丁寧に歴史を追求した "正統派" 戦国Webマガジン

「茶々(淀殿)」豊臣秀吉の側室、浅井三姉妹の長女

茶々の肖像画
浅井三姉妹の長女・淀殿は、"茶々" の本名と共によく知られている人物だ。父と母と悲劇的な別れを繰り返しながら、その父母の仇敵である豊臣秀吉の側室となり、秀頼を生んだ。豊臣政権を担いながら三度目の落城で世を去った彼女の生涯とは、どんなものだったのだろうか。

「淀の方」こと茶々

淀殿の本名は「茶々」といい、日本史上もっとも有名な女性のひとりである。淀君と呼ばれることもあるが、これは徳川の治世になって使われた蔑称と言われ(「君」は遊女によく付けられた)、淀殿と呼ぶ同時代史料も見当たらない。
「淀の方」と呼ばれていたのは判明しているが、本名の茶々と合わせ、これほど人口に膾炙したネーミングを持った女性は珍しい。 ときに”戦国三姉妹”と称される二人の妹と共に、繰り返し時代劇にも登場しているその実像を、生まれから見ていくことにする。

父を北近江の大名・浅井長政、母を織田信長の妹で知られるお市の方に、茶々は1569年頃に誕生した。信長が京都へ進出し、天下取りへ本格的に動き始めた時期である。父の長政は信長の有力な同盟者だったが、茶々がまだ乳飲み子のうちに両家は決裂して戦争状態に入る。母の実家が敵になった以上、お市は織田家に返されるのが通例だった。しかし長政は妻をそばに残し、その後2人の間にはお初お江の2人の妹が生まれている。浅井三姉妹と言われる3人だが、この事実からは茶々の両親が深い愛情で結ばれていた事が推察される。

二度の落城と秀吉

1573年、浅井家は織田家によって滅ぼされた。長政の居城小谷城は炎に巻かれ、お市と三姉妹は長政と今生の別れを遂げたのち、落城する城を出て織田家にかくまわれた。この時長政を攻めたてた大将が、のちに茶々を側室とする羽柴秀吉である。

織田家に戻ったとはいえ、敵対していた浅井家の血を引く茶々たちが信長にどう処遇されていたか、伝える史料はない。

天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が横死すると、織田家の後継者争いに巻き込まれたお市は、秀吉のライバル・柴田勝家と再婚して越前の北ノ庄城へ移る。10代半ばになっていた茶々と二人の妹も同行したが、翌天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れた勝家は、城を枕に自刃。母お市も勝家と共に劫火に燃える北ノ庄城での死を選び、三姉妹は再び落城する城を出て命を長らえた。三姉妹を受け入れたのは、今度もまた秀吉だった。

秀吉の側室となった茶々

こののち、三姉妹は秀吉のもとに置かれたとも、織田一族に養われたともされるがはっきりしない。次女のお初と三女のお江は秀吉の用意した縁談を受けて独立するが、長女の茶々はいつしか秀吉の側室のひとりとなっていた。天正16年(1588年)頃、彼女が20歳前後とされる。

父と母を討った相手の庇護を受け、更にはその愛妾となる境遇に、女性の戦国が物語られている。

秀吉には多くの側室がいたものの、子を成す女性がなかなか現れなかった。そんな中茶々が最初の子鶴松を生んだことで、茶々の地位は急上昇し山城の国に淀城を与えられる。これが淀殿、淀の方の名の由来である。この鶴松は天正19年(1591年)にわずか3歳で早逝。しかし文禄2年(1593年)に再び茶々は懐妊、出産し、秀吉を狂喜させた。拾(ひろい)と名付けられたこの子こそ、のちに大坂の役で茶々と一緒に最期を迎える豊臣秀頼である。

家康との対決

秀吉の後継者の母となった茶々は、慶長3年(1598年)の秀吉の死後、秀頼の後見人となって大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)や饗庭局(あえばのつぼね)ら側近の女性たちと豊臣家を動かし始める。慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦にあっては、西軍の敗戦後に大蔵卿局の息子・大野治長らを介して徳川家康との交渉に当たり、責任追及を免れて大坂城と秀頼の立場を保つことには成功した。一方、女性の身で天下の命運を左右する重責があったのか、この頃の記録に「気鬱」の症状があったと出ている。

以後、家康が着々と政権固めを推し進める中、彼女は豊臣家の柱となって対決姿勢を崩さなかった。特に愛息子の秀頼を大坂城から出そうとする徳川方の動きに激しく対抗したと言われ、慶長16年(1611年)に成人した秀頼が京都二条城で家康と対面した際にも、実施までにかなり反対したと伝わっている。

三姉妹の運命

慶長19年(1614年)に大坂の陣が起きても、茶々の徳川家への対決姿勢は変わらなかったと見られ、同年の冬の陣においては自ら武装したと記す史料もある。かつて二度の落城を一緒に経験した妹お初が、敵方の二代将軍・徳川秀忠の妻となっていた三女お江との間に入って斡旋し、一度は和議を取り付けている。しかし翌慶長20年(1615年)の夏の陣では、三姉妹の取り成しも功を成さず、茶々は生涯三度目の落城と運命を共にした。茶々は47歳前後、秀頼は23歳だった。

茶々には孫がおり、男子は成長して徳川に仇を成す存在にならぬように殺害されたが、当時6歳だった女子は助けられ、鎌倉の東慶寺に入って豊臣一族の菩提を弔いながら生涯を終えている。天秀尼と呼ばれたこの女性が助けられたのは、お初が家康に嘆願したからだとされる。

三代将軍となる家光を生んだ三女のお江は寛永3年(1626年)に、二女お初は寛永10年(1633年)に世を去った。戦国を生き抜いた三姉妹は、立場がそれぞれ異なってからも仲が良かったと言われ、茶々亡き後も妹二人は頻繁に会っていたと記録にある。


 PAGE TOP