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石田三成

石田三成(いしだみつなり、1560-1600年)は豊臣秀吉の有力家臣であり、豊臣政権下における五奉行の1人に数えられている。秀吉死後、専横をふるう徳川家康を相手に挙兵し、関ヶ原の戦い(1600)に挑んだものの、最期は敗れて処刑された。

経歴

幼いころより父・正継、兄・正澄とともに秀吉に仕官し、小姓として仕え、織田政権期の秀吉の中国攻め(1577-82年)に従軍。信長死後は秀吉の台頭にともない、次第に頭角を表していった。

賤ヶ岳の戦い(1583年)では偵察行動を担当し、先駈衆として一番槍の功名をあげた。翌年の小牧・長久手の戦い(1584年)にも従軍し、秀吉が関白に就いた際には従五位下治部少輔に叙任された。また、このころ、名将として知られる島左近を知行の半分を割いて召し抱えたといわれている。また、九州征伐(1586-87年)時には後方の兵糧・武具などの輜重を担当し、その後、堺奉行と博多奉行を兼任し、小田原征伐(1590年)にも従軍した。
こうして取次として諸大名の秀吉への謁見を斡旋したり、各国の検地奉行を務めるなど吏僚として多くの功績をたて、秀吉から厚い信頼を得て重用されていった。

文禄の役(1592-93年)では国内の秀吉との連絡役・明との講和交渉など、朝鮮出兵の総奉行として渡海し、豊臣の大軍を運用するという重責を担った。慶長の役(1597-98年)の際には国内で後方支援を行なっており、五奉行制度の確立時にはその一人に任じられた。
しかし、こうした役回りは戦いの前線に置かれていた福島正則や加藤清正、黒田長政ら武断派の反発を招くこととなり、秀吉死後にはその対立が顕著となった。 その後、天下をもくろむ家康と対立するも、武断派は豊臣恩顧の家臣であるにもかかわらず、家康につくこととなり、関ヶ原の戦い(1600年)で三成は家康に挑むも敗戦し、最期は罪人として洛中を引き回されたのちに六条河原で処刑された。

墓所・史跡

大徳寺

三成の墓は京都・大徳寺の三玄院にある。三成が関ヶ原敗戦で処刑されてその首が三条河原に晒された後、生前に親交のあった春屋宗園や沢庵宗彭に引き取られ、三玄院に埋葬されたという。

  • 所在地:京都府京都市北区紫野大徳寺町53

略年表

永禄3年(1560年)
石田正継の次男として誕生。幼名は佐吉。
天正2年(1574年)頃
父の正継や兄の正澄とともに羽柴秀吉に仕官し、小姓として仕えるようになる。
天正5-10年(1577-82年)
秀吉の中国攻めに従軍する。
天正11年(1583年)
賤ヶ岳の戦いで偵察行動を担当し、また、先駈衆として一番槍の功名をあげる。
天正12年(1584年)
  • 小牧・長久手の戦いに従軍。
  • 同年、近江国蒲生郡の検地奉行を務める。
天正13年(1585年)
秀吉の関白就任に伴い、従五位下治部少輔に叙任される。
天正14年(1586年)
  • 知行の半分を与え、島左近を召し抱えたという。
  • 同年、堺奉行を務める。
天正15年(1587年)
九州征伐では兵糧や武具の輸送などの後方支援を担当。戦後は博多奉行を務める。
天正16年(1588年)
取次として薩摩国の島津義久の秀吉への謁見を斡旋する。
天正17年(1589年)
美濃国の検地を行なう。
天正18年(1590年)
  • 小田原征伐に参戦し、取次として常陸国の佐竹義宣が秀吉に謁見するのを斡旋する。
  • 同年、奥州仕置後の奥州における検地奉行を務める。
文禄元-2年(1592-93年)
文禄の役に従軍、漢城に駐留して朝鮮出兵の総奉行、明との講和交渉等を務める。
文禄3年(1594年)
島津氏・佐竹氏の領国の検地を実施。
文禄4年(1595年)
秀次事件では秀次を謀反の嫌疑で糾問する。
慶長元年(1596年)
  • 佐和山領内に十三ヶ条掟書、九ヶ条掟書を出す。
  • 明の講和使節を接待。
  • 京都奉行を務め、秀吉からキリシタン弾圧を命じられる。
慶長2-3年(1597-98年)
慶長の役では国内で後方支援を行なう。
慶長3年(1598年)
秀吉死後、家康暗殺を試みる。また、毛利輝元・増田長盛・長束正家・前田玄以と起請文を交わす。
慶長4年(1599年)
武断派の加藤清正、福島正則らに襲撃される。
慶長5年(1600年)
関ヶ原の戦いで家康率いる東軍に敗北し、処刑される。


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