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豊臣秀次:切腹の憂き目にあった豊臣政権2代目関白

豊臣秀次の肖像画

豊臣秀次(とよとみ ひでつぐ、1568-1595年)は豊臣氏の2代目関白。豊臣秀吉の姉である瑞竜院日秀の長男。

経歴

秀吉の同母姉の子で、秀吉の甥にあたる。幼小のころ、織田政権下で秀吉が浅井攻めの際に浅井家臣・宮部継潤を調略し、継潤の安全を保障するために人質に送られて継潤の養子となり、「宮部吉継」と名乗る。

小谷城の戦い(1573年)で浅井氏滅亡後に、宮部継潤が秀吉の家臣となったため、人質は解消。以後、時期は定かではないが、三好康長との連携強化のため、再び養子にだされ、「三好信吉」と名乗った。

信長死後には賤ヶ岳の戦い(1583年)にも参加した。一方で三好康長が出奔したため、残った三好家の家臣団を統率し、河内北山2万石の大名となり、羽柴姓に復帰して羽柴信吉(孫七郎)と名乗った。
小牧・長久手の戦い(1584年)では自ら率いた軍勢が大敗を喫して秀吉から叱責された。その後、紀州征伐(1585年)で汚名返上の功をあげ、続く四国攻め(1585年)では副将を務め、近江43万石を与えられた。また、このころに羽柴秀次を名乗り、従四位下、右近衛権少将に叙任された。

小田原征伐(1590年)で副将を務め、戦後、奥州仕置にともなう九戸政実の乱(1591年)では総大将を務め、その功で織田信雄領であった尾張・伊勢北部5郡を拝領。同年には豊臣秀長と秀吉嫡男・鶴松が死去したため、秀次の官位が急遽引き上げられて関白に就任して秀吉の後継者となった。
しかし、のちに秀吉の側室・淀殿が秀頼を産むと次第に秀吉から疎まれるようになり、謀反の疑いをかけられて高野山へ追放、その果てに自害させられた。


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