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「三船山合戦」北条、大軍投入でも安房里見氏を降せず。
──永禄10年(1567年)

三船山合戦は、上総国君津郡三船台において、北条氏政が安房国の戦国大名・里見義弘と戦った合戦である。

合戦の背景

安房里見氏は、里見義堯が天文2年(1533年)に家中の内紛で勝利して家督を継承して以降、北条氏とは友好関係にあったが、真里谷氏で家督争いが生じると、両者はそれぞれ別の後継者候補を支持して敵対関係となった。

その後、義堯は積極的に進出して上総の久留里城を本拠とし、里見氏の最盛期を築き上げている。しかし一方では北条氏が今川・武田と三国同盟を締結。これによって里見方の国人勢力の多くが北条方へと寝返り、弘治元年(1555年)には上総西部の大半が北条氏の支配下となってしまう。

里見氏は北条への対抗措置として越後の上杉氏と同盟を結んだものの、永禄6-7年(1563-64年)の第2次国府台合戦では北条氏に大敗。戦後、勢いに乗った北条氏の上総北部・西部への進出を許す結果となった。なお、さらに上総東部において、北条は里見氏の重臣・土岐為頼、正木時忠らを降伏・帰属させている。

上総国の多くを失った里見氏だが、6代目当主の里見義弘が力を養って徐々に上総南部を奪回。これに対して北条方は、永禄10年(1567年)に佐貫城攻略のため、三船山の山麓にある三船台に砦を築いて陣を構えた。佐貫城の目と鼻の先に砦を築かれた義弘は危機感を覚え、三船台に陣を構える北条方を奇襲しようと画策。それを事前に察知した北条方の藤沢播磨守が北条氏康に援軍を要請したことで三船山合戦がはじまる。

合戦の経過

同年8月、援軍要請を受けた氏康は、子の北条氏政や太田氏資らを派遣。江戸湾を渡海させて佐貫城攻撃に、一方で北条氏照と原胤貞を別働隊として市原方面から里見義堯の守備する久留里城への攻撃に向かわせた。これに対して義堯は城の守りを固める一方、子の里見義弘と正木憲時を佐貫城から出陣させる。

約3万もの大軍を率いてきた氏政が三船山の山麓三船台に着陣すると、里見義堯は城の守りを固める一方で、義弘を虚空蔵山に着陣させ、三船山北方の八幡山に別働隊の陣を敷いて北条方を挟み撃ちにしようと画策。これに加えて正木憲時の兵約8千を佐貫城から出撃させて正面から北条方を攻めた。

北条軍が障子谷の深田に落とした所に里見の別働隊が襲撃。この作戦が成功して、北条方は殿を務めた太田氏資が討ちとられるなど、手痛い敗北を喫することになった。この野戦と平行して水上でも両水軍が激しく戦っていたようだが、勢いにのった里見軍が追撃する姿勢を見せたため、北条方はやむなく全軍撤退となった。

戦後

この戦いにおける北条方の死傷者は2千5百ほどとされている。なお、三船山合戦に勝利した里見氏は上総国での支配を固め、下総まで支配を広げていくことに。また、北条方に属していた国衆らを再び味方につける事にも成功し、正木時忠や土岐氏も里見氏に帰参している。

北条軍の敗北により、常陸国の佐竹氏が北条氏から上杉氏へと同盟相手を変えるなど、関東における勢力図にも影響を与えることとなったのである。


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