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徳川家康の名言・逸話まとめ

幼年・青年期から独立まで

智恵のない鳥(家康6歳)

天文16年(1547年)、竹千代(=家康の幼名)が織田家に捕えられた6歳のとき、熱田の町人からモノマネをする小鳥を献上された。
近臣の者はみな、その小鳥の声を聞いて感心したが、竹千代はその小鳥を町人に返してしまった。その理由を近臣に問われると、竹千代は "自分の智恵がないものは、大将には不要" という。(『名将言行録』)
つまり、このモノマネをする小鳥は、自分の声をもっておらず、人に例えたら "自分の智恵がない者" という解釈である。

大将の器(家康10歳)

天文20年(1551年)、竹千代が今川の人質として駿府にいたあるとき、石合戦を見物に行った。
一方は300人で他方は150人であり、見物している者らは人数の多い方が勝つと思っていたが、家康は「少ない方が必ず勝つ」と言った。いざ合戦ががはじまると少ない方の後方から大勢か駆けつけてきたため、そのとおりになった。
のちに今川義元がこれを聞いて、「将門に将あり」と言って大いに喜び、家康の将来に望みをかけたという。(『名将言行録』)

※将門に将あり=大将を出す家柄に、まさしく大将の器の人物がいたという意味。

義元討死で退却のとき(家康19歳)

永禄2年(1560年)に桶狭間で主君の今川義元が討たれたとき、家康は敵中の大高城にいてその死を知らなかったが、その後まもなくして叔父・水野信元からの使者がやってきて義元討死の報告、および城からの退却を促された。

水野信元は織田方であったため、このとき家康はすぐには城を出ず、義元の死を確信してから退却をして岡崎の大樹寺に向かったという。(『家忠日記増補』『三河物語』他)

三河・遠江支配期(家康独立から本能寺の変まで)

大金を得た百姓の話

労せずして得しところの宝は、身の仇となる(『古老物語』)

「何の苦労もせずに得た宝は、かえって害となる」といった意味。
家康の三河時代、とある三河の百姓が銭の入った瓶を掘り当てて大金を手にし、日々を優雅に送っていたが、気がついたときには借金だけが残り、所有する田畑も手放して日々の生活も困難になった。
これを聞いた家康は家臣たちを戒めようとして冒頭の言葉を言ったという。

盆の窪(家康32歳)

一軍の将たる者は、味方諸人のぼんのくぼばかり見ていて合戦に勝てる者にてはなし(『駿河土産』)

「一手の軍に将たる者が、味方の盆の窪(=首の後ろの中央のくぼんだ部分)ばかり見ていて合戦に勝てるものではない。」という意味。これは家康が元亀3年(1573年)の三方ヶ原の戦いでの武田信玄の戦いぶりに対して発した言葉とされる。大将が戦場の前線に出ずに、後方で采配をふるうばかりでは戦に勝てない、と信玄をののしったのである。

名字を授ける(家康32歳)

三方ヶ原で敗走中の家康は途中で腹が減り、付近の農家に食べ物を求めた。家の者は粥を提供したため、のちに家康はこの農民に「小粥(おがい)」という名字を授けて庄屋にしたという。
また、武田軍の追跡を逃れるために浜松八幡宮の洞窟に一時身を隠したが、家康の乗馬の白い尾が洞窟の外に出ていた。それに気づいた付近の農民が家康に教えたため、家康は尾を隠して上手く逃れた。のちに家康はこの農民に「白尾(しらお)」という名字を授けたという。

恐怖で脱糞?(家康32歳)

敗走して恐怖のあまり脱糞して浜松城に帰還し、家臣にその旨を咎められると「これは味噌だ」と言い放ったという。

空城の計(家康32歳)

敗走して浜松城に帰還した家康は、門を開けたままにして篝火を焚くように命じ、自らは疲れて眠ってしまった。

追撃してきた武田軍は門が開いていることを警戒し、城内に攻め入ってはこなかったため、危機を脱したという。(『名将言行録』)

武田に尊敬の念(家康32歳)

三方ヶ原での敗戦後、家康が浜松城に帰還した際、供回りも少なく、夜陰に乗じての帰還であったことから殿の帰城とは信じて貰えず、しばらく自城に入れなかったという。また、しばらく夢でうなされ、しばしばこの戦で死ぬ夢を見たとも。
また、この戦で武田家に尊敬の念を抱くようになったという。武田氏滅亡後、家康が武田の残党を抱えたのも、山県昌景や小幡信貞の赤備えを井伊直政に継がせたのも敬意の表れだという。

馬場信春からの評価(家康32歳)

三方ヶ原の戦いで、三河の討ち死した者で下郎・人夫も含め、戦いに望まなかった者がいなかったことから、武田家臣の馬場信春は徳川家康、そして上杉謙信に勝る大将はないと思う旨を信玄に伝えた。

信玄が理由を問うと、信春は「三河勢の死骸は味方のほうに倒れているのはうつ伏せており、浜松のほうに倒れているのは皆、仰向けになっております。先年、今川氏真を攻められたとき、遠州一円を徳川家の支配となさり、かたき和親を結んでおられれば、今年あたりは早くも中国・九州の果てまでも手に入っておりましたでしょうに。これだけが後悔の種と存じます」といって下がったという。(『名将言行録』)

信長へ2度も援軍を要請(家康34歳)

天正3年(1575年)の長篠の戦いの直前、家康は三河・長篠城が武田勝頼の軍勢に包囲されたことを受け、2度も信長に援軍要請を行なっている。

信長は最初、武田勝頼はほっておいても近いうちに自滅するとして援軍の要請を拒否したが、2度目は承諾した。
信長が承諾したのは、家康が援軍を出してくれないなら武田勝頼と組み、信長の尾張国を攻めるという事をほのめかしたからだという。

武田滅亡を予言?(家康34歳)

長篠の戦いの直前、武田方は鳥居強右衛門を捕えて磔の刑にした。
これに対して家康は「武田勝頼は大将の器ではなく、勝頼が武運尽きて滅亡するときは譜代家臣も離反する」との内容を言ったという。

また、長篠の決戦の前に武田の陣をみて、鉄砲によって自軍が勝利することを言ったという。

パンツは少し黄色いくらいがいい?

男子の下帯には、もめんの白きより、浅黄に染めたるがよしとおおせられし(『古老物語』)

「男の下着は白いものより、少し黄色く染めたもののほうがよい」といった意味。

家康が上記の言葉を言ったが、家臣らは閉口して誰も賛同せずに従わなかったという。戦国当時の武士たちはいつ戦場で死ぬかわからないため、下着くらいは白でありたいと思っていたようである。

世の治乱と天気は同じ?

世の治乱、天気と同事なり(『武功雑記』)

「世の中が治まることと乱れることは、天気と同じようなものである。」という意味。

これを言ったときの家康は、信長の命で天正7年(1579年)正室・築山殿と嫡男・信康を殺さざるを得なかったことを思い浮かべていたという。

武田勝頼を酷評(家康41歳)

親を非にみるというは、孝子のなさざるところなり。父に孝なき人、いかでか忠臣ならんや(『武野燭談』)

「親を非とすることは、親に孝行な子のすることではない。父に尽くさないような者がどうして忠臣といえるのか。」といった意味。

これは家康が武田家を滅亡させた武田勝頼を指して言った言葉という。信玄の死後に後継者となった武田勝頼は、家臣の諌めも聞かずに強引に合戦を繰り返したあげく、家中の離反を招き、最期には織田・徳川連合に滅ぼされる運命をたどったのである。

国家の治乱は1日で変化?(家康41歳)

天地の格は定まりたることなきものなり。いま有ると思えば、たちまちに失せ、また無しと思えば、即ち出生するごとく、国家の治乱も、一日に治まり一日に乱れる(『故老諸談』)

「天下は定まることがないものだ。いま定まっていると思えばたちまち消え失せ、定まっていないと思えば出生するかのように、 世の治乱も1日で治まり1日で乱れる」といった意味。

天下統一は信長がほぼ掌握していたが、明智光秀に討たれて1日で天下は乱れてしまった。その後まもなくして中国大返しを敢行した羽柴秀吉が光秀を討ちとり、その混乱を鎮めた。

家康はこのときに天下の儚さを悟り、上記のように言ったという。

秀吉時代(本能寺の変以後~秀吉の死まで)

恐ろしいのは勇者よりも臆病者(家康43歳)

この世におそろしき者、勇者にあらず臆病者にて候

「この世で真に恐ろしいのは、勇者ではなく、臆病者だ」といった意味。

これは天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いを控えて、家康が側近にもらした言葉という。
この戦いでは信長の二男・織田信雄が秀吉と仲違いし、家康に救いを求め、「織田・徳川連合 vs 秀吉」という構図での戦いだったが、最終的には信雄が秀吉に攻め込まれ、単独で講和してしまった。
家康の言う臆病者というのは、どうやらこの信雄を指しているようである。

自分が切腹なら、大政所を殺せ!(家康45歳)

天正14年(1586年)、家康と秀吉の和睦後、秀吉は家康を上洛させて臣従させるために、妹の旭姫を家康の正室にして、さらには母・大政所を人質として家康の居城・岡崎城に送った。

こうして上洛して秀吉に服従する決意をした家康は、万が一にも自分が切腹するような事があれば、大政所を殺すように家臣に命じたという。(『名将言行録』)

秀吉から拝領した羽織を投げ捨てる(家康45歳)

天正14年(1586年)、秀吉に臣従することになり、家康が京都から戻ったある日のこと。
冷たい風が吹く朝に家康は羽織を求めたが、家臣から差し出されたのは関白秀吉から送られた羽織だった。これに家康は顔をしかめ、「時世に従う習いだから上方にいるときはそれを着るが、本国にいるときにこのような華麗のものを用いては、わが家法を乱れさせる」と言って、その羽織を投げ捨てたという。(『徳川実記』)

上洛した秀忠をすぐに返した秀吉の謀(家康49歳)

天正18年(1590年)、家康は三男の長丸(=のちの徳川秀忠)を秀吉と初対面するために上洛させた。

まもなく秀吉軍による小田原征伐があったため、家康はその人質のつもりで上洛させたのであったが、すぐに帰らされた。
家康は、秀吉が小田原征伐で出陣する際に自分たちの諸城を借りようというもくろみを察知し、家臣らにその準備をさせると、3日ほどして秀吉から城を借りたい旨の書状が届いたため、みな家康の先見の明に感心したという。(『名将言行録』)

秀吉の性質(家康49歳)

秀吉が小田原征伐で沼津城に軍勢を2~3日滞在するという噂があり、家康が秀吉接待の用意を命じずにいると、井伊直政ら重臣たちに理由を聞かれた。
家康がいうには、秀吉は "才ある者を妨げ、鈍である者は害を与えない" ということであり、ついには秀吉を接待しなかったという。(『名将言行録』)

工夫・思案が大切

何にも構はず、我等跡にて、天下二代も三代も、替らざる様に、国風すなほの仕置、工夫、思案の分別は、大仏何体建立にも、遥かにまさるべきと思ふぞ。(『岩淵夜話別集』)

「自分(=家康)が死んだ後、天下が2代も3代も続いて替わらないよう、工夫・思案するのは、大仏を何体も建立することよりもはるかに勝るものだ。」という意味。
これは秀吉に対する皮肉と思われる。秀吉は難攻不落の巨城・大阪城を築城したり、方広寺の大仏を造営して後世に名を残そうとしたのであり、ケチな家康を非難していたという。

最高の宝は人材

器物は何ほどの名物にても、 肝要の時に用に立たず。 宝の中の宝といふは人にて留めたり(『岩淵夜話別集』)

「器物はどんな名物であれ、肝心なときに役に立たない。宝の中の宝というのは人材である。」といった意味。

かつて太閤秀吉が家康に対し、天下の宝というものの大半を集めたことを自慢して、家康の宝は何なのかを訪ねた。このとき家康は "家臣が最高の宝" と言い、これに秀吉は赤面して返答もしなかったという。(『名将言行録』)

秀吉死後(秀吉死後~江戸幕府創設まで)

関ヶ原決戦で野戦に持ち込む(家康59歳)

慶長4年(1600年)9月の関ヶ原決戦を目前にして、籠城戦で疲弊させようともくろむ西軍の作戦を察知した家康は、野戦に持ち込むため、"西軍の拠点・大垣城に抑えとなる軍勢を置いて、すぐに大阪城を攻める" という旨の内容を触れさせ、これを知った西軍の諸将らは城から出撃して戦うことになったという。(『名将言行録』)

武田信玄と石田三成のおかげ

我天下を治むるの事、武田信玄と石田治部少輔両人の御影にて、かようになりし(『老談記』)

「自分が天下を治めることができたのは、武田信玄と石田三成の2人のおかげである。」という意味。

家康はかつて武田信玄に攻め込まれて滅亡の危機にまで追い込まれたが、こうした経験を経て信玄の政治や軍略などを学び、のちに武田旧家臣を取り込んで徳川家臣団を再編している。
いうまでもないが、石田三成は関ヶ原の戦いの西軍の首謀者であり、家康は東軍の総大将としてこれを打ち破り、天下を治めている。

江戸幕府下

慎重に攻めろ!(家康74歳)

白鳥でさへ、これを捕ふるに、四人懸りならでは、捕へられぬもの。(『武功雑記』)

「白鳥でさえ、これを捕えるのに4人がかりでなければ捕えられないものだ」という意味。これは慶長20年(1615年)の大阪夏の陣のとき、大阪城を攻める秀忠に対して言ったとされる家康の言葉である。

身の程を知れ

五字にていわば、上を見な。七字にていわば、身のほどを知れ(『駿台雑話』)

「五文字で言えば "上を見るな"。 七文字で言えば "身のほどを知れ"」という意味。これは晩年の家康が次世代を担う若手らに対して言った訓戒。

その他の名言・格言・教訓など

家臣の諌めを聞く

およそ人の上に立って、下の諌めを聞かざる者の、国を失い、家を破らざるは、古今とも、これなし(『岩淵夜話別集』)

「人の上に立って家来の諌めを聞かなかった者が、国を失って家を滅ぼすこともなかった、ということは、昔をみても例がない。」といった意味。


およそ主君を諫める者の志、 戦いで先駆けするよりも大いに勝る(『常山紀談』)

「主君への諫言は、戦場での先駆けの功名よりも勝る」といった意味。主君へ諫言することは、処罰のリスクがとても高く、妻子・子孫にまでそれが及ぶことがその理由だという。

道の悪い場所で馬に乗るな

道の悪しき所にて馬より下りるは、大坪流に極意の一伝なり。そうじて少しも危きと思うところにて馬には乗らぬものなり(『駿河土産』)

「道の悪いところで馬から降りて歩くことは、大坪流の極意のひとつにある。総じて少しでも危険と思うところでは馬には乗らないものである。」といった意味。

家康は乗馬に関し、家中の誰よりも勝る腕前だったという。家康は少しでも道の悪い所に差しかかると、馬から降りて歩いたため、家臣が不思議に思って家康に理由を尋ねた。それに対して家康が言ったのが上記の言葉である。

あらゆることに用心

万事に用心のなきと言ふはなし。(『岩淵夜話別集』)

「万事に心を傾け、注意を払え。」といった意味。何事も手堅い家康の教訓である。

天下は誰のもの?

天下は天下之人の天下にして、我一人の天下とは思ふべからず。国も又、一国之人の国にして、一人の国にはあらず。(『武野燭談』)

「この天下(=日本全国)は天下に住んでいる人々の天下であり、自分一人の天下と思ってはならぬ。国もまた、その国に住んでいる人々の国であり、一人(=大名)の国ではない。」という意味。これは家康から二代将軍・秀忠や諸大名にあたえた教訓の言葉と思われる。

奢りが身を滅ぼす

大臣寵臣身命を破るはみな、奢りより起こるなり(『明良洪範』)

「大臣や重臣たちが破滅する原因は、すべて自らの奢りから起こる。」といった意味。

道理を知ること

人は上下大小に限らず事の道理を分別し、知ること専要なり、然るにこの味を知るもの稀なり。(『故老諸談』)

「人は上下大小に限らず、その道理を判別して知ることが重要だ。しかし、この意味を知るものは稀である。」という意味。

自分に悪い事=相手にも悪い事

我がために悪しきことは、ひとのためにも悪しきぞ。(『塩尻』)

「自分のために悪いことは、人のためにも悪いことである」といった意味。

東照宮御遺訓(家康の遺訓)

人の一生は重荷を負って遠き道をゆくがごとし いそぐべからず
不自由を常とおもへば不足なし
こころに望みおこらば困窮したる時を思ひ出すべし
堪忍は無事長久の基 怒りは敵と思へ
勝事ばかり知て負くることをしらざれば害其身に至る
おのれを責て人をせむるな
及ばざるは過ぎたるよりまされり

意味はおおむね以下のとおり。

  • 人の一生というのは重荷を背負って遠い道を行くようなものだ。急いではいけない。
  • 不自由を常と思えば不満に思わない。
  • 欲が生じたならば、苦しかった時を思い出すことだ。
  • 忍耐が無事に長く安らかでいられる基礎であり、怒りは敵と思え。
  • 勝つことばかり知り、負けを知らなければ、その身に害が及ぶ。
  • 自分を責め、他人を責めるな。
  • 何事も及ばないほうが、やり過ぎるほうよりはよい。

辞世の句

先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ

「先に死ぬのも後に残るのも(死ぬ運命なのは)同じ事。連れて行けないのが死であり、別れなのだな」といった意味。


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