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黒田官兵衛(如水):竹中半兵衛と双璧をなす秀吉の参謀

黒田官兵衛の肖像画

黒田官兵衛(くろだ かんべえ、1546-1604年)は秀吉の家臣でキリシタン大名。黒田孝高(よしたか)とも。

経歴

7歳のときに父・職隆によって寺に入れられ、浄土宗の僧円満に師事して書を学び、のちに赤松氏の分家にあたる小寺政職の近習となって小寺官兵衛を名乗る。
職隆から家督と家老職、姫路城代を継ぎ、信長が勢力を伸ばしてくると、織田氏・毛利氏・三好氏の三家に従属するかの進言を求められた際に、織田氏への臣従を進言。秀吉を通して岐阜城で信長に謁見し、信長から名刀「圧切長谷部」を授かった。

秀吉による中国攻め(1577-1582年)が開始されると、長男・松寿丸(のちの黒田長政)を人質として信長へ送り、その後、秀吉と兄弟の契りを結び、居城・姫路城本丸を秀吉に譲り渡した。
しかし、織田家臣で摂津国・荒木村重が謀反を起こすと、説得のために有岡城に出向くも、主君の小寺政職の裏切りもあり、逆に村重によって城内の土牢に幽閉された。1年後に有岡城の開城で救出されたが、足が不自由の身となった。以後、小寺政職が織田信忠に討伐されてから織田家臣として秀吉の与力となり、秀吉の中国攻めに従軍して軍師として信頼を高めていった。

本能寺の変(1582年)の際には毛利との和睦しての中国大返しを献策し、山崎の戦いで秀吉が明智光秀を討つことに貢献。賤ヶ岳の戦い(1583年)、小牧・長久手の戦い(1584年)、四国攻め(1585年)と続けて従軍し、この頃に、高山右近らの勧めでキリスト教に入信。
九州征伐(1586-87年)で功をあげた後は豊前国主として中津城を築城し、国人勢力の反乱鎮圧に務めた。 しかし、次第に官兵衛の底知れぬ智謀と野心を恐れた秀吉に敬遠されるようになっていき、家督を嫡男・長政に譲って隠居。ただ、引き続き秀吉側近として仕えた。

小田原征伐(1590年)では北条氏を説得して無血開城を成功させ、文禄の役(1592-93)では渡海するも、病を理由に帰国。再び渡海するが今度は石田三成との確執で帰国して秀吉の怒りを買って三度渡海。同年、出家して「如水軒円清」と号し、死罪を覚悟したものの、赦免された。

秀吉死後は家康方に参じて関ヶ原の戦い(1600年)では九州で西軍と戦って戦果をあげ、戦後に筑前国52万3,000石への加増移封を得て、その後は動乱に備えて福岡城を築城。太宰府の地に草庵を儲けるなど、平穏に隠居生活を送った。

略年表

天文15年(1546年)
黒田職隆の嫡男として誕生。幼名は万吉。
永禄2年(1559年)
母を亡くし、以後は文学に耽溺する。

小寺政職に仕える

永禄4年(1561年)
播磨国の小寺政職の近習となる。
永禄5年(1562年)
小寺官兵衛と名乗り、土豪を征伐して初陣を飾る。
永禄10年(1567年)
この頃、父・職隆から家督と家老職を継ぎ、櫛橋伊定の娘・光(てる)を正室に迎え、姫路城代となる。
永禄12年(1569年)
青山・土器山の戦いで活躍。
元亀4年(1573年)
小寺政職に織田氏への従属を進言する。
天正3年(1575年)
羽柴秀吉の取次により、岐阜城で信長に謁見する。

秀吉に仕える

天正5年(1577年)
  • 英賀合戦で活躍、その後、長男・松寿丸(後の黒田長政)を人質として信長の元へ送る。
  • 同年、秀吉と兄弟の契りを結び、居城・姫路城を秀吉に譲り渡す。
天正6年(1578年)
宇喜多直家を調略する。その後、荒木村重によって有岡城で幽閉される。
天正7年(1579年)
有岡城が開城され、救出される。
天正8年(1580年)
小寺政職が織田信忠に討伐され、織田家臣として秀吉の与力となる。
天正9年(1581年)
第二次鳥取城攻めに参加。
天正10年(1582年)
  • 備中高松城の戦いで献策をして成功させる。
  • 本能寺の変後、毛利との和睦と光秀討伐を進言し、秀吉とともに京へ向かう(中国大返し)。
  • 秀吉による光秀討伐に従軍(山崎の戦い)。
天正11年(1583年)
賤ヶ岳の戦いに従軍。
天正12年(1584年)
小牧・長久手の戦いでは、はじめは大坂城で留守居役を務め、途中から参戦。
天正13年(1585年)
  • 四国攻めでは宇喜多秀家軍に軍監として加わり、活躍する。
  • このころ、キリスト教に入信する。

豊臣政権下

天正14年(1586年)
  • 従五位下・勘解由次官に叙任。
  • 九州攻めに参加し、勝利に貢献する。
天正15年(1587年)
  • 九州平定後、中津城の築城を開始。
  • 同年、肥後国人一揆や城井鎮房の反乱などに対応する。
天正17年(1589年)
家督を嫡男・長政に譲る。
天正18年(1590年)
小田原征伐では無血開城させる。
文禄元年(1592年)
文禄の役では渡海するも、病のために帰国。
文禄2年(1593年)
再び渡海するも石田三成との確執で帰国し、秀吉の怒りを買って再び渡海。同年、「如水軒円清」と号す。
慶長2-3年(1597-98年)
慶長の役にも参加。秀吉死後は上洛して伏見屋敷に居住する。

秀吉死後

慶長5年(1600年)
関ヶ原合戦では徳川方に参加し、九州で大友軍等を撃破。
慶長6年(1601年)
福岡城を築城する。
慶長9年(1604年)
京都伏見藩邸で死去。


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