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「木下家定」秀吉の正室 ”おね”(=のちの北政所、高台院)の異母兄

木下家定の肖像画
木下家定は秀吉の一門衆で、秀吉の正室・"おね" の異母兄で知られる。

家定は天文12年(1543)、杉原定利の長男として誕生し、はじめは "杉原孫兵衛" を名乗った。
残念ながら、彼の前半生はほとんどわからず、武将として活動記録もない。

妹の "おね"(=のちの北政所、高台院)が木下藤吉郎(=のちの羽柴秀吉)に嫁いだことが縁となって、木下の姓を与えられたといい、また、おねとは5歳違いの異母兄妹であるという。

信長の死後、天下統一事業を継承した秀吉によって、天正13年(1585)に和泉国に所領を与えられたとみられる(『天正記』)。また、『木下家文書』によれば、天正15年(1587)に播磨国で黒田惣吉・森吉成・戸田勝隆の旧領 1万1342石の知行を拝領して姫路城に入ったとも伝わる。

その後、天下統一が成り、はじめての朝鮮出兵の年となった文禄元年(1592)には、従五位下肥後守に叙任しており、文禄4年(1595)には加増され、合わせて2万5千石を領するまでに至っている。また、しばしば大坂城の留守居役を務めたとされている。

秀吉死後の慶長5年(1600)における関ヶ原合戦では、中立を保ち、妹・北政所の護衛にあたるなどして参戦しなかったようだ。戦後には播磨国・姫路から備中国・足守城2万5千石へ移封となった。

慶長9年(1604)には出家して "常英" と号し、朝廷から二位法印に叙された。また、このころに高台院(=妹の北政所)の所領・摂津国平野庄1万6千石余の代官となって管理を任されている。

家定は領国の備中足守にいることは少なく、京や大阪に居住していたといい、晩年には病床の家定を高台院がたびたび見舞いに訪れたという。

1608年(慶長13年)に京都で死去。


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