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「仙石秀久」秀吉最古参の家来は、後の幕藩体制で初代小諸藩主へ。

仙石秀久の肖像画

はじめ、美濃斉藤氏に仕える

仙石秀久は、斎藤道三に仕えている仙石久盛の四男として、1552年1月26日に美濃国加茂郡黒岩で誕生。 四男だったこともあり、越前の萩原国満に養子に出されていたが、兄たちが相次いで亡くなったため、仙石家に戻され家督を継いだ。このときに道三の息子である斎藤龍興に仕えた。

1564年頃に織田信長が美濃へ侵攻してくるのに伴い、斎藤家から織田家へ寝返ることになる。いち早く寝返った秀久を信長はたいそう気に入り、木下藤吉郎秀吉の家臣になるように命じた。当時の木下藤吉郎秀吉の配下は、蜂須賀小六などの野武士や半農兵がほとんどであり、秀久のような由緒ある武士の家臣はとても貴重だったこともあり、秀吉からは重用され、馬廻衆の一員として各地を転戦していくことになった。

秀吉の出世街道を一緒にひた走る

1570年におこなわれた姉川の戦いでは、浅井方の武将である山崎新平を討ち取った。この功績により羽柴秀吉から近江国野洲郡に1000石を与えられることになった。また同年に羽柴家の家臣である野々村幸成の娘、本陽院を正室に、慶宗院という甲斐国の浪人の娘を側室に迎えて10男6女を儲けている。秀吉が信長より中国攻めの命を与えられると、秀久もそれに参戦。様々な武功をたてたことから領土は4千石に増加している。

1579年には神戸の茶臼山城主となり、有馬温泉を統括する湯山奉行を兼任。1581年には淡路島に渡り岩屋城および由良城を制圧し、淡路島の国権が与えられた。1582年に本能寺の変が起こると、淡路島付近で決起を起こしていた菅達長ら討伐、淡路平定に多大な貢献をした。

合戦での失態により、改易へ

そんな順調に出世を遂げていた秀久に転機が訪れる。

九州征伐にむけて、豊臣秀吉から先陣役の軍監に任命された秀久は3000人もの兵士を率いて豊後国の府内に着陣した。 秀吉からは本陣がくるまで待機するようにいわれていたが、一向に合流しない本陣とこのままでは島津家久島津義弘に挟み撃ちにあいそうだったこともあり、秀久の独断で戸次川を渡り進軍をおこなった。そのときに島津家久が率いる10000人もの軍と遭遇し、そのまま戦闘。これが1587年1月20日におきた「戸次川の戦い」の始まりである。

はじめは秀久側が積極的に攻めたこともあり優勢であった。劣勢となった島津家久は撤退したのだが、秀久はこれを追撃して一気に決着をつけようとした。しかし逃げた先に潜んでいた伏兵によって逆に秀久側が壊滅的な被害にあって撤退することになった。

秀久は軍監役であり、撤退する軍隊を取りまとめなければならないのだが、その役目を放棄して我先に小倉城に入城。その後も防戦などを全くせずに20名程の家臣団と一緒になって讃岐国まで退却をしている。 このことが豊臣秀吉の怒りを買うことになり、自国である讃岐国を取り上げられて高野山へ追放されることになった。

復活

だが、1590年に小田原攻めが始まると、仙石秀久は美濃などにいた昔の家臣を20名ほど集め、徳川家康の助けを借りつつ浪人衆として豊臣秀吉の元に参陣した。 自ら戦の先鋒を務め、小田原城の早川口攻めでは虎口の1つを占拠する大きな武功を挙げてたこともあり、最終的には豊臣秀吉との謁見を許されて小諸城および50000石もの領地を与えられることになった。 ただし豊臣秀吉の家臣として京都にいることが多く小諸城にはあまりいなかったと言われている。

徳川幕府下で小諸藩主へ

1598年8月に秀吉が病没し、豊臣家中で対立が起こると、秀久は自身の復帰に協力してくれた家康方につくことになる。

慶長5年(1600年)に始まった関ヶ原の戦いでは、家康の息子・徳川秀忠に協力し、真田昌幸が籠城していた上田城の攻略に参加していた。このときに徳川秀忠を一刻でも早く関が原に向かわせるために、自ら真田家の人質になるなどの進言をしている。だが関ヶ原の戦いがすぐに終わってしまい、間に合わなかった徳川秀忠は家康から厳しい叱責を受けたが、秀久は身を挺して秀忠を弁明している。 そうした仙石秀久の様子に感銘を受けた徳川秀忠は自信が将軍になると、秀久が江戸に参府する時に妻子の同伴を認めたり、江戸にはいるときには幕府からの上使が必ず板橋宿まで迎えにくるなどの特別扱いをした。

小諸藩主になった秀久は、領地の開拓や整備に取り組んだ。具体的には八幡宮の勧進や街道での伝馬制度の設立、宿場街の整備などをおこない、特に笠取垰と小諸城および城下町までの街道を開拓、整備したのは仙石秀久の大きな功績と言えるだろう。また、小諸城の大改修にも着手し、当時の最新技術を用いて大手門や黒門、二の丸の増築をおこなった。

1614年に江戸から小諸城へ戻る途中、鴻巣あたりで病に倒れて、同年の5月6日に死去。享年64歳であった。遺骨は小諸にある西念寺で荼毘に付されて芳泉寺に葬られたが、なくなった場所である鴻巣・勝願寺にも分骨されたらしく、真田信之の正室である小松姫のお墓のそばに遺骨を収めたお墓が存在している。なお家督は三男である仙石忠政が継ぐことになった。


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