あなたの好きな戦国武将が詳しく丸ごと早わかり! 最大級の戦国まとめサイト

竹千代誕生と人質時代のはじまり(1542-54年)

竹千代誕生

家康は天文11年(1542年)12月26日、三河(愛知県)の岡崎城内で松平宗家の松平広忠と於大の方との間にが誕生した。

幼名を”竹千代”といい、この名は父や祖父も名乗ったものであり、大浜称名寺の住持其阿が命名したという(『東照宮年譜』など)。このとき父・広忠は17歳であり、母於大の方も15歳という若さだったという。

松平家は竹千代の祖父・松平清康の代には西三河に勢力を拡大させていたが、清康が尾張へ出陣中に家臣に殺害されて以降、若すぎる当主・広忠と一族内での内訌を抱え、尾張国で急速に勢力を伸ばしてきた織田信秀を相手に、単独で戦う力は失われていた。

こうしたことから松平は隣国の今川氏に援助を求めており、既にその庇護下にあった。
そして当時の今川は、今川義元の代であり、その支配領域は駿河・遠江だけでなく、三河へも進出するほどに拡大していたのである。

両親との離別、織田と今川の人質に

家康の幼少期はまさに苦難の道であったことはよく知られているが、さっそくその一歩が訪れる。

翌年、竹千代の母方の祖父で刈屋城主であった水野忠政が没して嫡男の水野信元が後継者になると、天文13年(1543年)に信元は織田氏に属することになった(『松平記』ほか)。

信元は竹千代の叔父にあたり、母・於大の方の兄にあたる人物である。その信元が今川の敵である織田に属したとなると、今川の援助を受けている広忠の立場は苦しくなる。今川の庇護がなければ松平氏は滅亡の危機を迎えることになるため、広忠はやむなく於大の方と離別することにした。

水野氏は尾張国南部の知多半島と三河国西部に領地をもつ、松平氏と同等の勢力を誇る豪族であり、広忠と於大の方は政略結婚であった。信元の代に織田と同盟を結んだことは、すなわち松平氏と水野氏の同盟は解消されたということである。

こうして竹千代はわずか3歳にして母と離別することなったのである。

その後、広忠は織田信秀の勢力とたびたび交戦したが、天文16年(1547年)に織田の軍勢が攻めてきた際に今川氏へ援軍を要請した。このときに今川義元が援軍を出す交換条件として人質を要求し、このため竹千代が人質として駿府に送られることになった。

竹千代の護送は西郡(蒲郡市)から舟で渥美郡田原に出て、そこから陸路を進む予定であったが、途中で田原城主・戸田康光が竹千代一行をあざむいて舟で尾張の熱田に送り、竹千代を織田信秀に引き渡してしまい、その康光は謝礼をうけとったという(『三河物語』『家忠日記増補』)。

竹千代は6歳で早くも人質生活となったのである。

信秀は竹千代を楯にして松平氏を味方にしようと勧誘したが、広忠が拒否したため、尾張に留め置かれて人質時代を過ごすことになったのであるが、どのように暮らしていたのか等の詳細は不明である。また、のちの盟友となる織田信長はこのとき14歳であったが、出会ったのか、ともに過ごしたのか、等もよくわかっていない。

やがて2年の時を経て、今度は駿府の今川義元の元へ送られることになる。

天文18年(1549年)3月、父・広忠が死没。死因は病気や暗殺などの説があって定かではない。
この時点で後継者の竹千代が織田の人質となっていることから、岡崎城の松平家臣が織田方に属する恐れがあった。
このため、広忠の死の知らせを聞いた今川義元はすぐに軍勢を派遣して岡崎城を接収させ、松平氏の重臣・妻子を駿府に移した。

そして続く同年11月、義元は織田信広の守る三河安祥城を攻め、信広を生け捕りにすると、竹千代との人質交換を提示して織田方と和睦成立となった。

ここに竹千代は久しぶりに故郷・岡崎城へ戻ることができたのであるが、これもつかの間の10数日であり、12日に父・広忠の墓に参拝(「岡崎松応寺文書」)、27日には今度は今川の人質として駿府に送られることになったのである(『三河物語』ほか)。

竹千代8歳のときであった。以後、竹千代は桶狭間の戦いで義元が討死後に岡崎に帰参した19歳まで12年という長い間、今川の人質を強いられるのである。

駿府での人質生活

駿府での人質生活は元服するまでは確かな記録がほとんどないようである。

まず、駿府のどこに住んでいたのかであるが、以下のように諸説あって定かではない。

  • 『松平記』:宮の前に御屋敷あり
  • 『武徳編年集成』:宮ヶ崎
  • 『三河物語』;駿府の少将の宮の町

上記にみるように史料によって表現が異なっているが、"宮"という1字は共通しており、これが”少将の宮”という神社(=少将井社)を示しているらしい。江戸時代には駿府城の南端の位置にあったといい、その場所に竹千代が住んでいた可能性が高いようである。

また、竹千代の屋敷の左隣は、北条氏から今川への人質として送られていた北条氏規の屋敷だったという(『駿国雑志』)。 氏規と竹千代は同じ境遇からか、仲がよかったと伝えられている。ちなみに氏規は北条3代目・北条氏康の五男であり、秀吉の小田原征伐の際には、たびたび上洛して秀吉と交渉を重ね、豊臣政権との衝突回避に奔走している。

誰に養育・教育されたのか?

さて、次に竹千代は誰から養育・教育を受けていたかである。

一人は祖母・於富の方(おとみ)である。
彼女は 於大の方の母であり、駿府で義元の許可を得て竹千代が16歳になるまで養育したといい、当時彼女は出家して源応尼と名乗り、駿府の智源院という寺にいて竹千代の手習いの相手をしたという。

もう一人は過去に今川義元も教育した今川の軍師・太原雪斎である。竹千代は駿府の臨済寺で雪斎から教えをうけたものとみられている。


あわせて読みたい
織田信長の名言・逸話まとめ
織田信長トップ / 入門
徳川家康の名言・逸話まとめ
徳川家康トップ / 入門
3分でわかる徳川家康の生涯
徳川家康トップ / 入門
【超入門】5分でわかる今川義元
今川義元トップ / 入門

 PAGE TOP