丁寧に歴史を追求した "正統派" 戦国Webマガジン

「宇喜多秀家」秀吉の養子になるも、関ヶ原後は八丈島へ配流の憂き目に。

宇喜多秀家の肖像画

豊臣秀吉には何人かの子供がいた。後継者となり大坂の陣で果てた豊臣秀頼がよく知られているが、実は秀頼の他にも複数の子供がいた事はあまり知られていない。秀吉は成り上がりだったために、他の大名のような一族衆や譜代の家臣がほとんどいなかった。そのため、姉の子供や妻のおねの親族を集めて養子にし、彼らを後継者候補として育てている。そのほとんどが目立った活躍をできず歴史の中に埋没していったが、養子の一人である宇喜多秀家は違った。 秀家は秀吉の血縁者ではなく、元は赤の他人である。しかし、秀吉の有力な一族として育てられ、後継者候補の養子たちの中で最も秀吉のために働いたと言っていいだろう。 備前宰相と呼ばれ将来を嘱望されていた宇喜多秀家の数奇な人生とは、どんなものだったのだろうか。

備前宰相秀家

宇喜多秀家は、元亀3年(1572年)に現在の岡山県にあたる備前の国で生まれた。父は下克上の体現者の一人に数えられる戦国大名・宇喜多直家である。直家は東の織田と西の毛利の二大勢力の狭間にあって、織田と結び毛利と対抗した。このとき織田方の対毛利指揮官だったのが羽柴秀吉、のちの豊臣秀吉である。

直家と秀吉が同盟関係にあったため、父直家の死後、当時まだ10歳だった秀家は秀吉の後見を受けて宇喜多家の家督を継いだ。病の床で直家は、秀家の行く末を秀吉に懇請したと伝わる。
翌年の天正10年(1582年)に本能寺の変が勃発し、秀吉が織田政権の跡を引き継ぐと、秀吉は直家との約束を守って宇喜多家を厚遇し、自らの名から一文字与えて「秀家」の名で元服させ、豊臣一族の一人として扱った。さらに、実父は前田利家で秀吉の養女になっていた豪姫を、秀家にめあわせている。正式に秀吉と姻戚関係になった秀家は、10代のうちから豊臣政権の重鎮の地位を確立していき、諸大名から「備前宰相」と呼ばれ敬意を払われる存在になっていく。

戦場での活躍と暗雲

秀吉の他の養子や一族衆と異なり、秀家は戦場でも活躍した。若干13歳で参陣した天正12年(1584年)の小牧長久手の戦いに始まり、天正13年(1585年)の紀州征伐と四国攻め、天正14-15年(1586-87年)の九州島津攻め、天正18年(1590年)の小田原北条攻めと、秀吉の天下統一戦争の全てに付き従った。まだ10代半ばであり、実際の軍政は宇喜多家先代からの重臣である戸川達安や岡貞綱が担っていたと思われるが、戦場経験は歴戦の戦国大名たちに肩を並べるほどになっていく。

秀吉の信頼は益々厚くなり、文禄元年(1592年)から始まる文禄の役、そして慶長2-3年(1597-98年)の慶長の役では大将として出陣。小早川隆景や毛利秀元らと戦場を疾駆し、碧蹄館の戦いや南原城攻略に力戦した。秀吉の養子たちの多くが戦場ではほとんど活躍を見せなかったのに比べ、秀家の戦功は突出しており、五大老のひとりに列せられるなど、当時の豊臣政権で将来を嘱望されていたのは間違いない。だが慶長の役の最中に秀吉が世を去ると、秀家の未来に暗雲が立ち込める事となる。

西軍の主力になる

秀吉の死で豊臣政権が大きく揺らぐと、慶長4年(1599年)に「宇喜多騒動」が起こる。翌年に宇喜多家は滅亡してしまうためこの騒動の実態はよく分かっていないが、まだ若い秀家と戸川達安や岡貞綱ら重臣たちの間の軋轢が発端だったようだ。両者の対立は大坂市街での武力衝突寸前にまで及び、徳川家康の重臣榊原康政が調停に入っても収まらず、結果的に重臣の多くが秀家のもとを離れて宇喜多家の弱体化を招いた。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いを迎えると、秀家は迷わず石田三成の西軍方に付いている。他の諸将が去就を決めかねる中、秀吉の膝下で育った秀家に迷いはなかった。東軍方の伏見城、伊勢長島城を主力となって攻め、9月15日の決戦当日には西軍最大の勢力1万7千人を率いて関ヶ原に布陣した。

流人としての半世紀

関ヶ原で福島正則らの東軍部隊と激戦を繰り広げた秀家だったが、同じ秀吉の養子である小早川秀秋の裏切りで西軍は敗れる。秀吉の養子や一族で、最後まで豊臣家の為に戦ったのが外戚の秀家だったのは、皮肉と言えよう。秀吉存命中は50万石を超える所領を持ち、政権の一翼を担った秀家は流亡の人となる。辛くも関ヶ原の戦場を脱して遠く薩摩の島津家のもとに逃げ延びるも、徳川幕府を恐れた島津家に罪人として差し出され、駿河の久能山に幽閉されたのち、慶長11年(1606年)に八丈島に流罪となる。関ヶ原の敗戦から6年、35歳の事だった。

秀家はこののち、非常な長命を得た。亡くなったのは84歳。本土に戻る事なく、半世紀を八丈島で過ごしている。戦国の争乱は遥かに遠く、時の将軍は四代家綱になっていた。関ヶ原の戦場に立った最後の人物であったが、島での暮らしを物語るエピソードは日常感があり、秀家の前半生と対照的なものが多い。釣りを好んだ秀家が通ったという海岸には、流人となった後も仕送りをして夫を支えた妻豪姫と二人、故郷岡山の方角を向いて並ぶ石像が建てられている。


 PAGE TOP