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黒田長政

黒田長政(くろだ ながまさ、1568-1623年)は軍師・黒田官兵衛の嫡男で秀吉の家臣。筑前福岡藩初代藩主。

経歴

幼少のころ、小寺氏に仕えていた父・官兵衛が織田信長に従属する際に、人質として秀吉に預けられる。その後、織田家臣・荒木村重の謀反の際、父・官兵衛が説得に向かうも失敗して逆に幽閉されると、戻らない官兵衛に業を燃やした信長が官兵衛の謀反とみなして長政の処刑を宣告した。しかし、官兵衛の同僚で秀吉の軍師であった竹中半兵衛に匿われ、のちに有岡城の陥落後に官兵衛が救出されて疑念が晴れたため、処刑を免れることとなった。

以後、父・官兵衛とともに織田政権下で秀吉に仕え、中国攻めに従軍して初陣を飾り、本能寺の変(1582年)後もそのまま秀吉に仕え、豊臣政権を支えた。
賤ヶ岳の戦い(1583年)で功をあげ、小牧・長久手の戦い(1584年)では大坂城の留守居を務め、紀州征伐(1585年)や四国攻め(1585年)にも従軍。さらに、九州征伐(1586-87年)でも功をあげ、戦後、父子の功績をあわせて豊前国中津に12万5,000石を得て、豊前の国人勢力の反乱鎮圧に務めた。その後、官兵衛の隠居の際に家督を相続して中津城を任され、従五位下、甲斐守に叙任。
文禄・慶長の役(1592-93年・1597-98年)では渡海し、先鋒を務めて武功をたてた。

秀吉死後は石田三成ら文治派との対立から五大老の徳川家康方につき、関ヶ原合戦で(1600年)は本戦で大功をたて、戦後、豊前国より筑前国に52万3,000石もの加増移封となった。
翌年には筑前にて父・如水(官兵衛)とともに福岡城の築城を開始し、福岡藩を成立させ、以後、初代福岡藩主として家臣の統制に苦しむも、福岡博多の産業の奨励に務めるなどした。 大坂冬の陣(1614年)では江戸城の留守居役であったが、大坂夏の陣(1615年)には参戦した。

略年表

永禄11年(1568年)
黒田官兵衛の嫡男として誕生。幼名は松寿丸。
天正5年(1577年)
人質として秀吉に預けられる。
天正6年(1578年)
信長から父・官兵衛の謀反を疑われ、松寿丸の処刑が命じられたが、竹中半兵衛の機転で匿われる。
天正6年(1578年)
有岡城の陥落後、官兵衛の疑念が晴れて姫路へ帰郷する。

初陣を飾り、羽柴秀吉に仕える

天正10年(1582年)
備中高松城攻めに従軍して、冠山城の戦いで初陣を飾る。同年、信長横死後に秀吉に仕える。
天正11年(1583年)
賤ヶ岳の戦いで功を挙げて、河内国に450石の領を与えられる。
天正12年(1584年)
小牧・長久手の戦いで大坂城の留守居を務める。
天正15年(1587年)
九州征伐に従軍。戦後、父子の功績をあわせて豊前国中津に12万5,000石を与えられる。
天正16年(1588年)
城井鎮房を酒宴の席で謀殺し、城井氏の勢力を殲滅させる。
天正17年(1589年)
父・官兵衛の隠居にともない、家督を相続、同時に従五位下、甲斐守に叙任する。
文禄元-2年(1592-93年)
文禄の役に従軍。
慶長2-3年(1597-98年)
慶長の役に従軍。

秀吉死後

慶長3年(1598年)
  • 秀吉死後、朝鮮から帰国する。
  • 蜂須賀正勝の娘・糸姫と離別し、家康の養女・栄姫を新たに正室に迎える。
慶長4年(1599年)
前田利家の死後、武断派と共に石田三成を襲撃する。
慶長5年(1600年)
関ヶ原の戦いには徳川方として参戦。合戦後、一番の功労者として家康から筑前名島(後の福岡藩)に実高100万石とされる大封を与えられる。
慶長6年(1601年)
豊前より筑前に入府。同年、福岡城の築城を開始する。

江戸幕府下

慶長8年(1603年)
従四位下、筑前守に叙任される。
慶長9年(1604年)
父・黒田如水が死去。
慶長11年(1606年)
  • 商人・大賀宗九に対し、家康から海外貿易を行うための朱印状を受けさせる。
  • 同年、亡き父・如水の供養のため、京都の臨済宗大徳寺山内に塔頭・龍光院を建立する。
慶長17年(1612年)
嫡男・忠之とともに上洛し、忠之が松平の名字を与えられる。
慶長19年(1614年)
大坂冬の陣で江戸城の留守居役を務め、代理として嫡男・忠之を出陣させる。
慶長20年(1615年)
大坂夏の陣で徳川秀忠隊に属す。
元和9年(1623年)
京都における黒田家の位牌寺、上京区報恩寺の客殿寝所にて死去。


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