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家康の家紋・家系図とそのルーツ

徳川家康の本姓は "松平" である。

松平氏の始祖は松平親氏であり、徳川将軍家によれば親氏は源氏の嫡流であるという。
しかし、これは家康が三河国を平定して松平から徳川に改姓したときに系図を操作したとみられており、実際には松平氏は西三河の土豪にすぎなかったというのが正しい見解のようである。

このためか、松平の系図や歴史には多くの混乱がみられる。

さて、ここでひとまずは松平氏の略系図を以下に示す。

歴代当主の事績

次に歴代当主を初代から順に追って各々の事績をみていこう。

初代親氏・2代泰親

まずは初代親氏と2代目泰親の事蹟についてだが、どうやら伝承レベルでしかなく、その真偽は定かでないようである。それを踏まえた上で以下に簡単に記載した。

  初代親氏(ちかうじ、?-?年)

上野国徳川郷で誕生し、流浪して時宗の僧となり三河国加茂郡松平郷へ移り、土着して勢力を広げたとされる。移った時期は永徳元年(1381年)、明徳年間(1390-94年).永享元年(1429年)など諸説あり。

武略に長け、慈悲深い心の持ち主であり、松平郷の太郎左衛門家に婿入りして同家の富力を背景として、やがて額田郡などに勢力を伸ばしたという。また、松平郷の開発にも努めたという。

  2代泰親(やすちか、?-?年)

「親氏の子、もしくは弟」の2説があり、生誕年は正平19年(貞治3年、1364年)から文安元年(1444年〉まで諸説ある。
額田郡岩津村と同郡岡崎へ進出、それぞれの地で築城している。松平郷に嫡子の信広を置き、岩津を信光に譲渡して自らは岡崎に居住したという。また、本拠は岩津としたようである。

3代信光~6代信忠

3代目信光からは確かな史料にその事蹟があらわれる。着目すべきは6代信忠までに一族が18家にまで拡大(十八松平と呼ばれる)され、多くの庶家を輩出している。

  3代信光(のぶみつ、1401?-88年)

碧海郡安祥城を奪取。本拠岩津を惣領家の親長に、安城を三男親忠に譲る。のちに本拠を安城へ。

  4代親忠(ちかただ、1431?-1501年)

岡崎大樹寺を建設、父とともに活躍して西三河一の勢力になる。家康の家系となる安祥松平氏を興したが、もともとは庶家であり、本来の宗家は岩津松平氏である。

  5代長親(ながちか、1473?-1544年)

駿河・遠江を支配して台頭した今川氏親や、それを支援する北条早雲らと戦った。長親の代は松平勢力は安定していた。

  6代信忠(のぶただ、1490?-1531年)

配下の一門衆や国人らに見限られ、相次ぐ離反等で勢力後退して安城のみとなる。

7代清光・8代広忠

3代目信光からは確かな史料にその事蹟があらわれる。着目すべきは6代信忠までに一族が18家にまで拡大(十八松平と呼ばれる)され、多くの庶家を輩出している。

  7代清康(きよやす、1511-35年)

岡崎城を奪取して、離反した一門衆や国人らも戻ってきて松平勢力を回復させた。やがて西三河を支配すると、東三河、さらには尾張へも触手を伸ばして松平勢力を大きく拡大させていった。
清康の代には松平一門衆が多かったゆえ、軍事力は強化されていたが、一方で内訌のリスクも抱えていた。

若い清康を大きく支えたのは叔父・松平信定であったが、やがて不和となって最期は家臣に討たれるという不慮の死を遂げた。一説に信定の謀略という。

  8代広忠(ひろただ、1526-49年)

父・清康の横死によって居城・岡崎城を庶家の松平信定に支配され、まだ幼かった広忠は追放の身という憂き目に会う。しかし、今川氏の庇護下に入って岡崎城への帰参を果たして晴れて松平当主となる。 内訌状態の松平家の立て直しをはかるが、今度は隣国の織田信秀の侵攻に悩まされ、今川義元からの援軍を得るのと引き換えに嫡男竹千代(=家康)を今川の人質に差しだす約束をし、まもなく不慮の死を遂げた。


上述してきたように、松平氏は初代親氏から5代長親までは順調に三河国で勢力を伸ばしていったが、6代信忠のときに一旦は縮小するものの、7代目清康の代には再び盛り返して三河全土を支配する勢いで一気に勢力拡大に成功した。しかし、一族が多いゆえに清康は最期には内訌で殺害され、以後の松平氏は一気に弱体化してしまった。

家康の父・8代広忠は今川義元の庇護下に入ることを余儀なくされ、さらに家康を今川の人質に差しだす約束をして、まもなく没してしまう。

幼くして父を亡くした家康はこのとき、今川の人質という立場でありながら、護送途中に織田信秀に売り飛ばされて尾張で過ごすという不遇な環境に身を置いていた。さらに当主不在の松平氏はまもなく居城・岡崎城を今川氏に取り上げられ、完全に今川配下の一族となってしまうのである。

しかし、周知のとおり、やがて家康は桶狭間での今川義元の討死をきっかけに岡崎城へ帰参して今川から独立を果たし、三河国を統一して徳川の姓を得るのである。


徳川家の家紋

徳川家康の家紋(三葉葵)
三葉葵(みつばあおい)

今川氏から独立し、心機一転、"徳川"の姓に改姓して家康が用いた徳川氏の家紋。家臣の酒井氏、または本多氏から譲り受けたと伝わる。

徳川将軍家の家紋(江戸中期以降)
江戸中期以降の三葉葵

江戸中期以降に用いられた徳川将軍家の三葉葵


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