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「石田三成」誤解か真実か!?天下分け目の決戦・関ヶ原の敗将の生涯とは

石田三成の肖像画
石田三成は豊臣秀吉の有力家臣であり、豊臣政権下における五奉行の1人に数えられている。秀吉死後、専横をふるう徳川家康を相手に挙兵し、関ヶ原の戦い(1600)に挑んだものの、最期は敗れて処刑された。

機転を利かせて秀吉に気に入られた青年期

石田三成は永禄3年(1560年)、浅井家に仕える石田正継の次男として現在の滋賀県である近江国坂田郡石田村で誕生した。幼名を佐吉という。

遺骨をもとにした複顔によると、身長は低く小柄な体格であった。当時、次男や三男は学問修行として寺入りする風習があったため、三成も勉学に励むために寺に預けられた。三成の家は郷名を苗字とするほどの有力な土豪であり、決して貧しいわけではなかったようだ。

その後の天正12年(1574年)、15歳に成長した三成に転機が訪れる。この頃、織田家の重臣に出世していた羽柴秀吉と出会い、父正継、兄正澄と共に秀吉に仕官することになるのだ。

秀吉との出会いのエピソードが「砕玉話(武将感状記)」等に記された「三献茶」である。

これによると、鷹狩の帰りに喉の渇きを覚えた秀吉は、三成のいる寺に立ち寄り茶を求めた。三成は秀吉が一気飲みできるように、まずぬるめのお茶を大ぶりの茶碗に入れて差し出し、次にやや熱めにしたお茶を小さめのお椀に入れて出し、三度目により熱くたてた茶を差し出したという。秀吉は相手の状況に応じてお茶を出す三成の態度を気に入り、自身のお城に連れ帰った。
出会いの場となったお寺は滋賀県米原市にある大原観音寺だとする説が有力であり、観音寺にはお茶の水を汲んだ古井戸も残っている。 もっとも、このエピソードが真実か否かについては争われており、真偽は不明である。

なお、三成の息子の記した『霊牌日鑑』には、三成が秀吉と出会ったのは三成が18歳のとき、姫路でのことであるとされており、三献茶のエピソードと符合しない。三献茶のエピソードが掲載されているのは江戸期の俗書の類であるため、このエピソードは三成の出自を寺の小僧であると嘲るために創られたという説まである。

いずれにしても、秀吉と出会った三成は信長の命令で秀吉が中国攻めの総司令官として中国地方に赴いたとき、ともに従軍した。 信長が本能寺の変により亡くなり次の天下人として秀吉が台頭した天正10年6月(1582年)、三成は秀吉の側近として次第に台頭してゆく。

秀吉に従って数多の戦に参戦した三成だが、関ヶ原の戦いで敗戦するなど戦音痴のイメージが強いであろう。だが、そのイメージを覆すエピソードとして、天正11年4月21日(1583年)の「賤ヶ岳合戦」での出来事がある。
賤ヶ岳合戦とは、信長の跡目を争う秀吉と柴田勝家が琵琶湖のほとりの賤ヶ岳周辺で争った戦いである。

賎ヶ岳での活躍といえば、加藤清正福島正則らいわゆる七本槍が有名であるが、「先懸衆」として実戦に加わった者のなかに三成の名もあるのだ。『称明寺文書』によると、三成は秀吉の命を受けて敵側の状況を探る任務にあたっていたらしい。 三成は戦力眼に長けており、武将としての才能にも恵まれていたことがうかがえる。
なお、翌天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いにも従軍している。

天正13年7月11日(1585年)に秀吉が従一位関白に就任すると、三成は従五位下治部少輔に叙任した。三成26歳のときのことである。また、この頃、自分の知行の半分を割いてまで名将の島左近を召し抱えたといわれている。

その後、豊臣政権による天正14-15年(1586-87年)の九州征伐では後方の兵糧・武具などの輜重を担当したようだ。 この頃の秀吉の天下統一過程での三成は、取次として諸大名の秀吉への謁見を斡旋したり、堺奉行と博多奉行を兼任するなど、各国の検地奉行を務めて吏僚として多くの功績をたて、秀吉から厚い信頼を得ていった。のちに秀吉が「自分の死後に天下をとるのは三成である」と家臣に語るほどの信頼ぶりである。

しかし、その一方で三成の戦音痴のイメージを強める天正18年(1590年)小田原征伐の忍城攻めのエピソードもある。
「関八州古戦録」や「成田記」によると、北条方の関東諸城を攻略しようとする秀吉の指示の下、一隊の大将として館林城を降伏、開城させた後、忍城に向かった。城の周囲が沼地・低湿地で囲まれていることから城攻めは難渋を極め、三成は頭を悩ませていた。 そして、近くの小山からその周囲の地形を俯瞰した三成は、秀吉の備中高松城攻めに習って忍城を水攻めにすることを思いついたという。ところが、忍城を囲む堤を作り終えた後、突然大雨が降りだしたため堤が決壊してしまった。

ただし、このエピソードについてもその真実性を疑問視する見解がある。
忍城は「浮き城」と呼ばれるほど水攻めに不向きな城であり、それを三成が知らないはずがないというのである。三成が着陣直後に発した書簡のなかには、水攻めに否定的な考えをしていたことを示す一文もある。そもそも、水攻めを行う前に忍城は開城したという説や、水攻めを指示したのは秀吉であるとの説がある。

難攻不落の忍城を水攻めで攻略することができれば、秀吉は関東・東北の諸将に対してその実力を示すことができたであろう。 当時の身分に比して大抜擢された三成は、秀吉の無茶な要望を断り切れず失敗の責めを負ったとの見方も有力である。

三成は男気のある人物か嫌われ者か

嫌われ者としてのイメージの強い三成だが、実際には周囲との絆を大切にする人物だったと知られている。たとえば、三成とほぼ同じころに秀吉に小姓として仕えた大谷吉継とはかなり親しく、その友情エピソードは有名である。

「出身地や生年の近かった2人は、九州征伐、小田原征伐、朝鮮出兵でも一緒に功績をあげていった。秀吉恩顧の大名たちが呼ばれた大坂城で開かれたお茶会において、らい病(ハンセン病)を患っていた吉継の顔から出た膿が茶碗のなかに落ちてしまった。 本来であれば茶を一口ずつ回し飲みするのだが、他の大名たちは飲む振りだけして、次に回していった。吉継が居たたまれない気持ちで過ごすなか、三成は茶碗をぐいと奪い飲み干すと、もう一杯要求した。
これにより、吉継は救われ、三成に対し恩義を感じるようになった」というのである。

男気のある三成のイメージを悪くしているのが、千利休の切腹や蒲生氏郷の毒殺などに三成が裏で関わっていたとする「三成佞臣論」であろう。公家吉田兼見の日記『兼見卿記』によると、三成は利休の切腹後、その妻も刑に処したという噂があったとされる。 しかし、利休の妻が亡くなったのは利休の切腹から9年後のことである。また、蒲生氏郷の死についても三成は無関係であり、氏郷は40歳で病死したにすぎない。
江戸時代、徳川幕府を正当化するためには、関ヶ原の闘いで家康と闘った三成を悪者にしたほうが都合良かった。三成に恩義のあった大名家でさえ、幕府に睨まれることを恐れて史実と異なるエピソードを伝えていったといわれている。

最期は思わぬ誤算の連続で…

慶長3年9月18日(1598年)秀吉が没した後、五奉行の1人として政権運営を担当することになった三成。五奉行は秀吉の死を隠し、秀吉の命令という形で政務を続けていた。一方、家康は五大老筆頭として力をつけていた。 豊臣政権下で禁止されていた大名同士の婚姻禁止の御法度を破った家康に対し、三成は前田利家らと諮り、問罪使を派遣した。 こうして、五大老・五奉行の微妙なパワーバランスのなか、三成と家康は対立を深めていく。

そして慶長4年(1599年)、家康と三成の間で緩衝材的役割を演じていた前田利家が病没したのをきっかけに事態は急変する。加藤清正や黒田長政、池田輝政、福島正則といった武断派大名7人が三成を襲ったのである。(七将襲撃事件)
武断派というのは、合戦で大きな功を立てた豊臣政権内部の派閥の一つであり、これに対して三成ら政務を担った武将たちを文治派と呼んでいる。事件の背景に、秀吉生前のころの朝鮮出兵によって両派の対立が形成されていったと考えられているようだ。朝鮮出兵での三成は、日本国内にいる秀吉との連絡役や明との講和交渉など、朝鮮出兵の総奉行として渡海して豊臣軍を運用する重責を担い、後方支援が主な役割であった。これに対して戦いの前線に置かれていた武断派は面白くなかったのである。

この襲撃事件をきっかけに、家康は喧嘩両成敗を振りかざして三成を失脚させ、その結果唯一の筆頭大老であった家康が政権の全権を握った。このとき家康が三成を処刑しなかったのは、翌年の関ヶ原の戦いで反徳川を一蹴するためだったとの見方もある。

佐和山での隠居に追い込まれた三成は、上杉景勝の上洛問題をきっかけとして起きた三奉行のクーデターに乗じて徳川討伐を決意する。ただし、この戦は最初から三成に明らかに不利であったため、徳川討伐を相談された大谷吉継は何度も考え直すように三成を説得した。しかし吉継の説得は功を奏さず、三成は増田長盛や小西行長に相談して計画を進めていく。病気のため歩くこともままならない吉継であったが、三成のためにこの計画への加担を決断するのであった。

こうして三成は、慶長5年7月(1600年)に西軍を牽引して挙兵。大阪城にいる東軍の武将の家族を人質に取った後、徳川軍の駐留部隊がいる京都・伏見城に総攻撃を仕掛けた。1800の守備兵に対して1万の兵で攻撃したため伏見城は炎上し、ここでの戦いは三成の勝利に終わった。(伏見城の戦い)
その報告を受けた家康らは、人質を犠牲にしてでも三成を討伐することを決意する。もともと徳川(東軍)のほうが協力者は多く、三成が主力と考えていた大名家が思うような軍事行動をできなかったため、東軍有利に事が運んでいく。西軍に協力した武将の多くは「二代目」であり、戦国時代を生き抜いた知恵を持つ者が少なかったのである。また、三成に人望がなかったため、東軍の寝返り要請に応じる者も少なくなかった。三成とともに徳川討伐を計画していた増田長盛でさえ徳川に内通し、三成の軍事計画を家康に伝えていたといわれている。

そして三成の敗北を運命づけたのが、秀吉の養子で秀吉に随分かわいがられていた小早川秀秋の寝返りであった。朝鮮出兵時の失態を三成によって秀吉に報告され領地を奪われた秀秋は、突如1万5千の大軍を率いて松尾山に移動してしまう。 それを追いかける形で、両軍は闘いの場所を松尾山の近く関ヶ原に移した。秀秋のいる松尾山からは両軍の闘いが一望できたため、東軍は秀秋をどうしても味方につけたいと考えていた。そのために取った手段が、鉄砲隊による一斉射撃である。
もともと三成を嫌っており、弱腰になった秀秋は寝返りを決意し、西軍に襲い掛かった。秀秋の裏切りを予想していた吉継はすぐさま対応したが、他の西軍武将まで寝返ったため吉継は切腹するほかなくなった。 こうして三成に勝算はなくなり、関ヶ原の戦いは幕を下ろしたのであった。

その後、三成は罪人として洛中を引き回されたのち、同年の10月1日に六条河原で処刑されることになるのだが、その最期には数々の逸話が遺されている。

たとえば、三成は処刑前家康に対し「このように戦に敗れることは古今良くあることで、少しも恥では無い」と告げ、最期まで潔い姿勢を崩さなかった。これに対して家康は「三成はさすが大将の道を知る男よ」と褒めたという。周囲の人間からはあまり好かれなかったようであるが、自分の信念を最期まで貫いたといえるだろう。

墓所・史跡

大徳寺

三成の墓は京都・大徳寺の三玄院にある。三成が関ヶ原敗戦で処刑されてその首が三条河原に晒された後、生前に親交のあった春屋宗園や沢庵宗彭に引き取られ、三玄院に埋葬されたという。

  • 所在地:京都府京都市北区紫野大徳寺町53


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