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北条氏規

北条氏規(ほうじょう うじのり、1545-1600年)は北条氏の家臣で北条氏康の五男。越後・上杉謙信や甲斐・武田勝頼、本能寺の変後の徳川家康、奥羽の伊達氏や関東の蘆名氏との外交・同盟において取次を務めるなど、外交面で秀でた手腕を発揮した人物。

経歴

天文14年(1545年)、氏規は北条氏3代当主・北条氏康の五男として誕生。
母は氏康正室の今川氏親の娘であり、幼名を "助五郎(すけごろう)"といった。

人質生活で意外な人物と出会う

幼少の頃に今川氏の人質として祖母の寿桂尼に預けられて以来、駿府(=駿河国府中の略。現在の静岡県静岡市葵区)で生活を送っている(『言継卿記』)。当時、今川氏当主であった今川義元は叔父にあたる。

当時は徳川家康も今川の人質として駿府におり、氏規の隣屋敷に住んでいたといわれている(『武徳編年集成』)。

外交官として能力を発揮

永禄年間(1558-70年)には北条氏の本拠・小田原に戻っており、やがて室町幕府の相伴衆になったようである。
※ 相伴衆は管領家の一族や有力守護大名のみが就くことのできた幕府の職であり、将軍が殿中における宴席や他家の訪問の際に付き従うなどした。

時期はよくわかっていないが、氏規は北条綱成の娘を娶り、相模国三浦郡の支配権を引き継ぐと、三崎城主として三浦郡一帯を支配し、「真実」の印判を使用し始めたという。
また、里見氏との外交交渉や長南武田氏の奏者を務めるなど、房総半島との関わりもうかがえる。

永禄12年(1569年)には武田信玄が徳川家康と密約を結んで駿河今川領への侵攻を開始した際には、伊豆国韮山城に入り、家康と同盟交渉にあたっている。これは氏規が幼年期から家康と旧知の間柄であったことが関係していると思われる。

天正4年(1576年)には足利義昭上洛のために、武田・上杉・北条の三国同盟の交渉を担当した。

天正7年(1579年)には北条氏政と武田勝頼との間で同盟が破棄されると、氏規は再び伊豆・韮山城へ入っている。

天正10年(1582年)には武田勝頼が信長によって滅ぼされ、武田の所領であった甲斐・信濃・上野は織田の領地となった。しかし、まもなくして本能寺の変で信長が横死すると、上記の武田旧領は徳川・上杉・北条らによって争奪戦が行なわれた(天正壬午の乱)。

この戦いの主役は徳川氏と北条氏であったが、長期戦の末に両者は和睦して同盟を締結した。氏規が同盟交渉を担当している。

その後は、伊豆を離れて上野国・館林城の城将となる。

やがて天下は秀吉に傾いてゆき、天正15年(1587年)には既に徳川、上杉、毛利といった大大名が秀吉に臣従、同年に九州征伐で島津氏も降伏、天下統一は目の前となっていた。

この時点で秀吉に服従していない主な大名は北条氏と伊達氏だけであり、秀吉は同年末に関東と奥羽の惣無事令(=私闘を禁じた法令)を発令し、北条氏と秀吉との間に緊張が走ることになる。

こうした状況の中、秀吉への臣従を主張した氏規は、家康を介して豊臣家との交渉役を担った。

天正16年(1588年)には秀吉からの上洛要請に対し、当主・氏直に代わって氏規が秀吉に謁見し、北条氏もついに秀吉に臣従した。その後、氏規は北条領へ戻って再び伊豆国韮山城へ入っている。

これで北条氏は安泰かと思われたが、翌天正17年(1589年)に北条家臣で沼田城代の猪俣邦憲が突如、すぐ隣に位置する真田方の名胡桃城を襲撃して奪い取ってしまう事件が勃発した(名胡桃城事件)

これを知った秀吉は惣無事令違反として激怒して北条氏の討伐を決意する。これに対して北条家中では事態の深刻さを理解していなかったが、唯一氏規だけはそれを理解しており、徳川重臣・酒井忠次宛てに書状で北条氏はもはや末期であることを述べている

こうして天正18年(1590年)に豊臣政権による北条討伐が開始された。氏規は韮山城へ籠城して豊臣の大軍を前にしばらくは善戦したものの、最終的には家康の説得を受けて開城した。その後は氏政・氏直父子に降伏を勧める役目を果たし、北条氏は降伏して小田原城も開城となった(小田原征伐)

北条滅亡後

戦後、開戦派とみられた北条氏政・氏照らは処刑となった。氏規は北条氏直とともに助命されて高野山へ追放されるが、のちに秀吉に許されると、翌天正19年(1591年)に河内国丹南郡、文禄3年(1594年)に河内国河内郡に所領を与えられている。

慶長5年(1600年)、関ヶ原合戦の前に病没した。


略年表

  • 天文14年(1545年)、北条当主・北条氏康の五男として誕生。
  • 時期不明、幼少期に今川氏へ人質に送られ、駿府で暮らす
  • 永禄年間(1558-70年)、小田原へ戻り、幕府の相伴衆になる
  • 時期不明、三崎城主となり相模国三浦郡一帯の領国支配を行なう
  • 永禄12年(1569年)、駿河侵攻の際、伊豆国韮山城に入って家康と同盟交渉にあたる。
  • 天正4年(1576年)、足利義昭上洛のため、武田・上杉・北条の三国同盟の交渉を担当。
  • 天正10年(1582年)、天正壬午の乱の際、徳川氏と和睦交渉を担当
  • 天正18年(1590年)、小田原征伐では韮山城で籠城するも、家康の説得を受けて開城。戦後は助命されて北条氏直に従って高野山に赴く。
  • 天正19年(1591年)、秀吉から河内国・丹南郡に所領を与えられる
  • 文禄3年(1594年)、秀吉から河内国・河内郡に所領を与えられる
  • 慶長5年(1600年)、関ヶ原合戦の前に病死。享年56。


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