あなたの好きな戦国武将が詳しく丸ごと早わかり! 最大級の戦国まとめサイト

北条氏政

北条氏政(ほうじょう うじまさ、1538-1590年)は後北条氏の第4代当主。父は北条氏康、母は今川氏親の娘・瑞渓院。

経歴

北条当主・北条氏康の次男だが、長男・新九郎が早世したために世子となる。甲相駿三国同盟(1538年)が成立した際に、信玄の娘・黄梅院を正室に迎えた。のちに父の隠居により、北条家の第4代当主となるが、父・氏康はそのまま実権を握り、両頭体制とした。

氏康時代には上杉謙信や関東諸将との戦いで各地を転戦。
小田原城の戦い(1561年)では父・氏康の主導のもとで小田原城に籠もり、撃退に成功。第二次国府台合戦(1564年)では北条綱成と共に里見軍の背後を攻撃して勝利した。その後、上野の由良成繁・佐野昌綱・北条高広らが氏政に帰順し、上野に勢力を拡大。しかし、三船山の戦い(1567年)では上総国の奪還をねらう里見氏を迎え撃ったが敗北している。

信玄の駿河侵攻(1568-70年)が開始されると、信玄とは手切りとなり、代わりに上杉謙信と越相同盟(1569年)を締結。同年、武田軍の小田原城包囲では父・氏康とともに籠城戦で撃退。しかし、続いて武田軍を追撃した三増峠の戦い(1569年)では挟み撃ちを試みたが失敗して敗戦となった。

氏康死後、父の遺命で信玄との同盟を復活させ、同時に謙信との越相同盟を破棄した。 その後、謙信と再び対立するものの、謙信の関心は越中国にあったため、大きな合戦はなく、やがて上杉派の勢力を関東からほぼ一掃。宿敵・里見氏とも房相一和(1577年)で和睦。

その後、御館の乱(1578-79年)で弟・景虎が敗死したため、武田との同盟を破棄し、徳川家康と同盟を結んで駿河の武田領を挟撃した。1580年(天正8年)には織田信長への臣従を示し、自らは実権は掌握しつつも隠居。

甲州征伐(1582年)では信長に呼応して駿河に侵攻している。しかし、本能寺の変(1582年)で信長横死すると、織田領で旧武田領でもある上野国・信濃国・甲斐国の制圧を家臣らに命じた。この天正壬午の乱と呼ばれる戦いで旧武田領は上杉景勝・徳川家康・旧武田の国衆らとの争奪戦となり、最期は徳川家康と和睦し、信濃国・甲斐国は徳川領、上野国を北条領とした。
以後、勢力拡大が続き、1585年(天正13年)には北条氏の勢力は相模・伊豆・武蔵・下総・上総・上野から常陸・下野・駿河の一部に及び、最大版図を築き上げた。

だが、すでに関東以西の情勢は秀吉が四国平定(1585年)、九州平定(1587年)を成し遂げ、関東・奥羽(陸奥国・出羽国)の惣無事令を発令。のちに聚楽第行幸への列席という秀吉の要請に応じなかったため、不和が生じたが、家康の仲介や弟・北条氏規が名代として上洛したことで一時的に対立を回避。

名胡桃城奪取事件(1589年)を大義名分として、秀吉による小田原征伐(1590年)がはじまると、豊臣の大軍勢を前に降伏、助命は叶わずに切腹を命じられ、自害した。

略年表

天文7年(1538年)
北条氏康の次男として誕生。
天文23年(1554年)
甲相駿三国同盟が成立し、信玄の娘・黄梅院を正室に迎える。
永禄2年(1559年)
父・氏康の隠居により、家督相続して北条家4代目当主となる。
永禄4年(1561年)
小田原城の戦いで父とともに上杉軍を撤退させる。
永禄7年(1564年)
  • 第2次国府台合戦で勝利し、上総に勢力を拡大する。
  • 同年、岩槻城主・太田氏資を調略し、武蔵国の大半の支配権を確立。
永禄9年(1566年)
由良成繁・佐野昌綱・北条高広らを帰順させ、上野国に勢力を拡大。
永禄10年(1567年)
三船山の戦いで里見氏に敗退し、上総の支配権を失う。
永禄11-12年(1568-69年)
武田信玄による駿河侵攻が開始されると、駿相同盟を優先して今川氏真を支援。信玄とは手切れとなる。
永禄12年(1569年)
  • 弟の三郎(後の上杉景虎)を謙信の養子(=人質)として差し出し、越相同盟で武田氏に対抗する。
  • 同年、信玄による小田原城攻撃を防いだ後の武田軍追撃に遅延し、弟の氏照・氏邦隊は敗退(三増峠の戦い)。
元亀2年(1571年)
父・氏康が病没し、遺言に従って甲相同盟を復活させ、越相同盟を破棄する。
元亀3年(1572年)
信玄の西上作戦に援軍を送る。
天正2年(1574年)
  • 謙信の上野進出に対して利根川で対陣する。
  • 同年、簗田晴助の下総・関宿城を攻略。
天正3年(1575年)
小山秀綱の下野・祇園城を攻略。
天正5年(1577年)
上総に侵攻し、里見義弘と和睦(房相一和)
天正6年(1578年)
上杉家の後継者争い・御館の乱では弟の景虎を援助。
天正7年(1579年)
弟の景虎が家督争いで敗戦して自害。これをきっかけに甲相同盟を破棄し、三河の徳川家康と同盟を結ぶ。
天正8年(1580年)
  • 武田勝頼との戦いで上野国で劣勢に陥り、天下統一に近付く織田信長に臣従を申し出る。
  • 同年、子の氏直に家督を譲って隠居。
天正10年(1582年)
  • 甲州征伐では信長に呼応して駿河への侵攻を行なう。
  • 同年、本能寺之変で信長が横死すると、氏直軍を上野に侵攻させ、滝川一益を敗走させる(神流川の戦い)。
  • その後、徳川・上杉・真田らと武田旧領争奪戦を繰り広げ、最終的に氏直と家康の娘を結婚させることで和睦(天正壬午の乱)。
天正11年(1583年)
  • 古河公方・足利義氏が死去すると、官途補任により権力を掌握。
  • 武蔵の江戸地域、岩付領の支配を掌握し、利根川水系と常陸川水系の支配を確保する。
天正13年(1585年)
下野の南半分、さらに、常陸南部にも勢力を及ぼし、北条氏の最大版図を築く。
天正15年(1587年)
台頭した秀吉が関東・奥羽の惣無事令を発令。氏政はこれに従わずに戦いを続ける。
天正16年(1588年)
秀吉から聚楽第行幸への列席を求められるも、これを拒否。しかし、8月には北条氏規が上洛して秀吉に謁見し、豊臣政権への従属する。
天正17年(1589年)
名胡桃城奪取事件で秀吉から上洛要請を受けるも、自らは上洛せず、家臣の板部岡江雪斎を出頭させる。
天正18年(1590年)
秀吉による小田原征伐によって降伏し、戦後に切腹を命じられて死去。享年53。


あわせて読みたい
北条氏康の家紋
北条氏康トップ / 入門

 PAGE TOP