590年)、秀長は正月に病状が悪化して一時重体に陥っている。このため、その直後に行なわれた豊臣政権の小田原征伐には従軍することができなかった。 北条を滅ぼした秀吉はそのまま奥州仕置を実施して天下人となったが、一方で天正19年(1591年)正月、その秀吉の偉業を支えた弟は惜しくも病死。享年52であった。


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