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「北条幻庵」北条五代に仕え、僧にして家中で絶大な力を誇った重鎮。

北条幻庵の肖像画
戦国時代において関東の覇者として知られる小田原の北条氏。その一族を初代の北条早雲から5代にわたって支え続けてきたのが北条幻庵(げんあん)である。ここではそんな幻庵の生涯や人物像について、詳しく見てみよう。

誕生から出家まで

北条幻庵は明応2年(1493年)に、北条早雲の三男として誕生した。幼名は菊寿丸。なお実母は、葛山氏から嫁いできた、側室の栖徳寺殿である。

末子であり側室の子でもあった幻庵は、幼くして箱根権現社の別当寺である金剛王院へ送られ、早々に仏門の世界に入った。しかしこれには、父・早雲の意図が隠されていたと言われる。すなわち関東支配を目論む早雲が、当時から関東武士にとって有力な信仰の対象であったこの寺院を掌握するために、子の幻庵を入寺させたという。

永正16年(1519年)には僧籍の身でありながら、父・早雲から4400貫もの所領が与えられており、このことからも単なる僧侶ではなかったことがうかがえるだろう。その後、近江の三井寺へ修行のために移ると、大永4年(1524年)に出家。翌年には箱根へ戻り、40世別当として天文7年(1538年)まで在職したとされる。なお、別当に就任した当初は北条長綱を名乗り、途中からは「宗哲」と名乗っている。さらにこれが隠居後には「幻庵宗哲」へ変わり、やがて北条幻庵の俗名で世間に知られるようになったことは、覚えておくとよいだろう。

武将・政略家としての幻庵

表向きは僧侶として活動していた幻庵であったが、馬術や弓術にも優れ、特に弓術については達人として知られていた。実際に戦場へも参加しており、天文4年(1535年)8月に勃発した武田信虎との "甲斐・山中の戦い" や、同年10月の上杉朝興との "武蔵・入間川の戦い" などは、武将として活躍した代表的シーンである。

天文10年(1541年)になると、北条二代目当主で兄でもある北条氏綱が病死し、さらに翌年には氏綱の三男・為昌も亡くなる。この頃を境目にして幻庵は、武将あるいは政略家としての性格をますます強めていくことになる。

まず小田原・久野の地に拠点を構えた上で、為昌に従っていた三浦衆や小机衆を指揮下に置くようになった。さらに「静意」の印文が刻まれた、通称「久野御印判」を使用し始め、自らの権威高揚と支配地強化に乗り出した。実際、永禄2年(1559年)に作成された『小田原衆所領役帳』によると、その所領は家中で最大の5457貫86文を領有しており、2番目に多い松田憲秀(2798貫110文)の倍近くという圧倒的なものであった。

また北条一門の長老格として、人事面などでも隠然たる力を示すようになった。例えば、北条三代目当主であった北条氏康の弟・氏尭を小机城主にしたり、永禄4年(1561年)3月の上杉謙信との「曽我山の合戦」では、戦功のあった武将への賞与を氏康へ直言している。

文人としての幻庵

一方、幻庵は高い教養のある文人としても有名である。

もともと小田原北条氏のルーツは、室町幕府で政所執事を世襲してきた名門官僚の伊勢氏。武家の礼法である「伊勢礼法」を創始した、有職故実の一族でもある。同じ血の流れる幻庵もご多分に漏れず、和歌や連歌をはじめ、作庭や尺八作りあるいは鞍鐙作りなど、幅広く多彩な才能を発揮していたようだ。

特に尺八作りでは、「幻庵切り」と命名された独特の一節切り尺八を自作した上、伊豆の修善寺近郊で作曲から演奏まで行ったと言われる。また鞍鐙作りの名人としても、「鞍打幻庵」と呼ばれるほどの手先の器用さを見せている。さらに北条五代の菩提寺である早雲寺の庭園も、幻庵が作庭したものである。また、北条氏康の娘が吉良家に嫁ぐ際には、礼儀作法の心得を記した「幻庵おほへ書」を執筆して送っている。
この他にも狩野派の絵師たちとの交流や、天文3年(1534年)に冷泉為和を招いて歌会を催してみたり、天文14年(1545年)2月には連歌師の宗牧と小田原で連歌会を開いている。このように幻庵が有職故実や古典的教養に長けた、優れた文化人であったことは明らかなようだ。

幻庵の逝去、そして北条氏の滅亡

そんな幅広い活躍を見せていた幻庵であったが、武田信玄による駿河侵攻をきっかけに武田・北条・今川の三国同盟が崩壊し、武田氏と敵対関係になると、永禄12年(1569年)12月には武田勝頼を総大将とした甲斐勢との "蒲原城の戦い" において、次男の綱重、そして三男の長順らを相次いで失ってしまう。そこで同年に幻庵は氏康の七男・三郎(のちの上杉景虎)を養子に迎えて家督と小机城主を譲り、自らは隠居した。しかし、この後まもなく越相同盟が成立し、三郎が人質として上杉謙信に養子入りすると、大甥である氏光に小机城を引き継がせて、家督を孫の氏隆に譲っている。隠居後は長年の拠点である小田原・久野の屋敷で、穏やかな晩年を過ごしたようである。

そして天正17年(1589年)11月1日、ついに逝去する。享年は97と言われるが、その信憑性は疑問視されており、生年・没年ともに諸説あって定かではない。いずれにせよ、北条一門を五代にわたって支え、当主や家臣団に対しても隠然たる力を保有していたのは事実であり、また当時として長寿であったことも確かなようだ。
そして幻庵が亡くなった9ヶ月後の天正18年(1590年)7月、豊臣秀吉の小田原征伐によって北条氏そのものが滅亡してしまったのは、なんとも皮肉なことである。


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