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加藤清正:秀吉子飼いの築城の名手

加藤清正の肖像画

加藤清正(かとう きよまさ、1562-1611年)は秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられる。秀吉から肥後半国を与えられて熊本城主となった。2度の朝鮮出兵で功を挙げたが石田三成ら文治派とは対立。関ヶ原では家康の東軍に属し、のちに肥後一国を与えられた。築城の名手としても知られる。

経歴

幼少の頃、清正の母が羽柴秀吉の生母・大政所のいとこ、または遠縁の親戚であったことから、織田政権下で秀吉に小姓として仕えるようになる。以後、秀吉に従い、中国攻めや信長の弔い合戦となった山崎の戦い(1582年)に従軍した。

豊臣政権下

秀吉と柴田勝家の賤ヶ岳の戦い(1583年)では武功をたて、「賤ヶ岳の七本槍」の一人に数えられた。 豊臣政権下では四国征伐(1585年)に従軍し、秀吉の関白就任時には同時に従五位下・主計頭に叙任。続く九州征伐(1586年)にも従軍して、戦後に肥後国領主となった佐々成政がしばらくして改易されると、代わりに熊本城主として肥後半国を与えられた。

肥後国の統治では、治水事業や商業政策に取組んで優れた手腕を発揮。 清正は築城の名手として知られており、熊本城の他、名護屋城、朝鮮の蔚山倭城、江戸城、名古屋城など数々の城の築城に携わった。

秀吉の晩年には2度にわたる朝鮮出兵に参加。
文禄の役(1592-93年)では朝鮮へ渡海して二番隊主将となって活躍したが、明・朝鮮との講和を巡って小西行長や石田三成らと対立して秀吉の怒りを買い、京に戻されて謹慎処分となった。しかし、慶長伏見地震(1596年)の際、秀吉の身を案じて伏見城へ駆けつけたことで許されたという。
慶長の役(1597-98年)でも再び朝鮮へ渡海したが、石田三成ら文治派とは一層対立していった。

秀吉死後

秀吉死後、家康の養女を継室として娶り、続く前田利家の死後には石田三成暗殺未遂事件に加わるなど、家康に接近して石田三成ら文治派との対立を激化させていった。

関ヶ原の戦い(1600年)には家康率いる東軍につき、九州で黒田如水とともに九州の西軍勢力と交戦。戦後には小西旧領の肥後南半を拝領して52万石の大名となった。

その後、豊臣姓を下賜され、従五位上・侍従兼肥後守に叙任。家康と豊臣秀頼との会見を取り持ったりもしたが、熊本で病死した。

略年表

永禄5年(1562年)
刀鍛冶・加藤清忠の子として誕生。

秀吉に仕える

天正元年(1573年)
秀吉に小姓として仕える。
天正10年(1582年)
  • 中国攻めで冠山城を攻めたとき、城に一番乗りを果たして武功を立てる。
  • 同年、秀吉が光秀を討った山崎の戦いに従軍。
天正11年(1583年)
賤ヶ岳の戦いで武功をたて、戦後に賤ヶ岳の七本槍の一人として3千石を与えられる。
天正13年(1585年)
秀吉の四国征伐に従軍。同年、従五位下・主計頭に叙任する。
天正14-15年(1586-87年)
秀吉の九州征伐に従軍。肥後北半国19万5,000石を与えられ、熊本城を居城とする。
天正17年(1589年)
小西行長領の天草での一揆を鎮圧する。
文禄元-2年(1592-93年)
文禄元-2年
慶長2-3年(1597-98年)
慶長の役に従軍。

秀吉の死後

慶長3年(1598年)
秀吉死後、家康の養女を継室として娶る。
慶長4年(1599年)
前田利家の死後、黒田長政ら武断派とともに石田三成襲撃事件を起こす。
慶長5年(1600年)
関ヶ原合戦では徳川方として九州で西軍勢力を次々と破る。戦後、52万石の大名となる。
慶長8年(1603年)
豊臣姓を下賜される。

江戸幕府下

慶長10年(1605年)
従五位上・侍従兼肥後守に叙任される。
慶長15年(1610年)
徳川氏による尾張国・名古屋城の普請に協力。
慶長16年(1611年)
  • 家康と豊臣秀頼の二条城での会見を取り持つ。
  • 同年、熊本で死去。享年50。


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