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「豊臣秀次」切腹の憂き目にあった豊臣政権2代目関白

豊臣秀次の肖像画
戦国時代は様々な武将の活躍があったが、波乱に満ちた生涯を送った人物も多くいる。豊臣政権の2代目関白として知られる豊臣秀次は、なんと4人の父がいたとされていて、名前が行く所行く所によって変わっていた。そんな秀次が歩んでいった波乱な人生をみていきたい。

波乱な幼少期

秀次は永禄11年(1568年)に父弥助、母とも(後の日秀尼)の間に生まれた。幼少期は "治兵衛" と名乗っていた。4歳の時、織田信長の浅井攻めに際して豊臣秀吉が宮部継潤を調略して養子となった。この時に百姓名であった治兵衛の名を改めて宮部吉継と名乗った。

天正元年(1573年)小谷城の戦いで浅井氏が滅びた際に、信長は秀吉の功績を認めた。これがきっかけとなって宮部継潤は秀吉の与力の1人となり、人質を置く理由がなくなったため、天正2年(1574年)6歳の時に縁組は解消された。さらに、天正7年(1579年)の11月には四国統一を目の前にした阿波の三好康長のもとに養子として送り込まれた。この時三好信吉と名乗ったが、いつ頃に名乗ったのかは不明とされている。

豊臣姓を名乗り活躍

天正10年(1582年)の本能寺の変に際して三好康長が行方不明となり、これをきっかけに家臣達を率いる立場となった。同年に起こった山崎の戦いが初陣とされている。天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いで豊臣秀吉が柴田勝家に勝利した。これによって、秀吉が信長の次の天下人としての地位を確固たるものとした。この時に秀吉の縁者となり、羽柴信吉と名を改めたとされている。 さらに天正12年(1584年)に起こった徳川家康との小牧・長久手の戦いでは三河で別働隊の指揮を執ったが、逆に徳川軍の奇襲を受けて惨敗を喫した。この時に部下の池田恒輿や森長可たちが戦死を遂げて、自分は生き延びたために秀吉から激しい叱責を受けることになった。その後の九州征伐や小田原攻めの際には大きな戦果を挙げている。

運命の転換

天正14年(1586年)11月には豊臣の姓を賜ったことにより、豊臣秀次と名乗っている。

天正19年(1591年)正月に秀吉の弟である豊臣秀長が、同8月には秀吉の嫡男の鶴松が相次いでこの世を去り、秀吉は自分の後継者を失うことになった。これをきっかけに秀次は秀吉の後継者として異例のスピードで事がすすめられていく。同11月には秀吉の養子となって権大納言に、12月には聚楽第に入って関白に就任し、内大臣に任ぜられたのである。
しかし、秀吉は全権を秀次に譲ったわけではない。唐に入ることに専念する秀吉の代わりに秀次が内政を行うことが多くなっており、二元政治の形態となっていた。やがて秀吉の歯車は少しずつ狂い始め、秀次の運命もあらぬ方向に変わっていってしまうことになる。

後に戻れぬ出来事

文禄2年(1593年)の8月、淀殿が豊臣秀頼を出産。これをきっかけにして、老いも進んできた焦りや不安から当時57歳の秀吉は秀頼に自分の後継者を任せたいと思うようになり、やがて秀次のことが疎ましい存在だと思うになり始めるのである。

そんな中、文禄4年(1595年)1月には小西行長が明へ派遣した小西如安から連絡が来ないことから、関白の秀次を総大将とする12万5000人の軍勢を朝鮮半島へ再派兵する計画を発表したものの連絡が届き派遣が中止となる中、決定的な事件は起きた。秀次は「鹿狩りと称して山へ行き、謀反の計画を立てているという噂がある」と突然に謀反の疑いをかけられたのである。

主に、女人禁制となっている比叡山に女性を連れて登る、比叡山が殺生禁断の聖地となっているにもかかわらず鹿狩りを行う、北野天神に参詣した際、座頭と喧嘩になって、座頭をなぶり殺しにした、鉄砲や弓の稽古の際には田畑にいる農民を標的にして殺害した、試し斬りと称して罪人や一般人などを鬼畜のごとく斬り殺した、といった5つの罪状が挙げられた。

石田三成らに誓紙を出して自身の身の潔白を訴えて秀吉の命令で伏見城に来たものの対面することは許されなかった。さらに使者から高野山へ行き待機するように指示があった。秀次はその日のうちにすぐ高野山へ入ることになった。

秀次と一族の最期

ついに7月15日に秀次に対して切腹の命令が下りた。これが豊臣秀次切腹事件といわれている。秀次はその日のうちに切腹し、三条河原にさらし首となった。享年28。辞世の句は

磯かげの松のあらしや友ちどりいきてなくねのすみにしの浦

ところが秀吉の怒りはそれだけでは済まなかった。1か月後の8月2日には、秀次の家族や女人といった秀次に関係する一族ともども処刑、中にはまだ15歳の若さで処刑された女の子もいたのである。秀次の首が置かれている塚の前で、遺児(4男1女)や側室、侍女、計39名が5時間もの時間を掛けて処刑されたといわれている。

この処刑が終わった後、遺体は一箇所に埋葬されて埋葬地には秀次の首を収めた石櫃が置かれることとなった。その塚は畜生塚と呼ばれた。また、連座した大名は監禁され、秀次が政務を行っていた近江八幡城や聚楽第も全て破却されることになった。


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