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「豊臣秀頼」徳川との決戦に敗れた豊臣家最期の当主

豊臣秀頼の肖像画
秀吉の息子・豊臣秀頼は、織田信長の血を受け継ぎ、徳川家康の義理の孫でもある数奇な血筋である。幼くして豊臣政権の後継者になり、歴史の流れに翻弄されながらも生きた22年の生涯とはどんなものだったのか?

信長・秀吉・家康の血筋

豊臣秀頼は言わずと知れた豊臣秀吉の子で、母は織田信長の姪っ子、淀殿こと茶々である。 妻は徳川家康の孫の千姫で、母同士が姉妹であるからいとこの関係になる。方広寺鐘銘事件に端を発した大坂の陣で母の茶々と共に散った最期は有名で、自身を滅ぼした相手は義理の祖父の家康であった。

信長、秀吉、家康の名が揃い踏みする血筋にありながら、その生涯はわずか22年と短い。史料が多い人物ではないのもあって、様々なイメージを持たれている秀頼の人物像と人生はどんなものだったのか、生まれから見ていくことにする。

秀頼は文禄2年(1593年)に大阪城で誕生した。父秀吉はすでに57歳で、先に茶々との子を幼年で失っていたから、その喜びようと可愛がりぶりは大変なものだったという。一方で、秀頼の誕生が脅威になった人物がいた。豊臣秀次である。彼は秀吉の姉の息子で、秀吉の養子となり、すでに関白の位を譲られて政権の後継者の地位を得ていた。

豊臣秀次の死で後継者へ

秀吉と秀次の関係は、秀頼誕生後から急速に悪化する。秀次を挟み秀頼に移行する穏便な後継策を秀吉は考えていたとされるが、結果として秀次は切腹、その一族は京の三条河原でことごとく抹殺される、悲惨な結末となった。文禄4年(1595年)のことで、秀頼はまだ2才である。それでも秀次処刑に合わせて秀吉は諸大名に命じ、秀頼への忠誠を誓う起請文を提出させており、幼児にして豊臣政権の後継者たる地位を約束されることになった。

ところが、豊臣の天下は長く続かなかった。3年後の慶長3年(1598年)、秀吉は京都の伏見で病没する。秀頼は同じ伏見に暮らしていたが、まだ5才であったことから政務をとるのは当然不可能だった。秀吉の遺言によって母の茶々と大坂城に移った秀頼は、以後亡くなるまでその地で暮らすことになる。秀吉の死で政局は風雲急を告げ、伏見では次々と事態が動いていった。

豊臣政権の崩壊

死の間際に「くれぐれも秀頼のことを頼む」と各武将に遺言した秀吉だったが、その涙ながらの訴えは戦国乱世にあって何の担保にもならなかった。秀吉政権を支えるべき子飼いの武将たち、能吏の石田三成と、合戦に秀でた加藤清正福島正則らが分裂し、内輪揉めを始めたのである。更に、秀吉が最も頼りにした盟友・前田利家慶長4年(1599年)に病死すると、政権の重しが失われて、加藤清正たちは三成を襲撃。三成は辛うじて逃げ延びるが、失脚を余儀なくされた。

大坂城にある秀頼を守るはずの豊臣政権は、秀吉の死から時を置かずして崩壊しつつあった。そして、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで形勢は逆転する。徳川家康が新たな天下人となり、秀頼たち豊臣家は大坂城とその周辺を治めるだけの一大名に転落したのである。まだ幼児に過ぎなかった秀頼の立場は、本人の意思と無関係に歴史の急流に翻弄されていった。

家康との対面

難しい立場の中で成長していった秀頼は、慶長8年(1603年)に家康の孫の千姫と結婚、慶長10年(1605年)に家康の六男松平忠輝と面会するなど、公の場に徐々に登場してくるようになる。

そして慶長16年(1611年)、遂に徳川家康と京都二条城で直接対面した。すでに18才に成長しており、記録によれば大変な偉丈夫だったという。家康は幼年の秀頼に会っているが、秀頼からすれば初対面と言っていい相手である。秀吉子飼いの武将である加藤清正と浅野幸長が秀頼の護衛に入るほど緊迫感のある面会で、この時は何事も起こらず平穏に終了した。

とはいえ、この時点での秀頼の立場は実に微妙だった。統一政権の体をすでに獲得している徳川幕府に対し、家臣の地位を受け入れるのかどうかはっきりしておらず、一説には家康と秀頼の席次が問題になったともいわれている。この会見が大坂の陣に至る流れの中でどう位置付けられるのかは、今後の研究が待たれる。

秀頼の最期

慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘事件が勃発する。この事件は、秀頼が寄進して作られた寺院の鐘に家康を呪う文言があったという、有名な事件である。ここから家康は容赦なく秀頼を追いつめていく。

同年の11月には大阪冬の陣が始まり、休戦後すぐの慶長20年(1615年)5月に夏の陣と続く。ここに至るまでの家康の態度は強硬で、大坂方の非戦外交はほとんど効果を成さなかった。しかし秀頼最期のとき、本当に命を奪うかどうかの決断を、家康は息子の二代将軍・徳川秀忠に任せたといわれる。秀忠の下した決断が家康と同じだったのかどうかは、いまとなってはわからない。秀頼は最期、母の茶々と一緒に大坂城の山里丸で炎に巻かれながら自刃したと伝わる。

秀頼の人となりを伝える史料は少ないが、その悲劇的な最期が人々の共感を誘い、秘かに大坂城を脱出して鹿児島に逃れたという話がまことしやかに語り継がれた。また、当時6才だった秀頼の側室の娘は命を助けられ、鎌倉の東慶寺に預けられて天秀尼と名乗り、住職を務めた後1645年に同地で死去している。

悲劇の人物として語り継がれる秀頼

幼年で豊臣政権の後継者になった秀頼は、秀吉の死と関ヶ原の戦いでその立場が大きく変わってしまう。成長して公の場に出てくるようになるものの、家康の強硬策で追い詰められ、燃え落ちる大坂城と運命を共にした。鹿児島に落ち延びた伝説を生むなど、悲劇の人物として語り継がれている。


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