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「細川ガラシャ」波乱万丈!本能寺がもたらした光秀娘の生涯とは?

明智光秀の娘として生まれ、細川忠興に嫁いで順風満帆な人生のはずが本能寺の変で全ては暗転。 キリシタンとして武家の妻として、人質になることを拒み、小笠原少斎の手を借りて自害、オルガンティノに埋葬されるまでの壮絶な生涯は関ヶ原の戦いにも影響を与え、耐え忍ぶだけではない強靭な女性の鮮烈な印象を今に伝える。

順風満帆の門出

後に細川ガラシャと呼ばれる明智珠(あるいは玉)は、永禄6年(1563年)、越前国において明智光秀と妻・煕子の間に生まれた。このときの光秀はまだ織田信長の家臣ではなく、妻木城主・妻木広忠の娘であった煕子が苦労して夫を支えた逸話が残されている。

珠が15歳に成長した天正6年(1578年)、信長の計らいにより、同じ織田臣下の細川藤孝の息子・細川忠興(17歳)の元に輿入れした。光秀の盟友であった細川藤孝は武人としてばかりではなく、当代きっての文化人としても知られ、息子の忠興ものちに利休七哲の一人に数えられるほどの文武両道の傑物として名を遺した。美男美女の若夫婦は仲睦まじく、翌年には長女・おちょう、翌翌年には長男・忠隆の子宝に恵まれている。この先も順風満帆の人生が続くはずであった──。

暗転!本能寺の変

ところが、天正10年(1582年)の6月、突如として全てが暗転する。父の光秀が本能寺の変で主君である信長を殺害してしまったのである。理由は今もって不明である。光秀は古くからの盟友で苦労を共にしてきた細川藤孝に繰り返し協力を要請するが、藤孝はなかなか応じず、遂には頭を丸めて隠居してしまった。家督を継いだ娘婿の細川忠興も同様に協力を拒み、妻の珠を丹後国の味土野に幽閉する。

最も頼りにしていた細川家の助力を得られなかった光秀は、やがて山崎の戦い羽柴秀吉に敗れて死ぬ運命を甘受するしかなかった。珠は輿入れの際に実家から連れてきた侍女たちや細川家の親戚筋にあたる公家の清原枝賢の娘(後のマリア)だけを頼りに天正12年(1584年)まで幽閉生活を続けることになる。

一筋の光明キリシタンへの改宗

やがて信長の天下統一事業を受け継いだ秀吉の口添えもあり、珠は幽閉を解かれて細川家の大阪屋敷に移され、次男・興秋も生まれる。次いで三男・忠利も生まれたが、病弱で心配が絶えなかった。そのことやこれまでの苦労が重なって、かねてから興味を持っていたキリスト教に傾斜していったとも言われているが、定かではない。

天正15年(1587年)、夫の細川忠興が九州征伐で留守にしている隙にお忍びで教会を訪れる。応対したコメリ神父は彼女の聡明さに打たれるが、正体不明の貴婦人の背後にいる権力者との軋轢を恐れ、彼女が望んだその場での洗礼は一旦、断った。しかし、彼女の正体が明らかになった後も、侍女を通して珠と教会の交流は続けられ、珠は幽閉時代にも変わらず彼女を支えてきた侍女たちを次々に受洗させていった。そして、遂に清原マリアの手によって珠自身も受洗を果たし、ガラシャの洗礼名を授かった。

頑強な信仰者夫との軋轢と複雑な愛憎関係

当時、すでに秀吉によるバテレン追放令が発令された後だったが、ガラシャは娘たちにも受洗させ、屋敷内に小聖堂まで作ってしまった。夫・忠興は一流の文化人としての顔を持つ一方で、敵ばかりでなく身内にさえ容赦しない酷薄な性格で、若いころから周辺の人物に心配され、恐れられてもいた。反抗的な態度のガラシャに対しても棄教せねば侍女の鼻をそぐと言って脅し、実行にも移したが、ガラシャは一歩も引かず、ついに黙認するしかなくなったという。
その後も夫の執拗な嫌がらせが続き、ガラシャは離婚を考えて宣教師に相談したが、教義で禁じられていると説得されて思いとどまった。一方、朝鮮戦役の際、夫・忠興がガラシャに宛てた手紙の内容からはまだ彼女に対する未練が残っている様子もうかがえる。

ガラシャの壮絶な最期!関ヶ原前夜

やがて豊臣秀吉も没し、豊臣家中は二分されて対立。慶長5年(1600年)7月、細川忠興は今度は徳川家康に従って会津の上杉討伐に赴くことになる。当時の武家の習いとして妻の身に危険が迫ったときは、まず妻を殺してから全員切腹して果てよと家老・小笠原少斎をはじめとする留守居たちに言い残しての出陣だった。

出陣後まもなく石田三成率いる豊臣方が大阪で挙兵し、ガラシャを人質に取ろうと屋敷を囲んだ。ガラシャはまず侍女たちを逃がしてから、小笠原少斎に命じて夫の命令を実行させた。小笠原少斎はキリシタンとして自殺を許されないガラシャの胸を突いて殺し、彼女の遺体が敵に渡らぬよう爆薬に着火した後、自害して果てた。しばらくして焼け跡に駆けつけたオルガンティノ神父がガラシャの遺骨を収集し、堺のキリシタン墓地に葬った。

翌年には細川忠興がオルガンティノにキリシタン式の葬儀を依頼し、自らも参列した。あまりに劇的な彼女の死にざまは効果が絶大で、反発を恐れた西軍は以後の人質作戦を控えることを余儀なくされ、天下分け目の関ヶ原の戦いの趨勢にも大きな影響を与えることになった。

異説とまとめ。強靭な女性像

ガラシャの遺骨はキリシタン墓地から仏教の寺に改葬されたとされるが、いくつか墓所だと伝わるものがある。ガラシャの最期に関しても小笠原少斎の手にかかったのではなく、武家の女らしく自害したのだとか、自害の前には自ら幼い子供たちを殺めただとか、侍女の何人かは殉死しただとか、様々な異説を記した文書も存在する。

長男・忠隆の正妻・千世は屋敷から逃れたが、細川忠興は許さず、離縁に抵抗した忠隆まで廃嫡してしまった。忠利が家督を継いだが、それに対して興秋が反発し、大坂の陣では敵の豊臣方についた。息子たちも父の血を継ぐ激しい性格だったことがうかがわれる。またそれは母も同様で、悲劇的な忍従の人という印象が強調されることが多いが、ガラシャ自身も負けず劣らず苛烈な性格の持ち主だったらしい。キリシタンに改宗する前は特に激しやすかったと言われ、それを裏付けるような逸話がいくつも残されている。真偽のほどは疑わしいが、記録に残った彼女の行動だけでもその強さは十分に伝わってくる。


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