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木下家定

木下家定(きのした いえさだ、1543-1608年)は秀吉の一門衆であり、秀吉の正室・おね(=のちの北政所、高台院)の異母兄。

妹が秀吉と結ばれたことが縁で木下の姓を与えられ、秀吉に仕えるようになる。
豊臣政権下では姫路城に入り、従五位下肥後守に叙任した。

関ヶ原では中立を保って妹・北政所の護衛にあたったといい、戦後は減封されずに備中足守へ移封となった。

江戸時代には足守藩の初代藩主となった。

経歴

1543年(天文12年)、杉原定利の長男として誕生。初めは "杉原孫兵衛" を名乗った。

妹のおね(=のちの北政所、高台院)が木下藤吉郎(=のちの秀吉)に嫁いだことが縁で、木下の姓を与えられたという。 また、家定とおねは5歳違いの異母兄妹であるという。

家定の初期の経歴はほとんどわかっていない。

1585年(天正13年)には和泉国に所領を与えられたとみられる(『天正記』)。
また、『木下家文書』によれば、1587年(天正15年)に播磨国で黒田惣吉・森吉成・戸田勝隆の旧領 1万1342石の知行を拝領して姫路城に入ったと伝わる。

秀吉が天下統一後に朝鮮出兵を行なった1592年(文禄元年)には従五位下肥後守に叙任しており、1595年(文禄4年)には加増され、合わせて2万5千石を領するまでに至っている。また、しばしば大坂城の留守居役を務めたとされている。

秀吉の死後、関ヶ原の戦い(1600年)では中立を保っており、妹・北政所の護衛にあたるなどして参戦しなかった。戦後には播磨国・姫路から備中国・足守城2万5千石へ移封となった。

1604年(慶長9年)には出家して "常英" と号し、朝廷から二位法印に叙された。
また、このころに高台院(=妹の北政所)の所領・摂津国平野庄1万6千石余の代官となって管理を任されている。

家定は領国の備中足守にいることは少なく、京や大阪に居住していたといい、晩年には病床の家定を高台院がたびたび見舞いに訪れたという。

1608年(慶長13年)に京都で死去。


略年表

  • 1543年(天文12年)、杉原定利の長男として誕生。
  • 1585年(天正13年)、和泉国に所領を与えられる
  • 1587年(天正15年)、播磨で1万1342石の知行を与えられ、姫路城に入る
  • 1592年(文禄元年)、従五位下肥後守に叙任する
  • 1595年(文禄4年)、加増されて姫路城主2万5,000石を領する
  • 1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いでは中立を保った
  • 1604年(慶長9年)、二位法印に叙される
  • 1608年(慶長13年)、死去


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