あなたの好きな戦国武将が詳しく丸ごと早わかり! 最大級の戦国まとめサイト

3分でわかる北条氏康の生涯

北条氏康(ほうじょう うじやす、1515-1571年)は相模の戦国大名で後北条氏の第3代当主。相模の獅子の異名をもつ。

経歴

北条当主・北条氏綱の嫡男として元服後は、扇谷上杉家の上杉朝興との戦い・小沢原の戦い(1530年)で初陣を飾ったとされている。その後は父に従い、各地を転戦し戦功を重ねていった。

このころ、北条氏は扇谷上杉氏・山内上杉氏・甲斐の武田信虎・古河公方・上総の真里谷武田氏・小弓公方・安房の里見氏らによって包囲網が形勢され、窮地に陥っていた。しかし、のちに真里谷武田氏と里見氏での内紛に救われる。

こうした中、今川氏では当主・今川義元の誕生によって武田の間で甲駿同盟(1537年)が締結され、これをきっかけに北条と今川は逆に駿相同盟が破綻。第一次河東一乱(1537年)の勃発により、北条氏は今川氏からの独立を果たした。

氏綱の死(1541年)により北条当主につくが、すぐに一大危機を迎えることとなった。

第二次河東一乱(1545年)では今川・山内上杉・扇谷上杉を相手に窮地に陥るも、今川と和睦。

窮地を脱して勢力拡大へ

河越夜戦(1546年)では、山内上杉・扇谷上杉・古河公方連合の大軍に攻められ、圧倒的劣勢であったが奇襲により、扇谷上杉氏を滅ぼし、大勝利を収めた。

以後、関東における抗争の主導権を確保し、山内上杉氏・常陸の佐竹氏・下野の宇都宮氏、安房の里見氏など、関東諸将との攻防が続いたが、その中で1552年(天文21年)には山内上杉家当主で関東管領の上杉憲政を越後・長尾景虎(のちの上杉謙信)の元へ追いやっている。ただ、このことで上杉謙信と敵対関係となり、のちの関東遠征を招くこととなる。
そうした中、甲相駿三国同盟(1554年)が締結され、より関東での戦いに専念できるようになった。 その後も勢力を拡大し、1559年(永禄2年)には次男・氏政に家督を譲って隠居し、このころは上野国をほぼ支配。

謙信・信玄との攻防

関東遠征(1560年~)では謙信が破竹の勢いで小田原城まで押し寄せてくるが、籠城戦で撃退に成功。 しかし、その過程で北条方の関東諸将の一部が離反し、北条氏の勢力は減退した。

上総国を巡る第二次国府台の戦い(1564年)では里見軍を敗って安房に撤退させた。同年、太田資正を岩付城から追放し、武蔵の大半を再び平定に成功。しかし、のちの三船山合戦(1567年)では里見軍に大敗し、娘婿の太田氏資が戦死、上総の支配権を失った。

信玄によって駿河侵攻(1568-70年)が開始されると、今川との同盟を優先して甲相同盟が破綻。信玄に対抗するために謙信と越相同盟(1569年)を締結する。
同年に武田軍が攻めてきて小田原城を包囲されるも、籠城戦で撃退。しかし、その後の武田軍を追撃した三増峠の戦い(1569年)で大敗を喫した。
その後、まもなくして体調を悪化させ、病死した。

名言など

わづか飯椀の中へ入る汁を、一度にて汁かけ飯の加減さへ出来ぬ性質にて、何とて八ヶ国の人々の善悪を目利きできやうぞ。

「わずか飯椀の中に入れる汁を、一度で加減もできないような器量で、どうやって関八州(=関東8か国の総称)の人々の善悪を見極めることができるのか。」という意味。
これは氏康が子の氏政と昼食をともにしたときに嘆いた名言で、小事をも疎かな様では大事は成し遂げられない事を説いたものであり、このときの氏康は落胆してはらはらと涙を流したという。(『木阿弥行状記』)

「三世の氏康君は文武を兼ね備えた名将で、一代のうち、数度の合戦に負けたことがない。そのうえに仁徳があって、よく家法を発揚したので、氏康君の代になって関東八ヶ国の兵乱を平定し、大いに北条の家名を高めた。その優れた功績は古今の名将というにふさわしい」と評されている(『北条記』)。

『甲陽軍艦』では、氏康のことを名将とし、川越の夜戦で勝利するなど、関東を武力で従えたとしている。また、氏康の戦法は、敵の油断に目を付けることを第一義とするものだと記している。

略年表

永正12年(1515年)
北条氏綱の嫡男として誕生。幼名は伊豆千代丸。
享禄2年(1529年)
この頃に元服する。
享禄3年(1530年)
上杉朝興との戦いで初陣を飾り、大勝する(小沢原の戦い)。
天文4年(1535年)
甲斐・山中合戦に出陣。
天文6年(1537年)
河越城攻略に出陣、同年、父・氏綱と共に鎌倉鶴岡八幡宮に社領を寄進する。
天文7年(1538年)
第一次国府台の戦いに従軍し、小弓公方を滅ぼす。
天文8年(1539年)
将軍・足利義晴から巣鷂(鷹の雛)を贈られる。
天文10年(1541年)
父・氏綱が死去、家督を継いで北条家第3代当主となる。
天文14年(1545年)
第2次河東一乱で今川・山内上杉・扇谷上杉を相手に窮地に陥る。
天文15年(1546年)
劣勢の中で夜襲をかけ、扇谷上杉氏を滅ぼす(河越夜戦)
天文18年(1549年)
関東で大地震が発生し、北条領全域で農民の逃亡が大規模に起きる。
天文19年(1550年)
公事赦免令を発令。同年、上杉憲政の居城・平井城を攻める。
天文20年(1551年)
平井城を陥落、上杉憲政を追い詰め、越後・長尾景虎(のちの上杉謙信)の元へ追いやる。
天文21年(1552年)
上野・武蔵・常陸の佐竹氏、下野の宇都宮氏などの関東諸侯との敵対状況が続く。
天文22年(1553年)
里見氏を攻め始める。
天文23年(1554年)
娘・早川殿を今川氏真に嫁がせ、信玄の娘・黄梅院を嫡男・氏政の正室に迎えることで同盟(甲相駿三国同盟)
弘治3年(1557年)
宇都宮家臣・芳賀高定の宇都宮城奪還のため、古河公方・佐竹氏・那須氏らに宇都宮氏への援軍要請を出す。
永禄2年(1559年)
次男・氏政に家督を譲って隠居、ただし、実権は保持。
永禄3年(1560年)
上杉謙信の関東遠征に上野国の諸城を次々攻略され、氏康は小田原城に籠城。
永禄4年(1561年)
上杉軍に居城・小田原城を包囲されるも守り抜く(小田原城の戦い)
永禄7年(1564年)
第2次国府台合戦で勝利し、上総に勢力を拡大。同年、岩槻城主・太田氏資を調略し、武蔵国の大半の支配権を確立。
永禄9年(1566年)
由良成繁・佐野昌綱・北条高広らを帰順させ、上野国に勢力を拡大。
永禄10年(1567年)
里見軍に大敗し、娘婿の太田氏資が戦死、上総の支配権を失う(三船山合戦)。
永禄11年(1568年)
武田信玄の駿河侵攻の開始により、甲相同盟が破綻。氏康は今川氏を支援。
永禄12年(1569年)
  • 上杉氏と越相同盟を締結。
  • 同年、三増峠の戦いで武田軍に敗北。
元亀元年(1570年)
病にかかり、鎌倉仏日庵で氏康の病気平癒祈願の大般若経の真読が行われる。
元亀2年(1571年)
小田原城で死去。享年57。


あわせて読みたい
北条氏康の家紋
北条氏康トップ / 入門

 PAGE TOP