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「大道寺政繁」御由緒六家という名門の出。内政・軍事両面で活躍。

北条家の家臣と言えば「地黄八幡」で知られる勇将の北条綱成が有名だが、一方で大道寺政繁は北条氏の内政・軍事両面を支えた譜代の重臣として、戦国期においても進んだ政策を行っていたことで知られている。

北条氏の名門譜代の出身

ある若者が駿河に下向する際、6人の仲間と神水を酌み交わし、「この中の誰か一人がいち早く大名になったら、他の者はその家臣になろう」と誓い合った。その後、その若者は伊豆を制圧して世に出てくることになる。
この若者というのは、北条早雲を指すが、この時に若き早雲と神水を酌み交わした6人の仲間の1人が大道寺重時だといい、のちに早雲が戦国大名になると、家臣として仕えて "御由緒六家" の一家として重きをなした。大道寺一族は代々北条氏の宿老的役割を務め、主に武蔵国の河越城代を務めていたらしい。

大道寺政繁はこの大道寺重時の子孫とされ、天文2年(1533年)に誕生したという。政繁の父親については諸説あり、重興や盛昌などが候補として挙がっているが、いずれも定かではない。

この頃、北条氏は早雲から子で二代目の北条氏綱に代替わりしており、天文6年(1537年)の川越夜戦で関東諸将連合軍に勝利するなど関東の覇権を確立し始めた時期であった。このとき14歳の政繁は川越夜戦に参戦し、上杉憲政の家臣・本間近江守の一騎討ちに勝利するという武功を挙げたと伝わる。近江守は政繁に自身の馬印である「九つ提灯」を政繁に託して撃たれたといわれており、これは馬印の発祥になったといわれている。

政繁の前半生についてはほとんどわかっていないが、その後は河越城の城代を勤め、川越城周辺の武士団をまとめた川越衆を率いて合戦に参加したとみられる。永禄12年(1569年)に行なわれた武田信玄との三増峠の戦いなどに従軍していたようだ。

武田旧領の争奪戦で活躍

天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変で織田信長明智光秀に討たれたことは有名だが、その後すぐに、織田領となってまだ日の浅かった旧武田領の信濃・甲斐・上野の三国が草刈り場となり、隣接する徳川・上杉・北条らが合戦を繰り広げたことは意外と知られていない。

北条氏政は信長の死を知ると、すぐに西上野へ侵攻を開始する。天正壬午の乱と呼ばれるこの3つ巴の争いで、西上野へ入った北条軍は神流川の戦いで織田重臣の滝川一益を撃破、その後は甲斐・信濃へと進軍していくが、政繁もこれに従軍しており、やがて戦いの最前線である信濃国小諸城を守備して、徳川家康と対決することになる。

当初は信濃の有力国衆である真田昌幸が味方についたことで、戦闘はおおむね北条氏優位に運んでいたが、北条氏は8月12日に甲斐方面の黒駒の戦いで徳川家臣の鳥居元忠に敗北。北条家から離反する信濃国人衆も現れ、9月末にはついに真田昌幸までもが徳川に寝返り、戦いの終盤となった10月には、信濃佐久郡の情勢が劣勢となって小諸城が孤立、政繁は絶対絶命の窮地に立たされた。

だが、やがて北条と徳川の講和交渉がはじまり、信濃と甲斐=徳川、上野=北条という領土分けにすること、家康の娘を北条氏直に娶らせること等を条件として10月29日に和睦に至った。政繁は最後まで城を守り抜いたのである。ちなみに、政繁は戦後もしばらく小諸城に留まって抵抗を続け、上野国へ撤退したのは翌年2月であった。

ところで、政繁は城代を勤めていた河越城において優れた内政手腕を発揮している。金融業を行う商人を積極的に誘致したり、掃除奉行や火元奉行を置いて城下町の発展を促すとともに、天正12年(1584年)には坂戸宿を開き、坂戸市と川越市の発展の基礎を築いた人物としても知られている。

北条滅亡とともに…

やがて天下の趨勢は信長の天下統一事業を引き継いだ豊臣秀吉に傾き、北条も豊臣に服属することになるのだが、ここで先に述べた天正壬午の乱の和睦条件が北条滅亡の遠因となる。和睦条件では上野国は北条のものとなっていたが、上野沼田領は真田昌幸が押さえており、この条件に従わずに北条と真田は沼田領を巡って戦い続けていたのである。

この沼田地区の帰属が明確になっていなかったため、天正17年(1589年)に秀吉が介入して沼田領の分割を裁定したが、その直後に真田方の名胡桃城を北条家臣が奪い取る事件が勃発。これに激怒した秀吉が翌天正18年(1590年)に小田原征伐を開始する。

当時、上野・松井田城代となっていた政繁は、中山道を通ってくるであろう豊臣軍に対抗するため、碓氷峠で豊臣の大軍を迎撃したが、圧倒的な兵力差から敗北し、ついには居城の松井田城を包囲されて降伏を余儀なくされた。その後は一旦助命されて豊臣軍の道案内をさせられ、北条氏の拠点攻略に貢献する形となったが、北条滅亡後には、開戦の責任を咎められて切腹を命じられ、最期は川越城下の常楽寺で自害した。享年58。

なお、戦後には家康の懇願もあって政繁の子供たちは助命された。嫡男の直繁は、助命された北条五代目の北条氏直に付き従って高野山へいったが、氏直の死去後には家康の元へ戻っている。直繁をはじめとする政繁の子供らは江戸時代に活躍し、幕末まで家名をつなげている。


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