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北条早雲(伊勢宗瑞)

北条早雲(ほうじょう そううん、1432?-1519年)は戦国時代初期の武将で、戦国大名のパイオニアとして知られる。伊勢宗瑞(いせ そうずい)とも。

経歴

従来の出自は伊勢国の一介の素浪人とされてきたが、近年では室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏の一族との説が有力で、父は伊勢盛定で、盛定は幕府政所執事・伊勢貞親と共に8代将軍足利義政の申次衆という重要な立場であったことが明らかにされてきている。

はじめは生誕地の備中国に居住、のちに上洛して足利義視(将軍義政の弟)に仕えた。応仁の乱(1467-77年)の際、将軍義政と不和となった義視に従い、伊勢国に下向。乱で東軍に属した駿河守護・今川義忠が早雲の姉(または妹)・北川殿と結ばれたため、のちに駿河へ移った。

今川義忠が遠江国の攻略中に討ち死にすると、今川家で家督争いが勃発。義忠の嫡男・龍王丸(のちの今川氏親)と小鹿範満(義忠の従兄弟)と家中が二分したが、早雲がこの紛争を調停し、龍王丸の成人まで範満が家督代行する案で決着させた。その後、龍王丸の成人後も家督を譲らない小鹿範満とその弟・小鹿孫五郎を殺害、龍王丸を今川当主として、今川氏親と名乗らせ、早雲は氏親の家臣となった。
その後、伊豆討入り(1493年)では将軍の命によって堀越公方を滅亡させ、伊豆一国を手に入れると、氏親と連携して領国を拡大していく。1495年(明応4年)には小田原城の奪取に成功すると、相模方面へ本格的に転進し、武蔵立河原の戦い(1504年)では上杉朝良に味方し、上杉顕定・足利政氏ら連合軍を撃退。
扇谷上杉とは同盟関係にあったが、1505年(永正2年)ごろから山内家・扇谷家の両上杉家と敵対し、各地で転戦。この間に小田原周辺で戦国大名による検地として最古の事例である指出検地を実施、また、分国法を制定している。

今川氏の武将としての活動が徐々にみられなくなり、最大の敵となった扇谷上杉家傘下の三浦氏との戦いでは1512年(永正9年)には岡崎城・住吉城を陥落させ、鎌倉に入って玉縄城を築城。やがて三浦氏を滅ぼし、相模国の平定(1516年)を成し遂げた。その後は家督を嫡男・氏綱に譲ってまもなく没した。

略年表

永享4年(1432年)
誕生。※1456年(康正2年)説もあり。
文明8年(1476年)
今川家の家督争いの調停を務める。甥の龍王丸(後の今川氏親)が成人した時、家督を継ぐ旨の和議を誓わせる。

幕府の申次衆・奉公衆に

文明15年(1483年)
9代将軍・足利義尚の申次衆に任命される。
長享元年(1487年)
  • 龍王丸の家督代行をしていた小鹿範満・小鹿孫五郎兄弟を殺害する。
  • このころ、幕府の奉公衆となり、幕府奉公衆・小笠原政清の娘(南陽院殿)を娶り、嫡男・氏綱が誕生する。

今川家臣として

延徳元年(1489年)
龍王丸が今川家の家督を継承して今川氏親と名乗り、早雲は氏親の家臣となる。
明応2年(1493年)
将軍の命を受けて堀越公方を滅ぼす(伊豆討入り)
明応3年(1494年)頃
氏親の家臣として遠江へ侵攻、中遠まで制圧する。
明応4年(1495年)
  • 扇谷上杉家家臣・大森藤頼から小田原城を奪取。
  • 同年、甲斐へ侵攻し、守護・武田信縄と戦う。
文亀年間(1501-04年)頃
三河国へ侵攻する。
永正元年(1504年)
氏親と共に武蔵へ出陣して山内上杉家の山内顕定に勝利(立河原の戦い)。
永正2年(1505年)
以後、山内家、扇谷家の両上杉家と敵対関係になる。

相模国の平定へ

永正3年(1506年)
小田原周辺で指出検地を実施。
永正4年(1507年)
長尾為景・景春と結んで山内顕定を牽制する。
永正6-7年(1509-10年)
武蔵、相模で扇谷上杉家・上杉朝良と交戦。このころには今川の武将としての活動はほぼなくなる。
永正9年(1512年)
相模をほぼ掌握し、鎌倉に玉縄城を築城。
永正13年(1516年)
三浦氏を滅ぼし、相模を平定。
永正15年(1518年)
家督を嫡男・氏綱に譲る。
永正16年(1519年)
死去。


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