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【超入門】5分でわかる北条氏康

北条氏康イラスト

後北条氏の初代北条早雲から数え、三代目の当主となった氏康は北条五代の中で最強!?相模の獅子と恐れられた三代目の生涯とは?

生まれと初陣

北条氏康は、2代目当主である北条氏綱の長男として、永正12年(1515年)に誕生した。幼名は「伊勢伊豆千代丸」。 15歳になった享禄2年(1529年)に元服し、左京大夫に任官した。そして翌年の享禄3年(1530年)には、小沢原の戦い(現在の神奈川県川崎市麻生区金程付近)で初陣を飾ることになる。この戦いで氏康は、扇谷上杉家の当主である上杉朝興の陣を急襲し、勝利を収めた。

その後も父の氏綱に従い転戦を重ね、天文7年(1538年)には第一次国府台の戦い(現在の千葉県市川市の一帯)を迎える。 当時の後北条氏は、北関東の扇谷上杉氏だけでなく、房総半島一帯を拠点にした里見氏や、上総国の真利谷氏などと激しく勢力争いを繰り返していた。この戦いもその勢力争いの一環であり、里見氏に擁立され小弓公方と称した足利義明が、里見氏と真里谷氏らの軍勢約1万を従え、国府台城に入るところから始まった。 氏康も父の氏綱と共に江戸城に入場し、小弓連合軍と対峙することになる。結果的には、北条軍に討ち取られた足利義昭の戦死により、あっけなく北条側の勝利で終わる。里見氏に至っては、一度も交戦することなく敗走する始末であった。

父・氏綱の死から河東の乱、さらに河越夜戦

天文10年(1541年)に父の氏綱が死去すると、後北条氏3代目当主として氏康は後を継いだ。しかし後北条氏と富士川の国境沿いで争っていた駿河国の今川義元はこれを見ると、扇谷上杉氏や山内上杉氏と結託し、後北条氏包囲網を着々と作り上げていく。そしてついに天文14年(1545年)、義元は氏康に対して挙兵する。いわゆる第2次河東一乱である。

氏康もこれを迎え撃つべく東駿河へ向かったものの、当初は吉原城や長久保城を落としてしまい、極めて戦況は不利であった。さらに追い打ちをかけるように、北関東における後北条側の重要拠点である川越城が、扇谷上杉氏と山内上杉氏によって包囲されたとの知らせが入る。そこで氏康は直ちに甲斐国の武田晴信(後の信玄)に仲介を頼み、今川義元との停戦および和睦を図ったのだった。その結果、東駿河の一部を今川方へ割譲することで和睦が成立。これで氏康は、関東の上杉勢対策に勢力を集中することが可能になった。

奇跡的な河越夜戦の勝利

今川勢と和睦をして体勢を立て直した氏康は、関東で包囲されている北条綱成を救出すべく、河越城へ急行した。しかし扇谷上杉氏や山内上杉氏に加え、古河公方の足利晴氏までもが上杉側に寝返り、戦況は著しく不利であった。単純に軍勢を比べただけでも、約8万の上杉・足利連合軍に対し、北条軍はわずかに1万足らず。河越城の籠城戦も半年を過ぎ、水や食料の調達も危機的な状況にあった。そこで氏康は、上杉・足利連合軍に城の明け渡しと領土の返還を匂わせながら油断を誘い、夜襲をかける戦術に打って出る。これがまんまと術中にハマり、上杉・足利連合軍は大混乱をきたした挙句、扇谷上杉氏の当主である朝定は戦死。さらに山内上杉氏の憲政は上野国平井へ、足利晴氏は下総国へ敗走した。まさに氏康の劇的な逆転大勝利であった。

甲州および駿河との同盟関係へ

河越夜戦の勝利によりほぼ関東一帯を手中にしたものの、依然として隣国の駿河国や甲斐国との政情は不安定であった。そこでまず氏康は天文23年(1554年)に、娘の早川殿を今川義元の嫡男である今川氏真に嫁がせた。さらに先代当主であった今川氏親の正室・寿桂尼のもとへも、実子の北条氏規を預けた。その一方で氏康は、同年に甲斐国・武田信玄の娘である早川殿を正室に迎え入れた。ここにいわゆる、甲相駿三国同盟が成立したのである。

氏康にとってはこの同盟が成立したことにより、関東に残る抵抗勢力への討伐や、領地経営に専念することが可能となった。特に同盟成立からわずか5年後には早々に隠居し、家督を次男の北条氏政へ譲った上で、自身は小田原城を拠点にしながら実質的な権力を掌握し続けた。

謙信との一進一退の攻防

氏康が隠居した後も情勢は刻々と変わり、周辺国との緊迫状況は続いた。特に駿河国の今川義元が、尾張国の織田信長に討たれると、勢力図が一変。三国同盟が実質的に甲相二国同盟になったのを見計らって、越後国の上杉謙信が関東への侵攻を開始する。 永禄3年(1560年)の「永禄の飢饉」に乗じる形で、北関東にある北条側の拠点となる城を次々と攻略していった。この際には、河越夜戦前まで上杉氏の傘下にあった大名や国人を取り込み、最終的には小田原の北条勢を包囲するところまで追い詰めた。これに対して、氏康および氏政を中心とする北条軍は徹底抗戦。城と町が一体となった、堅固な要塞建築の小田原城に加え、各地で上杉軍の補給線をゲリラ的に分断したおかげで、結果的に上杉軍の遠征を諦めさせたのだった。氏康はその後、北関東を中心に上杉方へ寝返った国人衆の拠点を次々と攻略。同盟関係にあった武田信玄からの援軍もあり、なんとか越後の上杉勢の侵出を食い止めていた。

信玄の侵攻、そして三国同盟の破綻

今川義元が織田信長に討たれたことで、今川氏の没落を見て取った武田信玄は、ついに永禄11年(1568年)に駿河国へ侵攻する。ここにおいて、甲相駿三国同盟の破綻が決定的となった。信玄は今川軍を圧倒すると、三河の徳川勢も加勢して、今川方を掛川城まで追い詰める。他方、北条勢は今川方を援護すべく、氏康は息子の氏政を急行させて武田軍と対峙した。同時に徳川方と密約を結び、武田勢を挟撃する作戦を図る。これを知った信玄は、結果的に甲斐国へ一時退却せざるを得なくなった。ただし三国同盟が破綻したことで、武田・上杉・里見に囲まれることになり、関東の政情は不安定化。そこで氏康は、これまで宿敵だった上杉氏との同盟を試みる。いわゆる越相同盟である。永禄12年(1569年)になると、再び武田軍が関東へ侵攻してきた。これに対して北条方は籠城戦で対抗する構えを見せ、最終的には攻めあぐねた武田軍が撤退を余儀なくされた。ところが翌年になると、病状の進行した氏康は死去。この厳しい情勢を実子の氏政が引き継ぐことになる。一説に氏康は信玄との再同盟を遺言に残したとも言われる。

名言など

わづか飯椀の中へ入る汁を、一度にて汁かけ飯の加減さへ出来ぬ性質にて、何とて八ヶ国の人々の善悪を目利きできやうぞ。

「わずか飯椀の中に入れる汁を、一度で加減もできないような器量で、どうやって関八州(=関東8か国の総称)の人々の善悪を見極めることができるのか。」という意味。
これは氏康が子の氏政と昼食をともにしたときに嘆いた名言で、小事をも疎かな様では大事は成し遂げられない事を説いたものであり、このときの氏康は落胆してはらはらと涙を流したという。(『木阿弥行状記』)

「三世の氏康君は文武を兼ね備えた名将で、一代のうち、数度の合戦に負けたことがない。そのうえに仁徳があって、よく家法を発揚したので、氏康君の代になって関東八ヶ国の兵乱を平定し、大いに北条の家名を高めた。その優れた功績は古今の名将というにふさわしい」と評されている(『北条記』)。

『甲陽軍艦』では、氏康のことを名将とし、川越の夜戦で勝利するなど、関東を武力で従えたとしている。また、氏康の戦法は、敵の油断に目を付けることを第一義とするものだと記している。


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